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名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 勝って兵を引く

○此役、晴信大に勝利を得たり。諸將此勢に乘じ、濱松を屠らんとす。晴信、織田信長が、謀未だ知るべからずと言て、軍を旋す。此時信長、白須賀に毛利秀賴、山中に瀧川一益、吉田に稻葉貞通、三將一萬餘人、兵を潛めて變を待たしむ。晴信、若し勝に乘じ長驅せば、信長自ら二萬五千を以て挾み擊んとす。之に依り吉田より岐阜までの間に、奸細を一里に一人づつ置て、急を報ぜしむ。晴信の慮淺からずと、織田、德川の兩家にて、之を譽めしとぞ。 ○此役、酒井忠次曰く、今夜武田の軍兵疲れんは必定なり、夜擊せんとて、忍を出し、晴信の陣屋の樣を見せけるに、爰には何色の旗の紋あり、彼所には此色の旗を立てりと言けるを聞て疲れたる兵を後陣に引退け、後陣を先に繰替たるなり。信玄の慮淺からずと言て、夜擊はせざりけり。 ○晴信、信濃に兵を出せし時、鳩一羽庭前の樹上に來る。衆見て口々に私語て喜ぶ色あり。晴信其故を問ければ、鳩樹上に來る時、合戰大勝にあらざることなし、御吉例に候と答ふ。晴信、鳥銃を以て忽ち其鳩を打落して、衆の惑を解けり。鳩若し來らざる時は、衆疑沮する心ありて、戰危からんことを慮りしが故なり。

新字:○此役、晴信大に勝利を得たり。諸将此勢に乗じ、浜松を屠らんとす。晴信、織田信長が、謀未だ知るべからずと言て、軍を旋す。此時信長、白須賀に毛利秀頼、山中に滝川一益、吉田に稲葉貞通、三将一万余人、兵を潜めて変を待たしむ。晴信、若し勝に乗じ長駆せば、信長自ら二万五千を以て挟み撃んとす。之に依り吉田より岐阜までの間に、奸細を一里に一人づつ置て、急を報ぜしむ。晴信の慮浅からずと、織田、徳川の両家にて、之を誉めしとぞ。 ○此役、酒井忠次曰く、今夜武田の軍兵疲れんは必定なり、夜撃せんとて、忍を出し、晴信の陣屋の様を見せけるに、爰には何色の旗の紋あり、彼所には此色の旗を立てりと言けるを聞て疲れたる兵を後陣に引退け、後陣を先に繰替たるなり。信玄の慮浅からずと言て、夜撃はせざりけり。 ○晴信、信濃に兵を出せし時、鳩一羽庭前の樹上に来る。衆見て口々に私語て喜ぶ色あり。晴信其故を問ければ、鳩樹上に来る時、合戦大勝にあらざることなし、御吉例に候と答ふ。晴信、鳥銃を以て忽ち其鳩を打落して、衆の惑を解けり。鳩若し来らざる時は、衆疑沮する心ありて、戦危からんことを慮りしが故なり。

書き下し

○此役、晴信大に勝利を得たり。諸將此勢に乘じ、濱松を屠らんとす。晴信、織田信長が、謀未だ知るべからずと言て、軍を旋す。此時信長、白須賀に毛利秀賴、山中に瀧川一益、吉田に稻葉貞通、三將一萬餘人、兵を潛めて變を待たしむ。晴信、若し勝に乘じ長驅せば、信長自ら二萬五千を以て挾み擊んとす。之に依り吉田より岐阜までの間に、奸細を一里に一人づつ置て、急を報ぜしむ。晴信の慮淺からずと、織田、德川の兩家にて、之を譽めしとぞ。 ○此役、酒井忠次曰く、今夜武田の軍兵疲れんは必定なり、夜擊せんとて、忍を出し、晴信の陣屋の樣を見せけるに、爰には何色の旗の紋あり、彼所には此色の旗を立てりと言けるを聞て疲れたる兵を後陣に引退け、後陣を先に繰替たるなり。信玄の慮淺からずと言て、夜擊はせざりけり。 ○晴信、信濃に兵を出せし時、鳩一羽庭前の樹上に來る。衆見て口々に私語て喜ぶ色あり。晴信其故を問ければ、鳩樹上に來る時、合戰大勝にあらざることなし、御吉例に候と答ふ。晴信、鳥銃を以て忽ち其鳩を打落して、衆の惑を解けり。鳩若し來らざる時は、衆疑沮する心ありて、戰危からんことを慮りしが故なり。

現代語訳

この戦いで晴信は大勝を得ました。諸将はこの勢いに乗って浜松を攻め潰そうとしました。しかし晴信は、「織田信長の謀はまだ分からない」と言って、軍を引き返しました。このとき信長は、白須賀に毛利秀頼、山中に滝川一益、吉田に稲葉貞通と、三将一万人あまりを潜ませて変事を待たせていました。もし晴信が勝ちに乗って長駆していれば、信長自らが二万五千の兵で挟み撃ちにするつもりでした。そのため吉田から岐阜までの間に、一里ごとに間者を一人ずつ置いて急を知らせる態勢をとっていました。晴信の思慮は浅くないと、織田・徳川の両家でこれを褒めたということです。 この戦いで酒井忠次は、「今夜は武田の軍兵が疲れているに違いない。夜討ちをかけよう」と、忍びを出して晴信の陣屋の様子を探らせました。忍びが「ここには何色の旗の紋があり、あそこにはこの色の旗が立っています」と報告するのを聞いて、疲れた兵を後陣に退け、後陣を先に入れ替えたことが分かりました。「信玄の思慮は浅くない」と言って、夜討ちはしませんでした。 晴信が信濃に兵を出したとき、鳩が一羽、庭先の木の上に来ました。人々はこれを見て口々にささやき、喜ぶ様子でした。晴信がそのわけを問うと、「鳩が木に来たときは、合戦で大勝しなかったことがありません。吉例です」と答えました。晴信は鉄砲でただちにその鳩を撃ち落とし、人々の迷いを解きました。鳩がもし来なかった時に、皆が疑い気落ちして、戦が危うくなることを考えたからです。

解説

三つの逸話はいずれも、勝ち戦の後や縁起をめぐる判断を描きます。岡谷繁実が諸書から集めた話で、信長の伏兵や酒井忠次の夜討ちの見送りは、そう語られる話として読むのが穏当です。共通するのは、勢いと験担ぎに流されず、見えていない相手の手を想定する姿勢です。吉例の鳩を撃ち落とす話は、縁起への依存が、いざ外れたときの士気の崩れにつながると見たものと語られます。好調の時こそ引き際を考える、験より備えで組織を立てる、という点が現代の仕事に通じます。
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本の中身を見る

この章句が説くこと

晴信引き際慎重伏兵験担ぎ士気

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