名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 敗走の将に任せる
○九年、村上勢海尻の城を攻む。時に本城に、小山田備中昌辰、二三の郭に、日向大和、長坂左衞門尉賴弘、(註:後釣閑と號す)信州降參の衆と共に守り居たりしに、信州衆、村上と内應し、樂岩寺光氏の攻來りしに、夜中内より火を掛け、敵を引入れたりしかば、日向、長坂不意を撃たれ、防守の術を失ひ、散々に落ちたりしに、端なく晴信後詰として出でしに、行き逢ふ。大和馬より飛で下り、路の傍に平伏す。晴信早くも見付け、夫に居るは大和かと問ければ、大和面目なく、斯の如き體にて御目見仕候段、恥入候と申す。晴信斯る時は誰も斯くあるべき筈なり、去れど能くこそ是まで無事にて遁れ來れり、余も滿足せり、嘸ぞ無念にありつらん、勞れたりとも、是より引返して、今日の先陣賴み入るなり、且つ大馬印を預くる間、一ト功名あれかしと言ひしかば、大和涙を流し、面目身に餘り候と言ふもあへず、馬に打乘り、大音揚け、南無弓矢八幡、小山田が存命の内に馳せ着せ給へと乘出し、勇氣凛然として、日比に十倍す。晴信又近臣を使として、大和の勇勢常より勵し、勝利疑ひなしと言遣はす。大和君命の忝を謝し、直ちに海尻に乘付け大功を立てたり。晴信一言にて、日向死を究めしなり。
新字:○九年、村上勢海尻の城を攻む。時に本城に、小山田備中昌辰、二三の郭に、日向大和、長坂左衛門尉頼弘、(註:後釣閑と号す)信州降参の衆と共に守り居たりしに、信州衆、村上と内応し、楽岩寺光氏の攻来りしに、夜中内より火を掛け、敵を引入れたりしかば、日向、長坂不意を撃たれ、防守の術を失ひ、散々に落ちたりしに、端なく晴信後詰として出でしに、行き逢ふ。大和馬より飛で下り、路の傍に平伏す。晴信早くも見付け、夫に居るは大和かと問ければ、大和面目なく、斯の如き体にて御目見仕候段、恥入候と申す。晴信斯る時は誰も斯くあるべき筈なり、去れど能くこそ是まで無事にて遁れ来れり、余も満足せり、嘸ぞ無念にありつらん、労れたりとも、是より引返して、今日の先陣頼み入るなり、且つ大馬印を預くる間、一ト功名あれかしと言ひしかば、大和涙を流し、面目身に余り候と言ふもあへず、馬に打乗り、大音揚け、南無弓矢八幡、小山田が存命の内に馳せ着せ給へと乗出し、勇気凛然として、日比に十倍す。晴信又近臣を使として、大和の勇勢常より励し、勝利疑ひなしと言遣はす。大和君命の忝を謝し、直ちに海尻に乗付け大功を立てたり。晴信一言にて、日向死を究めしなり。
書き下し
○九年、村上勢海尻の城を攻む。時に本城に、小山田備中昌辰、二三の郭に、日向大和、長坂左衞門尉賴弘、(註:後釣閑と號す)信州降參の衆と共に守り居たりしに、信州衆、村上と内應し、樂岩寺光氏の攻來りしに、夜中内より火を掛け、敵を引入れたりしかば、日向、長坂不意を撃たれ、防守の術を失ひ、散々に落ちたりしに、端なく晴信後詰として出でしに、行き逢ふ。大和馬より飛で下り、路の傍に平伏す。晴信早くも見付け、夫に居るは大和かと問ければ、大和面目なく、斯の如き體にて御目見仕候段、恥入候と申す。晴信斯る時は誰も斯くあるべき筈なり、去れど能くこそ是まで無事にて遁れ來れり、余も滿足せり、嘸ぞ無念にありつらん、勞れたりとも、是より引返して、今日の先陣賴み入るなり、且つ大馬印を預くる間、一ト功名あれかしと言ひしかば、大和涙を流し、面目身に餘り候と言ふもあへず、馬に打乘り、大音揚け、南無弓矢八幡、小山田が存命の内に馳せ着せ給へと乘出し、勇氣凛然として、日比に十倍す。晴信又近臣を使として、大和の勇勢常より勵し、勝利疑ひなしと言遣はす。大和君命の忝を謝し、直ちに海尻に乘付け大功を立てたり。晴信一言にて、日向死を究めしなり。
現代語訳
九年、村上勢が海尻の城を攻めました。その時、本城には小山田備中昌辰が、二、三の郭には日向大和、長坂左衛門尉頼弘(註:後に釣閑と号す)が、信州の降参した衆とともに守っていましたが、信州衆が村上と内通し、楽岩寺光氏が攻め寄せた時、夜中に内から火を掛け、敵を引き入れたので、日向と長坂は不意を撃たれ、防ぎ守る手立てを失い、散々に落ち延びました。そこへ思いがけず、晴信が後詰として出てきたところに行き逢いました。大和は馬から飛び降り、道の傍らに平伏しました。晴信は早くも見つけ、そこにいるのは大和かと問いました。大和は面目なく、このような姿でお目にかかりますことは恥じ入ります、と申しました。晴信は、このような時は誰もこうなるはずだ、それでもよくぞこれまで無事で逃れてきた、私も満足である、さぞ無念であろう、疲れていても、これから引き返して、今日の先陣を頼む、かつ大馬印を預けるので、一つ功名を立ててほしい、と言いました。大和は涙を流し、面目は身に余ります、と言うのも終わらぬうちに馬に乗り、大声を上げ、南無弓矢八幡、小山田が存命のうちに馳せ着かせ給え、と乗り出し、勇気凛然として、日頃の十倍になりました。晴信はまた近臣を使いとして、大和の勇ましい勢いは常より励んでいる、勝利は疑いなしと言い送りました。大和は君命の有難さを謝し、直ちに海尻に乗り付けて大功を立てました。晴信の一言で、日向は死を覚悟したのでした。
解説

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