名将言行録 / 『名将言行録』吉川元春 驕る敵を迎え撃つ
○九年七月、秀吉數萬人を以て、鳥取を圍み、其糧道を斷ち、之を攻むること甚だ急なり。輝元之を援はんとすれども、四方疆上の成りあれば、殘る兵士甚だ寡し。隆景富田に在り、召募すること、數日にして、未だ進まず、元春出て援はんとしければ、輝元、隆景より大敵に僅の勢を以て、對陣せられんは、何の益か候べき、今暫く待ち給へと言ひし故、其儘八幡に控へしが、鳥取落城近きに逼りぬと聞えしかば、兵の集まるを待居て、何かせんと言つゝ馳せて、伯耆馬野山に至れば、吉川式部少輔經家既に自殺し、城既に陷る。元春之を聞き、切齒して曰く、因幡に入り、經家が爲めに一戰せんと言ひ、既に發せんとせし時、秀吉南條伯耆守元續を見續くべき爲めに、近日伯耆へ打入り、八橋城を陷れ、夫より富田へ攻入るべしとの覺悟に候と、重波を打て告け來りしかば、元春左あらば、秀吉を待て戰はんとて、其儘馬野山に陣す。秀吉之を聞き、去らば吉川を討取るべしとて、二十七日、羽衣石山續きの高山に打上け、馬野山を下視す。其兵六萬と稱す。馬野山、左は湖水、右は山、後は橋津川に遶り、僅に一橋を通ぜり。陣する所は、平山なれば、頭上より下撃せば、一人も生きて歸る者あるべからず、如何に勇將の元春と雖も、今夜一夜はよも怺ゆまじと、見えける間、京勢共哀れ、吉川今夜許り怺よかし、明けなば一文字に切掛り、分捕高名せんものをと、勇み罵らぬはなかりけり。元春は嫡子元長、次男元氏、三男廣家、相共に打出て、敵陣を遙に見渡し、敵軍兼ねては六萬餘と聞えしが、左計りはなかりけり、四萬に少しや餘るべし。思ふに秀吉我軍を寡しと侮る心あり、將驕は敗亡の端なり、今日既に午天も過ぎぬれば、人馬を休め、且つは吾陣の樣體をも伺ふべし、然らば當陣へは明日ぞ切掛るべし、待受けて秀吉の旗本へ、無二無三に切入り、手の下に討取るべし。
新字:○九年七月、秀吉数万人を以て、鳥取を囲み、其糧道を断ち、之を攻むること甚だ急なり。輝元之を援はんとすれども、四方疆上の成りあれば、残る兵士甚だ寡し。隆景富田に在り、召募すること、数日にして、未だ進まず、元春出て援はんとしければ、輝元、隆景より大敵に僅の勢を以て、対陣せられんは、何の益か候べき、今暫く待ち給へと言ひし故、其儘八幡に控へしが、鳥取落城近きに逼りぬと聞えしかば、兵の集まるを待居て、何かせんと言つゝ馳せて、伯耆馬野山に至れば、吉川式部少輔経家既に自殺し、城既に陥る。元春之を聞き、切歯して曰く、因幡に入り、経家が為めに一戦せんと言ひ、既に発せんとせし時、秀吉南条伯耆守元続を見続くべき為めに、近日伯耆へ打入り、八橋城を陥れ、夫より富田へ攻入るべしとの覚悟に候と、重波を打て告け来りしかば、元春左あらば、秀吉を待て戦はんとて、其儘馬野山に陣す。秀吉之を聞き、去らば吉川を討取るべしとて、二十七日、羽衣石山続きの高山に打上け、馬野山を下視す。其兵六万と称す。馬野山、左は湖水、右は山、後は橋津川に遶り、僅に一橋を通ぜり。陣する所は、平山なれば、頭上より下撃せば、一人も生きて帰る者あるべからず、如何に勇将の元春と雖も、今夜一夜はよも怺ゆまじと、見えける間、京勢共哀れ、吉川今夜許り怺よかし、明けなば一文字に切掛り、分捕高名せんものをと、勇み罵らぬはなかりけり。元春は嫡子元長、次男元氏、三男広家、相共に打出て、敵陣を遥に見渡し、敵軍兼ねては六万余と聞えしが、左計りはなかりけり、四万に少しや余るべし。思ふに秀吉我軍を寡しと侮る心あり、将驕は敗亡の端なり、今日既に午天も過ぎぬれば、人馬を休め、且つは吾陣の様体をも伺ふべし、然らば当陣へは明日ぞ切掛るべし、待受けて秀吉の旗本へ、無二無三に切入り、手の下に討取るべし。
書き下し
○九年七月、秀吉數萬人を以て、鳥取を圍み、其糧道を斷ち、之を攻むること甚だ急なり。輝元之を援はんとすれども、四方疆上の成りあれば、殘る兵士甚だ寡し。隆景富田に在り、召募すること、數日にして、未だ進まず、元春出て援はんとしければ、輝元、隆景より大敵に僅の勢を以て、對陣せられんは、何の益か候べき、今暫く待ち給へと言ひし故、其儘八幡に控へしが、鳥取落城近きに逼りぬと聞えしかば、兵の集まるを待居て、何かせんと言つゝ馳せて、伯耆馬野山に至れば、吉川式部少輔經家既に自殺し、城既に陷る。元春之を聞き、切齒して曰く、因幡に入り、經家が爲めに一戰せんと言ひ、既に發せんとせし時、秀吉南條伯耆守元續を見續くべき爲めに、近日伯耆へ打入り、八橋城を陷れ、夫より富田へ攻入るべしとの覺悟に候と、重波を打て告け來りしかば、元春左あらば、秀吉を待て戰はんとて、其儘馬野山に陣す。秀吉之を聞き、去らば吉川を討取るべしとて、二十七日、羽衣石山續きの高山に打上け、馬野山を下視す。其兵六萬と稱す。馬野山、左は湖水、右は山、後は橋津川に遶り、僅に一橋を通ぜり。陣する所は、平山なれば、頭上より下撃せば、一人も生きて歸る者あるべからず、如何に勇將の元春と雖も、今夜一夜はよも怺ゆまじと、見えける間、京勢共哀れ、吉川今夜許り怺よかし、明けなば一文字に切掛り、分捕高名せんものをと、勇み罵らぬはなかりけり。元春は嫡子元長、次男元氏、三男廣家、相共に打出て、敵陣を遙に見渡し、敵軍兼ねては六萬餘と聞えしが、左計りはなかりけり、四萬に少しや餘るべし。思ふに秀吉我軍を寡しと侮る心あり、將驕は敗亡の端なり、今日既に午天も過ぎぬれば、人馬を休め、且つは吾陣の樣體をも伺ふべし、然らば當陣へは明日ぞ切掛るべし、待受けて秀吉の旗本へ、無二無三に切入り、手の下に討取るべし。
現代語訳
○天正九年七月、秀吉は数万の兵で鳥取城を囲み、その食糧の道を断って、きわめて激しく攻めました。輝元は救おうとしましたが、四方の国境の守りがあって、動かせる兵はごく少数でした。隆景は富田にいて兵を募りましたが、数日たってもまだ進めませんでした。元春が出て救おうとすると、輝元と隆景から、大敵にわずかな勢で対陣しても何の益がありましょう、いましばらくお待ちくださいと言ってきたため、そのまま八幡に控えていました。ところが鳥取城の落城が近いと聞こえたので、兵が集まるのを待っていて何になるかと言って馳せつけ、伯耆の馬野山に着くと、吉川式部少輔経家はすでに自害し、城は落ちていました。元春はこれを聞いて歯ぎしりして言いました。因幡に入って、経家のために一戦しよう。出発しようとしたとき、秀吉が南条伯耆守元続を見捨てないために、近日伯耆へ攻め入り、八橋城を落として、そこから富田へ攻め入る覚悟だと、重ねて知らせてきました。元春はそれならば秀吉を待って戦おうと、そのまま馬野山に陣を置きました。秀吉はこれを聞いて、それなら吉川を討ち取ろうと、二十七日、羽衣石山に続く高山に上がり、馬野山を見下ろしました。その兵は六万と称しました。馬野山は、左は湖、右は山、後ろは橋津川がめぐり、わずかに一本の橋が通じているだけです。陣取った所は平山なので、頭上から攻め下ろせば一人も生きて帰る者はなく、勇将の元春でも今夜一晩はこらえられまいと見えました。京勢の兵たちは、吉川よ、今夜だけは持ちこたえてくれ、夜が明ければまっしぐらに斬りかかって分捕りの手柄を立てようものをと、勇み立って口々に言いました。元春は嫡子元長、次男元氏、三男広家とともに出て、敵陣を遠く見渡し、敵は六万余と聞いていたが、それほどはない、四万を少し超える程度だろう。思うに秀吉はわが軍を少数と侮る心がある。大将の驕りは敗亡のはじまりだ。今日はすでに正午も過ぎたので、人馬を休め、また味方の陣の様子をうかがおう。そうすれば敵は明日この陣に斬りかかってくるはずだ。待ち受けて、秀吉の旗本へ死にもの狂いに斬り込み、手元で討ち取ろうと言いました。
解説

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