史記 / 白起王翦列伝
王翦者、頻陽東鄉人也。少而好兵、事秦始皇。秦始皇既滅三晉、數破荊師。秦將李信年少壯勇。始皇問李信、吾欲攻取荊、於將軍度用幾何人而足。李信曰、不過用二十萬人。始皇問王翦、王翦曰、非六十萬人不可。始皇曰、王將軍老矣、何怯也。李將軍果勢壯勇、其言是也。遂使李信及蒙恬將二十萬南伐荊。王翦言不用、因謝病、歸老於頻陽。李信攻平與、大破荊軍。荊人隨之、三日三夜不頓舍、大破李信軍、入兩壁、殺七都尉、秦軍走。
新字:王翦者、頻陽東鄉人也。少而好兵、事秦始皇。秦始皇既滅三晉、数破荊師。秦将李信年少壮勇。始皇問李信、吾欲攻取荊、於将軍度用幾何人而足。李信曰、不過用二十万人。始皇問王翦、王翦曰、非六十万人不可。始皇曰、王将軍老矣、何怯也。李将軍果勢壮勇、其言是也。遂使李信及蒙恬将二十万南伐荊。王翦言不用、因謝病、帰老於頻陽。李信攻平与、大破荊軍。荊人随之、三日三夜不頓舎、大破李信軍、入両壁、殺七都尉、秦軍走。
書き下し
王翦は、頻陽東郷の人なり。少くして兵を好み、秦の始皇に事ふ。秦の始皇既に三晋を滅ぼし、数々荊師を破る。秦の将李信年少壮勇なり。始皇李信に問ふ、「吾荊を攻取せんと欲す、将軍に於いて幾何の人を用ひて足ると度るか」と。李信曰く、「二十万人を用ふるに過ぎず」と。始皇王翦に問ふ。王翦曰く、「六十万人に非ざれば不可なり」と。始皇曰く、「王将軍老いたり、何ぞ怯なる。李将軍果勢壮勇、其の言是なり」と。遂に李信及び蒙恬をして二十万を将ゐて南のかた荊を伐たしむ。王翦言用ひられず、因りて病と謝し、頻陽に帰老す。李信平与を攻め、大いに荊軍を破る。荊人之に随ひ、三日三夜頓舎せず、大いに李信の軍を破り、両壁に入り、七都尉を殺し、秦軍走る。
現代語訳
王翦は頻陽の東郷の人である。若いころから兵法を好み、秦の始皇に仕えた。始皇はすでに三晋(韓・魏・趙)を滅ぼし、たびたび楚軍を破っていた。秦の将・李信は年若く勇壮であった。始皇は李信に尋ねた。「私は楚を攻め取りたい。将軍は、何人あれば足りると見るか」。李信は言った。「二十万人あれば十分です」。始皇は王翦に尋ねた。王翦は言った。「六十万人でなければできません」。始皇は言った。「王将軍も老いたな。なんと臆病なことか。李将軍は決断力があり勇壮だ。彼の言うとおりだろう」。こうして李信と蒙恬に二十万を率いさせ、南へ楚を討たせた。王翦は意見が容れられなかったので、病と称して頻陽へ隠退した。李信は平与を攻め、楚軍を大いに破った。しかし楚軍は李信を追撃し、三日三晩、宿営もせずに追い続け、李信の軍を大破して二つの陣営に攻め入り、七人の都尉を殺した。秦軍は敗走した。
解説
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