甲陽軍鑑 / 品第十四
又みかたの國は信濃·甲州·駿河三ヶ國、扨遠州半·上野半·合て一國、此外三河一郡·美濃二郡·越中二郡·飛彈半國·武藏の內少々取合すれば中の國一國程也、以上五〃國の人衆は、如右積れば四萬なれ共、信玄公御在世の時の被成樣にて、信州に人衆多くして少シ餘慶あれども、駿州小國にて只五千有故、甲州家の惣着到四萬八千なり、小田原北條家の惣着到に二萬二千五百すくなし、北條家は七萬五百と聞く、信玄公の時、各家老衆大づもり此分なり、我等なき跡にても御心得のために如此に候、長坂長閑老·跡部大炊介殿、
新字:又みかたの国は信濃·甲州·駿河三ヶ国、扨遠州半·上野半·合て一国、此外三河一郡·美濃二郡·越中二郡·飛弾半国·武蔵の内少々取合すれば中の国一国程也、以上五〃国の人衆は、如右積れば四万なれ共、信玄公御在世の時の被成様にて、信州に人衆多くして少シ余慶あれども、駿州小国にて只五千有故、甲州家の惣着到四万八千なり、小田原北条家の惣着到に二万二千五百すくなし、北条家は七万五百と聞く、信玄公の時、各家老衆大づもり此分なり、我等なき跡にても御心得のために如此に候、長坂長閑老·跡部大炊介殿、
書き下し
又みかたの国は信濃·甲州·駿河三ヶ国、扨遠州半·上野半·合て一国、此外三河一郡·美濃二郡·越中二郡·飛弾半国·武蔵の内少々取合すれば中の国一国程也、以上五〃国の人衆は、如右積れば四万なれ共、信玄公御在世の時の被成様にて、信州に人衆多くして少シ余慶あれども、駿州小国にて只五千有故、甲州家の惣着到四万八千なり、小田原北条家の惣着到に二万二千五百すくなし、北条家は七万五百と聞く、信玄公の時、各家老衆大づもり此分なり、我等なき跡にても御心得のために如此に候、長坂長閑老·跡部大炊介殿、
現代語訳
また味方の国は信濃・甲州・駿河の三か国、さて遠州半国・上野半国を合わせて一国、このほか三河一郡・美濃二郡・越中二郡・飛騨半国・武蔵の内少々を取り合わせれば中の国一国ほどである。以上五か国の人数は右のように積もれば四万であるが、信玄公ご在世の時のなされ方で、信州に人数が多くて少し余裕があるものの、駿州は小国でただ五千あるので、甲州家の総着到は四万八千である。小田原北条家の総着到より二万二千五百少ない。北条家は七万五百と聞く。信玄公の時、各家老衆の大積もりはこのとおりである。我らの亡き後にもお心得のためにこのように記す。長坂長閑老・跡部大炊介殿。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四家康も父子二人合せて五大将が十四ケ国半の勢なり、但三ケ国は各境目のをさへに置べし、是は中国毛利家のをさへ斗り、越前は七年以前永禄十二巳年六月廿八日に信長·家康両人にしまけ候へは、是もつて我身の用心にて信長の国を望にあらず、おさへ四千斗りにて然るべし、伊賀の国其外に一万、中国に一万合て二万四千、但三ケ国の人衆大つもり如此、残りて家康国をそへて十一ケ国半なり、大国中州をゆり合、一国に八千づゝの大づもりにすれば、かたく九万二千五百也、
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『甲陽軍鑑』品第十四さて此度長篠にて信長の人衆九万二千五百といへ共、堅く七万あまり有るべし、子細は遠き国の衆は役義をへらすをもつて如此、扨みかたは遠州家康と分持ちなれば、此人衆動かず、駿河は信玄公御他界より三年已来、北条氏政表裏の様にて此用心に駿河勢働かず、上野衆も武蔵氏政のもち成る故、跡は人衆を残し置く、三河·美濃·飛弾·越中、勿論境目なれば、加勢をこそ尤なれ共、さなくては此人衆よぶに不及、信州勢は越後の謙信公大强敵の老功にて、殊に此比は加賀·越中かげて六ケ国に及び手に入り給へば、此おさへに壱万三千の人数を置き給ふ事、信玄公の時より備へ定め如此、各甲州勢の多きは越後のおさへいらざる故なり、
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『呻吟語』内篇・應務・事を料るに疏にして身を謀るに拙なり事を料るに疏にして、身を謀るに拙なるは、明哲なる者の懼るる所なり。
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『韓非子』南面第十八人臣、事を言うを易くする者は、資を索むること少なくして、事を以て主を誣う。主、誘われて察せず、因りて之を多とすれば、則ち是れ臣反りて事を以て主を制するなり。是くの如き者は之を誘と謂い、事に誘わるる者は患に困しむ。其の進言は少なく、其の退費は多く、功有りと雖も、其の進言信ぜられず。
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史記 白起王翦列伝王翦は、頻陽の東郷の人なり。少くして兵を好み、秦の始皇に事ふ。始皇の十一年、翦将として趙の閼与を攻め、これを破り、九城を抜く。十八年、翦将として趙を攻む。歳余にして、遂に趙を抜き、趙王降り、尽く趙の地を定めて郡と為す。明年、燕、荊軻をして秦に賊を為さしむ、秦王、王翦をして燕を攻めしむ。燕王喜、遼東に走り、翦遂に燕の薊を定めて還る。秦、翦の子王賁をして荊を撃たしむ、荊の兵敗る。還りて魏を撃ち、魏王降り、遂に魏の地を定む。秦の始皇既に三晋を滅ぼし、燕王を走らせ、而して数々荊の師を破る。秦の将李信なる者は、年少く壮勇、嘗て兵数千を以て燕の太子丹を逐ひて衍水の中に至り、卒に丹を破り得たり。始皇以て賢勇と為す。是に於いて始皇、李信に問ふ、「吾、荊を攻め取らんと欲す、将軍に於いて度るに幾何人を用ひて足らん」と。李信曰く、「二十万人を用ふるに過ぎず」と。始皇、王翦に問ふ、王翦曰く、
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論語・子路篇子曰く、苟くも我を用うる者有らば、期月にして已に可なり。三年にして成る有らん。
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