名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 幼少期の三つの逸話
治部少輔弘元の子、從四位上に叙し、陸奧守に任ず。山陰山陽西海にて十三州を平げ、吉田城に住す。元龜二年六月十四日卒、年七十五。從三位を贈る。 ○元就、幼名少輔次郎と曰ふ。其傅、或時元就を抱き、水を濟りし時過て躓き、溺る。傅惶懼して罪を謝す。元就曰く、道を行き躓くは常なり、聊か心を勞するに及ばずと。 ○元就、七歲の時、白鷄を愛じ飼しが、或夜失せたり。明日元就所々を尋ねければ、築山の邊に鷄の羽あり。築山に狐の穴あれば疑がふべきもなき狐の所爲なり。夫れ燻べ殺せとて松の葉を多く取集めたるを母聞て使を馳せて頻りに之を止む。元就曰く、家臣喧嘩し、一方を殺したらんに、殺せし者を助け給ふや、此鷄は狐に慮外も致すまじ、夫れを殺して食する條、其罪輕からず、鷄も家來、狐も我邸地に居れば、殺すに無理は候まじとて使を返せり。 ○元就、十二歲の時嚴島の神祠に詣で、既に歸り從者に向ひ、今日汝等何を祈りしと問ふ。皆皆稚き人の氣に合ふ樣に、夫々に答ふ。其中に傅たりし者が曰く、我等は只殿に中國を皆持たせ參らせ度と存じ祈誓せりと。元就聞て、中國を皆とは愚なり、日本を持つべき祈誓申さんものをと言ければ、傅先づ此邊を悉く取り給ひてこそと申す。元就日本を皆取らんと思はゞ、漸く中國を取るべし、中國を取らんと思はゞ、何として中國を取るやと言へり。聞者之を奇なりとす。
新字:治部少輔弘元の子、従四位上に叙し、陸奥守に任ず。山陰山陽西海にて十三州を平げ、吉田城に住す。元亀二年六月十四日卒、年七十五。従三位を贈る。 ○元就、幼名少輔次郎と曰ふ。其傅、或時元就を抱き、水を済りし時過て躓き、溺る。傅惶懼して罪を謝す。元就曰く、道を行き躓くは常なり、聊か心を労するに及ばずと。 ○元就、七歳の時、白鶏を愛じ飼しが、或夜失せたり。明日元就所々を尋ねければ、築山の辺に鶏の羽あり。築山に狐の穴あれば疑がふべきもなき狐の所為なり。夫れ燻べ殺せとて松の葉を多く取集めたるを母聞て使を馳せて頻りに之を止む。元就曰く、家臣喧嘩し、一方を殺したらんに、殺せし者を助け給ふや、此鶏は狐に慮外も致すまじ、夫れを殺して食する条、其罪軽からず、鶏も家来、狐も我邸地に居れば、殺すに無理は候まじとて使を返せり。 ○元就、十二歳の時厳島の神祠に詣で、既に帰り従者に向ひ、今日汝等何を祈りしと問ふ。皆皆稚き人の気に合ふ様に、夫々に答ふ。其中に傅たりし者が曰く、我等は只殿に中国を皆持たせ参らせ度と存じ祈誓せりと。元就聞て、中国を皆とは愚なり、日本を持つべき祈誓申さんものをと言ければ、傅先づ此辺を悉く取り給ひてこそと申す。元就日本を皆取らんと思はゞ、漸く中国を取るべし、中国を取らんと思はゞ、何として中国を取るやと言へり。聞者之を奇なりとす。
書き下し
治部少輔弘元の子、從四位上に叙し、陸奧守に任ず。山陰山陽西海にて十三州を平げ、吉田城に住す。元龜二年六月十四日卒、年七十五。從三位を贈る。 ○元就、幼名少輔次郎と曰ふ。其傅、或時元就を抱き、水を濟りし時過て躓き、溺る。傅惶懼して罪を謝す。元就曰く、道を行き躓くは常なり、聊か心を勞するに及ばずと。 ○元就、七歲の時、白鷄を愛じ飼しが、或夜失せたり。明日元就所々を尋ねければ、築山の邊に鷄の羽あり。築山に狐の穴あれば疑がふべきもなき狐の所爲なり。夫れ燻べ殺せとて松の葉を多く取集めたるを母聞て使を馳せて頻りに之を止む。元就曰く、家臣喧嘩し、一方を殺したらんに、殺せし者を助け給ふや、此鷄は狐に慮外も致すまじ、夫れを殺して食する條、其罪輕からず、鷄も家來、狐も我邸地に居れば、殺すに無理は候まじとて使を返せり。 ○元就、十二歲の時嚴島の神祠に詣で、既に歸り從者に向ひ、今日汝等何を祈りしと問ふ。皆皆稚き人の氣に合ふ樣に、夫々に答ふ。其中に傅たりし者が曰く、我等は只殿に中國を皆持たせ參らせ度と存じ祈誓せりと。元就聞て、中國を皆とは愚なり、日本を持つべき祈誓申さんものをと言ければ、傅先づ此邊を悉く取り給ひてこそと申す。元就日本を皆取らんと思はゞ、漸く中國を取るべし、中國を取らんと思はゞ、何として中國を取るやと言へり。聞者之を奇なりとす。
現代語訳
治部少輔弘元の子。従四位上に叙せられ、陸奥守に任ぜられた。山陰・山陽・西海で十三州を平らげ、吉田城に住んだ。元亀二年六月十四日に没し、年七十五。従三位を贈られた。 元就は幼名を少輔次郎といった。その傅が、あるとき元就を抱いて水を渡った際、誤って躓き、水に落ちて溺れた。傅はおそれ入って罪を謝した。元就は言った。「道を行って躓くのは普通のことだ。少しも心を労することはない。」 元就が七歳のとき、白い鶏をかわいがって飼っていたが、ある夜いなくなった。翌日元就があちこち探すと、築山のあたりに鶏の羽があった。築山に狐の穴があるので、疑いもなく狐の仕業である。「それならいぶし殺せ」と言って松の葉をたくさん集めたのを、母が聞いて使いを走らせ、しきりにこれを止めた。元就は言った。「家臣が喧嘩して、一方を殺したなら、殺した者をお助けになりますか。この鶏は狐に無礼もしないでしょうに、それを殺して食うのですから、その罪は軽くありません。鶏も家来、狐も我が屋敷地にいるのですから、殺すのに無理はありますまい」と言って使いを返した。 元就が十二歳のとき厳島の神社に詣で、すでに帰って従者に向かい、「今日おまえたちは何を祈ったか」と尋ねた。皆、幼い人の気に合うように、それぞれに答えた。その中で傅であった者が言った。「私どもはただ、殿に中国をすべて持たせてさしあげたいと祈誓しました。」元就は聞いて、「中国をすべてとは愚かだ。日本を持つことを祈誓すればよいものを」と言うと、傅は「まずこのあたりをことごとくお取りになってこそ」と申した。元就は言った。「日本をすべて取ろうと思ってこそ、ようやく中国を取れる。中国を取ろうと思うだけなら、どうして中国を取れるだろうか。」聞く者はこれを不思議なことだとした。
解説

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名将言行録・『名将言行録』毛利元就 雪合戦と雨乞い○元就の子、元春、隆景、幼き時雪打するを、元就密に物蔭より見るに、兩息幼年の者を四人づゝ卒る、五人づゝ左右に立分れ、雪を打つ。元春頻りに打掛るにより、隆景終に打負けたり。暫くして隆景、今一度參るべしとて、打掛るを見るに、三人なり。元春勝たる勢に乘じ、無二無三に五人にて打掛る、隆景少し退く如くにして、徐々に引掛け、元春が急に押掛るを待ち、預め二人伏せ置き、橫合より荒手を以て頻りに打たせければ、元春終に打負け引退く。元就之を見、雙方に勝あり、此上は無用なりとて制止す。偖元就、此子供成人の上にて弓矢を思ひ立ならば、嫡子隆元を旗本となし元春、隆景を先鋒とすべし、傳へ聞く北國は人氣一向にして剛强のみを宗として計策少く、南國は人の往來繁く、舟の通行多ければ、上手形儀にして計策を好めり、右の雪打の體を以て考るに、北國は元春、南國は隆景と兼ねて思ひ定めたり。後其の如く元春は北國、隆景は南國を攻伐し、終に元就をして十餘州の大守とは爲してけり。 ○元就、領國一年大旱にて水なし、百姓共打集まり雨を祈る。元就之を聞き、百姓共の雨乞を制止し、自ら潔齋して天に祈り、戰死の跡を弔ひ、忠節の臣を加祿し、軍功の家に賜はり物ありて、三日の間施行せり。是より後二日にして大雨降りしかば、五穀大に成就す。民大に喜び隣國までも其德を慕ひしかば、程なく中國を服從せり。
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名将言行録・『名将言行録』毛利元就 評・遅い出発と完璧な言動たゞ何と云つても、スタートが遲い。嚴島の戰前は、やつと十萬石位の大名である。嚴島の役で大勝したときが、五十二歳である。これでは日暮れて道遠しである。尼子を片づけると同時に、死んだのである。せめて、嚴島の時が、四十位であつたならば、先づ上洛したのは、信長でなくして元就であつたかも知れない。明人の人相見が、漢高祖、唐の太宗の相を兼ねてゐると云つてゐるが、必ずしもヨクではない。武將として政治家としても、殆んど缺點を見出し得ないほどの大人物である。たゞ吉川興經の所へ息子の元春を養子にやり、その後で興經を殺したりするところは、少しいやだが、降將尼子義久の晩年を安らかに送らせたりしたことは、感じがよい。 儒臣法橋惠瓊をやつつけるところなど、こんな逞しく物の判る大將は、外にないと云つてよいだらう。 長藩が、維新の時に活躍した原動力の一部は、元就に依つて養はれたと云つてよい位である。 家來の膿を吸つてやることも、なか〱出來ないことだらうが、家來がそれに感動して、死して恩に報ぜんとする色が見えると、(汝わが擧動に感じ、厚き恩信とは思ば、大勇の士に非ず)と云ふに至つては、その言動完璧である。 人物としては、戰國時代第一等であると思ふ所以である。
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名将言行録・『名将言行録』毛利元就 侮る者は君たらず○元就、門司の城を攻む。大友左衞門督義鎭之を聞き、大軍を率る、後詰す。元就圍を解き、船にて速に沖へ引返せり。大友の家老瀧田民部、只一騎にて波打際に來る。浦宗勝、只一人船を戻し鎗を合はせ、民部を突伏せ、高名して又船に乘る。此時味方の者何人か陸に上り鎗を合はせしと、口々に言けるを、元就聞て只一人ならば浦兵部なるべしと言ふ。果して然り、宗勝は小早川隆景が臣なり。 ○元就、中國を平げし時、諸將を會して曰く、汝等は皆我手足なれば我心を告るなり。此度追々服從する國に仕置するに付て申なり。侮二其人一者不レ君二其土一と云語を忘れざる樣に能く心得よ、と敎諭せられけり。後眞田幸村聞て深く讚歎せり。 ○元就敵國を切り從へ、千貫二千貫取る先方衆を召抱ゆると雖も、其者譜代の五十貫三十貫取る士を執して上座に上げ、覺えある譜代の人々には方々の忠功にて取給はぬ知行を新參の我等式に澤山賜はりし段御腹立は御道理千萬なり抔と言ふ。又覺えもなく言甲斐なき人をも譜代となれば敬ひ、且つ思ふ樣、あの樣なる人も元就公と云ふ名將を頼む故、人に執しらるゝ、是非我等も忠節を致し、以來治る國の先方衆に崇めらるべきと覺悟致すにより、元就の威次第に增りしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』毛利元就 病を喜ぶ家臣を叱る○元就の老臣共、一年尼子晴久大病なりと聞き喜び、元就にも必ず喜ばるべしと思ひ、斯くと告ければ、元就案の外氣色を變じ、汝等左樣のこと遠慮もせずして申出すべきことにあらず、何となれば、我等出雲へ發向のこと其れ隱れなし、此時に當り大將病氣抔と申觸すこともあるべし、其心を察せず、吉事の樣に我等父子の前にて申出す條無用の至なりと言て、大に腹立せしかば、是より晴久病氣の沙汰止みしとぞ。然れども實病なれば幾程もなく病死せり。 ○永祿三年正月二十七日、正親町天皇卽位の禮を行はせらる。是より先、弘治三年、踐祚し給ひしかども、五畿七道一同に亂れ、三年を過て卽位の禮を行はせらるべき樣のなかりしを、元就傳へ聞き、彼料を調進せり。爰に於て大禮旣に行はれ、二月十五日其勸賞として元就を陸奧守に、隆元を大膳太夫に成され、菊桐の章を賜ふ。是は廣元の先蹤を追はれしことゝぞ。將軍義輝之を聞き、大に感じて錦の鎧、直垂を賜はり、鎭西の守護職に補せられたり。
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