韓非子 / 外儲說左上第三十二
曰:「寧信度,無自信也。」四。王登爲中牟令,上言於襄主曰:「中牟有士曰中章、胥己者,其身甚修,其學甚博,君何不舉之?」主曰:「子見之,我將爲中大夫。」相室諫曰:「中大夫,晉重列也,今無功而受,非晉臣之意。君其耳而未之目邪!」襄主曰:「我取登,既耳而目之矣;登之所取,又耳而目之。是耳目人絶無已也。」王登一日而見二中大夫,予之田宅。中牟之人弃其田耘、賣宅圃而隨文學者,邑之半。叔向御坐,平公請事,公腓痛足痺轉筋而不敢壞坐。晉國聞之,皆曰:「叔向賢者,平公禮之,轉筋而不敢壞坐。」晉國之辭仕託慕叔向者,國之錘矣。鄭縣人有屈公者,聞敵,恐,因死;恐已,因生。趙主父使李疵視中山可攻不也。還報曰:「中山可伐也。君不亟伐,將後齊、燕。」主父曰:「何故可攻?」李疵對曰:「其君見好巖穴之士,所傾蓋與車以見窮閭隘巷之士以十數,伉禮下布衣之士以百數矣。」君曰:「以子言論,是賢君也,安可攻?」疵曰:「不然。
新字:曰:「寧信度,無自信也。」四。王登為中牟令,上言於襄主曰:「中牟有士曰中章、胥己者,其身甚修,其学甚博,君何不舉之?」主曰:「子見之,我将為中大夫。」相室諫曰:「中大夫,晋重列也,今無功而受,非晋臣之意。君其耳而未之目邪!」襄主曰:「我取登,既耳而目之矣;登之所取,又耳而目之。是耳目人絶無已也。」王登一日而見二中大夫,予之田宅。中牟之人弃其田耘、売宅圃而随文学者,邑之半。叔向御坐,平公請事,公腓痛足痺転筋而不敢壊坐。晋国聞之,皆曰:「叔向賢者,平公礼之,転筋而不敢壊坐。」晋国之辞仕託慕叔向者,国之錘矣。鄭県人有屈公者,聞敵,恐,因死;恐已,因生。趙主父使李疵視中山可攻不也。還報曰:「中山可伐也。君不亟伐,将後斉、燕。」主父曰:「何故可攻?」李疵対曰:「其君見好巖穴之士,所傾蓋与車以見窮閭隘巷之士以十数,伉礼下布衣之士以百数矣。」君曰:「以子言論,是賢君也,安可攻?」疵曰:「不然。
書き下し
曰く、「寧ろ度を信ずとも、自ら信ずること無きなり。」四。王登中牟の令と為り、上りて襄主に言ひて曰く、「中牟に士の中章・胥己と曰ふ者有り、其の身甚だ修まり、其の学甚だ博し、君何ぞ之を挙げざる。」主曰く、「子之に見えよ、我将に中大夫と為さんとす。」相室諫めて曰く、「中大夫は、晋の重列なり、今功無くして受くるは、晋臣の意に非ず。君其れ之を耳にして未だ之を目にせざるか。」襄主曰く、「我登を取る、既に之を耳にして之を目にせり。登の取る所、又之を耳にして之を目にせば、是れ人を耳目すること絶えて已む無し。」王登一日にして二中大夫を見えしめ、之に田宅を予ふ。中牟の人其の田耘を棄て、宅圃を売りて文学に随ふ者、邑の半ばなり。叔向坐に御す、平公事を請ふ、公腓痛み足痺れ転筋して敢て坐を壊らず。晋国之を聞き、皆曰く、「叔向は賢者なり、平公之を礼し、転筋して敢て坐を壊らず。」晋国の仕を辞し託して叔向を慕ふ者、国の錘なり。鄭県の人に屈公なる者有り、敵を聞きて、恐れ、因りて死す。恐れ已みて、因りて生く。趙の主父李疵をして中山の攻むべきや不やを視しむ。還りて報じて曰く、「中山伐つべきなり。君亟やかに伐たずんば、将に斉・燕に後れんとす。」主父曰く、「何の故に攻むべき。」李疵対へて曰く、「其の君巌穴の士を見ることを好み、蓋を傾け車を与にして以て窮閭隘巷の士に見ゆる所の者十を以て数へ、礼を伉して布衣の士に下る者百を以て数ふ。」君曰く、「子の言を以て論ずれば、是れ賢君なり、安んぞ攻むべけんや。」疵曰く、「然らず。
現代語訳
(鄭の人が靴を買いに行ったが、足の寸法書きを家に忘れたので取りに帰った。戻ると市は閉まっていた。「自分の足で試せばよかったのに」と言われて、)彼は言った。「寸法書きは信じても、自分の足は信じられない。」四。王登が中牟の県令となり、主君の趙の襄子に申し上げた。「中牟に中章と胥己という士がいます。身の行いは正しく、学問はたいそう広い。主君はなぜ彼らを登用なさらないのですか。」襄子は言った。「あなたが彼らに会ってみよ。私は中大夫にしようと思う。」宰相が諫めた。「中大夫は晋の重い位です。功績もないのに授けるのは、晋の臣たちの望むところではありません。主君は評判を耳にしただけで、ご自分の目で確かめておられないのではありませんか。」襄子は言った。「私が王登を取り立てたとき、すでに耳で聞き目で確かめた。王登が選んだ者までまた耳で聞き目で確かめるなら、人を確かめることに終わりがなくなる。」王登は一日で二人を中大夫として目通りさせ、田地と屋敷を与えた。中牟の人々で、田畑の耕作をやめ、家や畑を売って学問に走る者が町の半分にもなった。叔向が晋の平公の前に侍っていたとき、平公は政務について教えを請い、ふくらはぎが痛み足がしびれてこむら返りを起こしても、あえて姿勢を崩さなかった。晋の人々はこれを聞いて、みな言った。「叔向は賢者だ。平公は彼を礼遇して、こむら返りを起こしても姿勢を崩さなかった。」晋の国で官を辞して叔向を慕い身を寄せる者が、国中のかなりの数にのぼった。鄭県の人に屈公という者がいた。敵が来たと聞くと恐ろしさのあまり気を失い、恐れが去ると息を吹き返した。趙の主父は李疵に、中山国を攻めてよいかどうかを視察させた。李疵は帰って報告した。「中山は討つべきです。主君がすぐに討たなければ、斉や燕に先を越されるでしょう。」主父が「なぜ攻めてよいのか」と言うと、李疵は答えた。「中山の君は、山奥の岩屋に住む隠者に会うのを好み、車の覆いを傾けて同乗させてまで貧しい路地の士に会った数は十を数え、対等の礼で無位無官の士にへりくだった数は百を数えます。」主父が「あなたの言うところでは、それは賢い君ではないか。どうして攻めてよいのか」と言うと、李疵は言った。「そうではありません。
解説
関連する章句
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呂氏春秋・知度④趙襄子の時、任登を以て中牟の令と為す。上計して、襄子に言いて曰く、「中牟に士有り、膽・胥己と曰う。請う之を見よ。」襄子見て以て中大夫と為す。相國曰く、「意うに、君耳にするも未だ之を目にせざらんや。中大夫と為すこと、此くの若く其れ易きか。晉國の故に非ず。」襄子曰く、「吾、登を舉ぐるや、已に耳にして之を目にせり。登の舉ぐる所、吾又耳にして之を目にせば、是れ人を耳目にすること終に已むこと無きなり。」遂に復た問わずして、以て中大夫と為す。襄子は何をか為さん。人に任ずれば、則ち賢者力を畢くす。
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『韓非子』外儲說左上第三十二先王の言、其の為す所小にして世之を大と意ふ有り、其の為す所大にして世之を小と意ふ有り、未だ必ずしも知るべからざるなり。説は宋人の書を解すると梁人の記を読むとに在り。故に先王に郢書有りて、後世に燕説多し。夫れ国事に適はずして先王を謀るは、皆帰りて度を取る者なり。四。利の在る所、民之に帰し、名の彰るる所、士之に死す。是を以て功法に外れて賞加はれば、則ち上下に利する所を得ること能はず。名法に外れて誉加はれば、則ち士名を勧めて之を君に畜はれず。故に中章・胥己仕へて、中牟の民田圃を棄てて文学に随ふ者邑の半ばなり。平公腓痛み足痺れて敢て坐を壊らず、晋国の仕を辞して託する者国の錘なり。此の三士は、言法に襲へば、則ち官府の籍なり。行事に中れば、則ち令の如きの民なり、二君の礼太だ甚し。若し言法を離れて行功に遠ければ、則ち縄外の民なり、二君又何ぞ之を礼せん。之を礼すれば当に亡ぶべし。且つ居学の士は、国事無ければ力を用ひず、難有れば甲を被らず。之を礼すれば、則ち耕戦の功を脩むるに惰る。礼せざれば、則ち主上の法を害す。国安ければ則ち尊顕し、危ければ則ち屈公の威と為る、人主奚ぞ居学の士に得んや。故に明主李疵の中山を視るを論ず。五。詩に曰く、「躬らせず親らせざれば、庶民信ぜず。」傅之に説くに衣紫無きを以てし、之を援くに鄭簡・宋襄を以てし、之を責むるに耕戦を尊厚するを以てす。夫れ分を明らかにせず、誠を責めずして、躬親を以て下に位し、且つ下走・睡臥を為し、夫の揜弊・微服と与にす。孔丘知らず、故に猶ほ盂のごとしと称す。鄒君知らず、故に先づ自ら僇す。明主の道は、叔向の猟を賦すると昭侯の奚ぞ聴かんとの如し。六。小信成れば則ち大信立つ、故に明主は信を積む。
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『韓非子』外儲說左上第三十二孔子曰く、「人君為る者は猶ほ盂のごときなり、民は猶ほ水のごときなり。盂方なれば水方に、盂圜なれば水圜なり。」鄒君長纓を服することを好み、左右皆長纓を服す、纓甚だ貴し。鄒君之を患ひ、左右に問ふ、左右曰く、「君服することを好めば、百姓亦多く服す、是を以て貴し。」君因りて先づ自ら其の纓を断ちて出づ、国中皆長纓を服せず。君下令して百姓の為に服度を為して以て之を禁ずること能はず、纓を断ちて出でて以て民に先んじて示す、是れ先づ戮して以て民に蒞むなり。叔向猟を賦す、功多き者は多きを受け、功少き者は少きを受く。韓の昭侯申子に謂ひて曰く、「法度甚だ行ひ易からざるなり。」申子曰く、「法は、功を見て賞を与へ、能に因りて官を受く。今君法度を設けて左右の請を聴く、此れ行ひ難き所以なり。」昭侯曰く、「吾今より以来法を行ふを知れり、寡人奚ぞ聴かん。」一日、申子其の従兄を官に仕へしめんことを請ふ。昭侯曰く、「子に学ぶ所に非ざるなり。子の謁を聴きて、子の道を敗らんか、亡た子の謁を用ひんか。」申子舎を辟けて罪を請ふ。六。晋の文公原を攻む、十日の糧を裹み、遂に大夫と十日を期す。原に至りて十日にして原下らず、金を撃ちて退き、兵を罷めて去る。士に原中より出づる者有り、曰く、「原三日にして即ち下らん。」群臣左右諫めて曰く、「夫れ原の食竭き力尽く、君姑く之を待て。」公曰く、「吾士と十日を期す、去らずんば、是れ吾が信を亡ふなり。原を得て信を失ふは、吾為さざるなり。」遂に兵を罷めて去る。原人聞きて曰く、「君の彼の如く其れ信なる有り、帰する無かるべけんや。」乃ち公に降る。衛人聞きて曰く、「君の彼の如く其れ信なる有り、従ふ無かるべけんや。」乃ち公に降る。孔子聞きて之を記して曰く、「原を攻めて衛を得たる者は、信なり。」文公箕鄭に問ひて曰く、「餓を救ふこと奈何。」対へて曰く、「信なり。」公曰く、「安んぞ信ならん。」曰く、「名に信に、事に信に、義に信なり。
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『韓非子』外儲說左下第三十三孔子曰く、「善く吏為る者は徳を樹て、吏為ること能はざる者は怨みを樹つ。槩は、量を平らかにする者なり。吏は、法を平らかにする者なり。国を治むる者は、平を失ふべからざるなり。」田子方斉より魏に之く、翟黄の軒に乗り騎駕して出づるを望み、方以て文侯と為すや、車を移し路を異にして之を避く、則ち徒だ翟黄なり。方問ひて曰く、「子奚ぞ是の車に乗るや。」曰く、「君謀りて中山を伐たんと欲す、臣翟角を薦めて謀果を得たり。且に之を伐たんとす、臣楽羊を薦めて中山抜く。中山を得て、之を治めんことを憂ふ、臣李克を薦めて中山治まる、是を以て君此の車を賜ふ。」方曰く、「寵の功に称ふこと尚ほ薄し。」秦・韓魏を攻む、昭卯西に説きて秦・韓罷む。斉・荊魏を攻む、卯東に説きて斉・荊罷む。魏の襄王之を養ふに五乗を以てす。卯曰く、「伯夷将軍を以て首陽山の下に葬らる、而して天下曰く、夫の伯夷の賢と其の仁を称せらるるとを以て、而も将軍を以て葬らるるは、是れ手足掩はれざるなり、と。今臣四国の兵を罷め、而して王乃ち臣に五乗を与ふ、此れ其の功に称ふこと、猶ほ嬴勝して蹻を履むがごとし。」
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『韓非子』說林上二十二答へて曰く、「無正は法を重んじて上を畏る。然りと雖も、公子食我の民を得るに如かざるなり」と。張譴死し、因りて公乗無正を相とす。楽羊、魏の将と為りて中山を攻む、其の子中山に在り。中山の君、其の子を烹て之に羹を遺る。楽羊、幕下に坐して之を啜り、一杯を尽くす。文侯、堵師賛に謂ひて曰く、「楽羊、我が故を以て其の子の肉を食へり」と。答へて曰く、「其の子にして之を食ふ、且つ誰をか食はざらん」と。楽羊、中山を罷めて、文侯其の功を賞して其の心を疑ふ。孟孫猟して麑を得、秦西巴をして之を持ちて帰らしむ。其の母之に随ひて啼く。秦西巴忍びずして之に与ふ。孟孫帰り、至りて麑を求む。答へて曰く、「余忍びずして其の母に与へたり」と。孟孫大いに怒り、之を逐ふ。居ること三月、復た召して以て其の子の傅と為す。其の御曰く、「曩には将に之を罪せんとし、今召して以て子の傅と為すは何ぞや」と。
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『韓非子』外儲說左上第三十二趙の主父工をして鉤梯を施して播吾に縁らしめ、人の迹を其の上に刻疏せしむ、広さ三尺、長さ五尺、而して之に勒して曰く、「主父常に此に遊ぶ。」秦の昭王工をして鉤梯を施して華山に上らしめ、松柏の心を以て博を為る、箭の長さ八尺、棊の長さ八寸、而して之に勒して曰く、「昭王嘗て天神と此に博せり。」文公国に反り、河に至る、籩豆は之を捐てしめ、席蓐は之を捐てしめ、手足胼胝し面目黧黒なる者は之を後にす。咎犯之を聞きて夜哭す。公曰く、「寡人出亡すること二十年、乃ち今国に反るを得たり。咎犯之を聞きて喜ばずして哭す、意ふに寡人の国に反るを欲せざるか。」犯対へて曰く、「籩豆は、以て食ふ所なり。席蓐は、以て臥す所なり、而るに君之を捐つ。手足胼胝し面目黧黒なるは、労して功有る者なり、而るに君之を後にす。今臣与りて後に在る有り、中其の哀しみに勝へず、故に哭す。且つ臣君の為に詐偽を行ひて以て国に反らしむる者衆し、臣尚ほ自ら悪む、而るを況んや君に於てをや。」再拝して辞す。文公之を止めて曰く、「諺に曰く、社を築く者は、撅を攓げて之を置き、端冕して之を祀る、と。今子我と与に之を取りて、我と与に之を治めず。我と与に之を置きて、我と与に之を祀らず、焉んぞ可ならんや。」左驂を解きて河に盟ふ。鄭県の人卜子其の妻をして袴を為らしむ、其の妻問ひて曰く、「今の袴は何如。」夫曰く、「吾が故袴に象れ。」妻子因りて新しきを毀ち、故袴の如くならしむ。鄭県の人に車軛を得る者有り、而して其の名を知らず、人に問ひて曰く、「此れ何の種ぞや。」対へて曰く、「此れ車軛なり。」俄にして又復た一を得、人に問ひて曰く、「此れ是れ何の種ぞや。」対へて曰く、「此れ車軛なり。」問ふ者大いに怒りて曰く、「曩者には車軛と曰ひ、今又車軛と曰ふ、是れ何ぞ衆きや。此れ女我を欺くなり。」遂に之と闘ふ。衛人に弋を佐くる者有り、鳥至る、因りて先づ其の裷を以て之を麾く、鳥驚きて射ず。