名将言行録 / 『名将言行録』毛利元就 雪合戦と雨乞い
○元就の子、元春、隆景、幼き時雪打するを、元就密に物蔭より見るに、兩息幼年の者を四人づゝ卒る、五人づゝ左右に立分れ、雪を打つ。元春頻りに打掛るにより、隆景終に打負けたり。暫くして隆景、今一度參るべしとて、打掛るを見るに、三人なり。元春勝たる勢に乘じ、無二無三に五人にて打掛る、隆景少し退く如くにして、徐々に引掛け、元春が急に押掛るを待ち、預め二人伏せ置き、橫合より荒手を以て頻りに打たせければ、元春終に打負け引退く。元就之を見、雙方に勝あり、此上は無用なりとて制止す。偖元就、此子供成人の上にて弓矢を思ひ立ならば、嫡子隆元を旗本となし元春、隆景を先鋒とすべし、傳へ聞く北國は人氣一向にして剛强のみを宗として計策少く、南國は人の往來繁く、舟の通行多ければ、上手形儀にして計策を好めり、右の雪打の體を以て考るに、北國は元春、南國は隆景と兼ねて思ひ定めたり。後其の如く元春は北國、隆景は南國を攻伐し、終に元就をして十餘州の大守とは爲してけり。 ○元就、領國一年大旱にて水なし、百姓共打集まり雨を祈る。元就之を聞き、百姓共の雨乞を制止し、自ら潔齋して天に祈り、戰死の跡を弔ひ、忠節の臣を加祿し、軍功の家に賜はり物ありて、三日の間施行せり。是より後二日にして大雨降りしかば、五穀大に成就す。民大に喜び隣國までも其德を慕ひしかば、程なく中國を服從せり。
新字:○元就の子、元春、隆景、幼き時雪打するを、元就密に物蔭より見るに、両息幼年の者を四人づゝ卒る、五人づゝ左右に立分れ、雪を打つ。元春頻りに打掛るにより、隆景終に打負けたり。暫くして隆景、今一度参るべしとて、打掛るを見るに、三人なり。元春勝たる勢に乗じ、無二無三に五人にて打掛る、隆景少し退く如くにして、徐々に引掛け、元春が急に押掛るを待ち、預め二人伏せ置き、横合より荒手を以て頻りに打たせければ、元春終に打負け引退く。元就之を見、双方に勝あり、此上は無用なりとて制止す。偖元就、此子供成人の上にて弓矢を思ひ立ならば、嫡子隆元を旗本となし元春、隆景を先鋒とすべし、伝へ聞く北国は人気一向にして剛強のみを宗として計策少く、南国は人の往来繁く、舟の通行多ければ、上手形儀にして計策を好めり、右の雪打の体を以て考るに、北国は元春、南国は隆景と兼ねて思ひ定めたり。後其の如く元春は北国、隆景は南国を攻伐し、終に元就をして十余州の大守とは為してけり。 ○元就、領国一年大旱にて水なし、百姓共打集まり雨を祈る。元就之を聞き、百姓共の雨乞を制止し、自ら潔斎して天に祈り、戦死の跡を弔ひ、忠節の臣を加禄し、軍功の家に賜はり物ありて、三日の間施行せり。是より後二日にして大雨降りしかば、五穀大に成就す。民大に喜び隣国までも其徳を慕ひしかば、程なく中国を服従せり。
書き下し
○元就の子、元春、隆景、幼き時雪打するを、元就密に物蔭より見るに、兩息幼年の者を四人づゝ卒る、五人づゝ左右に立分れ、雪を打つ。元春頻りに打掛るにより、隆景終に打負けたり。暫くして隆景、今一度參るべしとて、打掛るを見るに、三人なり。元春勝たる勢に乘じ、無二無三に五人にて打掛る、隆景少し退く如くにして、徐々に引掛け、元春が急に押掛るを待ち、預め二人伏せ置き、橫合より荒手を以て頻りに打たせければ、元春終に打負け引退く。元就之を見、雙方に勝あり、此上は無用なりとて制止す。偖元就、此子供成人の上にて弓矢を思ひ立ならば、嫡子隆元を旗本となし元春、隆景を先鋒とすべし、傳へ聞く北國は人氣一向にして剛强のみを宗として計策少く、南國は人の往來繁く、舟の通行多ければ、上手形儀にして計策を好めり、右の雪打の體を以て考るに、北國は元春、南國は隆景と兼ねて思ひ定めたり。後其の如く元春は北國、隆景は南國を攻伐し、終に元就をして十餘州の大守とは爲してけり。 ○元就、領國一年大旱にて水なし、百姓共打集まり雨を祈る。元就之を聞き、百姓共の雨乞を制止し、自ら潔齋して天に祈り、戰死の跡を弔ひ、忠節の臣を加祿し、軍功の家に賜はり物ありて、三日の間施行せり。是より後二日にして大雨降りしかば、五穀大に成就す。民大に喜び隣國までも其德を慕ひしかば、程なく中國を服從せり。
現代語訳
○元就の子の元春と隆景が幼い頃、雪合戦をするのを、元就が密かに物陰から見ていました。二人の息子は幼い者を四人ずつ連れ、五人ずつ左右に分かれて雪を打ちました。元春がしきりに打ちかけるので、隆景はついに打ち負けました。しばらくして隆景は、もう一度参りますと言って打ちかかりますが、三人しかいません。元春は勝った勢いに乗り、無二無三に五人で打ちかかりました。隆景は少し退くようにして、徐々に引きつけ、元春が急に押しかけるのを待って、あらかじめ二人を伏せておき、横合いから新手でしきりに打たせたところ、元春はついに打ち負けて引き退きました。元就はこれを見て、双方に勝ちがある、これ以上は無用だと言って制止しました。さて元就は、この子供たちが成人して戦に立つなら、嫡子隆元を旗本とし、元春と隆景を先鋒とするがよい。伝え聞くところでは北国は人気が一様で剛強ばかりを宗とし計策が少なく、南国は人の往来が多く、舟の通行も多いので、世渡りがうまく計策を好む。この雪合戦のありさまから考えるに、北国は元春、南国は隆景と、かねて思い定めたと言いました。のちにその言葉どおり、元春は北国、隆景は南国を攻め伐ち、ついに元就を十余州の大守としました。 ○元就の領国が、ある年大旱魃で水がなく、百姓たちが集まって雨乞いをしました。元就はこれを聞き、百姓の雨乞いを制止して、自ら身を清めて天に祈り、戦死者の跡を弔い、忠節の臣に加増し、軍功の家に賜り物を与え、三日の間施行しました。これから二日後に大雨が降ったので、五穀が大いに実りました。民は大いに喜び、隣国までもその徳を慕ったので、まもなく中国地方が服従しました。
解説

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