史記 / 大宛列伝
軍正趙始成為光祿大夫,上官桀為少府,李哆為上黨太守。軍官吏為九卿者三人,諸侯相、郡守、二千石者百餘人,千石以下千餘人。奮行者官過其望,以適過行者皆絀其勞。士卒賜直四萬金。伐宛再反,凡四歲而得罷焉。漢已伐宛,立昧蔡為宛王而去。歲餘,宛貴人以為昧蔡善諛,使我國遇屠,乃相與殺昧蔡,立毋寡昆弟曰蟬封為宛王,而遣其子入質於漢。漢因使使賂賜以鎮撫之。而漢發使十餘輩至宛西諸外國,求奇物,因風覽以伐宛之威德。而敦煌置酒泉都尉;西至鹽水,往往有亭。而侖頭有田卒數百人,因置使者護田積粟,以給使外國者。
新字:軍正趙始成為光禄大夫,上官桀為少府,李哆為上党太守。軍官吏為九卿者三人,諸侯相、郡守、二千石者百余人,千石以下千余人。奮行者官過其望,以適過行者皆絀其労。士卒賜直四万金。伐宛再反,凡四歳而得罷焉。漢已伐宛,立昧蔡為宛王而去。歳余,宛貴人以為昧蔡善諛,使我国遇屠,乃相与殺昧蔡,立毋寡昆弟曰蝉封為宛王,而遣其子入質於漢。漢因使使賂賜以鎮撫之。而漢発使十余輩至宛西諸外国,求奇物,因風覧以伐宛之威徳。而敦煌置酒泉都尉;西至塩水,往往有亭。而侖頭有田卒数百人,因置使者護田積粟,以給使外国者。
書き下し
軍正趙始成を光禄大夫と為し、上官桀を少府と為し、李哆を上党太守と為す。軍の官吏の九卿と為る者三人、諸侯の相・郡守・二千石の者百余人、千石以下千余人。奮ひて行く者は官其の望みに過ぎ、適を以て過ちて行く者は皆其の労を絀(しりぞ)く。士卒に賜ふこと直四万金。宛を伐つこと再び反り、凡そ四歳にして罷むるを得たり。漢已に宛を伐ち、昧蔡を立てて宛王と為して去る。歳余にして、宛の貴人以為へらく、昧蔡は善く諛ひ、我が国をして屠らるるに遇はしむと。乃ち相与に昧蔡を殺し、毋寡の昆弟蟬封と曰ふを立てて宛王と為し、而して其の子を遣はして漢に入質せしむ。漢因りて使ひをして賂賜せしめ以て之を鎮撫す。而して漢、使ひ十余輩を発して宛の西の諸外国に至らしめ、奇物を求め、因りて伐宛の威徳を風覧せしむ。而して敦煌に酒泉都尉を置き、西のかた塩水に至るまで、往往にして亭有り。而して侖頭に田卒数百人有り、因りて使者を置きて田を護り粟を積ましめ、以て外国に使ひする者に給す。
現代語訳
軍正の趙始成を光禄大夫に、上官桀を少府に、李哆を上党太守に任じた。軍の役人で九卿になった者は三人、諸侯の宰相・郡の太守・二千石の官になった者は百余人、千石以下の官になった者は千余人であった。自ら進んで出征した者は望み以上の官を得たが、罪によって出征させられた者はみな功労を認められなかった。兵士に与えた褒美は四万金に相当した。大宛討伐は二度行って二度帰り、あわせて四年でようやく終わった。漢は大宛を討ったのち、昧蔡を大宛王に立てて去った。一年余りして、大宛の貴族たちは、昧蔡はへつらうことが上手で、そのせいでわが国は殺戮にあったのだと考え、ともに昧蔡を殺し、毋寡の弟の蟬封(せんぽう)を大宛王に立て、その子を人質として漢に送った。漢はそこで使者を送って贈り物を与え、大宛をなだめ落ち着かせた。そして漢は十余組の使者を出して大宛より西の外国に行かせ、珍しい物を求めるとともに、大宛を討った威光と徳をそれとなく知らしめた。また敦煌に酒泉都尉を置き、西の塩水に至るまで、ところどころに見張りの砦を設けた。侖頭には屯田の兵が数百人おり、使者を置いて田を守り穀物を蓄えさせ、外国へ使いに行く者に供給した。
解説
関連する章句
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史記 大宛列伝侖頭に至るに、侖頭下らず。攻むること数日、之を屠る。此より西、平らかに行きて宛城に至る。漢兵の到る者三万人。宛兵迎へて漢兵を撃つ。漢兵射て之を敗り、宛走りて入り、其の城に葆乗す。弐師の兵、行きて郁成を攻めんと欲するも、留行して宛をして益々詐を生ぜしめんことを恐れ、乃ち先づ宛に至り、其の水源を決して之を移す。則ち宛固より已に憂困す。其の城を囲み、之を攻むること四十余日、其の外城壊れ、宛の貴人勇将煎靡を虜にす。宛大いに恐れ、走りて中城に入る。宛の貴人相与に謀りて曰く、「漢の宛を攻むる所為(ゆゑん)は、王毋寡の善馬を匿して漢使を殺せしを以てなり。今、王毋寡を殺して善馬を出ださば、漢兵宜しく解くべし。即し解かずんば、乃ち力戦して死すとも、未だ晩からざるなり」と。宛の貴人皆以て然りと為し、共に其の王毋寡を殺し、其の頭を持して貴人を遣はして弐師に使ひせしめ、約して曰く、「漢、我を攻むる毋かれ。我尽く善馬を出だし、取る所を恣にせしめ、而して漢軍に食を給せん。即し聴かずんば、我尽く善馬を殺さん。而して康居の救ひ且に至らんとす。至らば、我は内に居り、康居は外に居りて、漢軍と戦はん。漢軍熟々之を計れ。何れに従はん」と。是の時、康居は漢兵を候視し、漢兵尚ほ盛んなれば、敢へて進まず。弐師、趙始成・李哆等と計る、「聞く、宛城中新たに秦人を得て、井を穿つを知り、而して其の内の食尚ほ多しと。来たる所為は、首悪の者毋寡を誅せんとなり。毋寡の頭已に至る。此の如くにして解兵を許さずんば、則ち堅く守り、而して康居、漢の罷るるを候ひて来たりて宛を救はば、漢軍を破ること必せり」と。軍吏皆以て然りと為し、宛の約を許す。宛乃ち其の善馬を出だし、漢をして自ら之を択ばしめ、而して多く食を出だして漢軍に食給す。漢軍、其の善馬数十匹、中馬以下牡牝三千余匹を取り、而して宛の貴人の故に漢使を待遇して善かりし者名は昧蔡を立てて以て宛王と為し、与に盟ひて兵を罷む。終に中城に入るを得ず。乃ち罷めて引き帰る。
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史記 大宛列伝初め、弐師、敦煌の西より起つに、人多くして道上の国食はしむる能はずと以ひ、乃ち分かちて数軍と為し、南北の道に従ふ。校尉王申生・故の鴻臚壺充国等千余人、別れて郁成に到る。郁成城守して、肯へて其の軍に食を給せず。王申生、大軍を去ること二百里、偩(たの)みて之を軽んじ、郁成を責む。郁成、食肯へて出ださず。申生の軍の日に少なきを窺ひ知り、晨に三千人を用ひて攻め、申生等を戮殺す。軍破れ、数人脱亡し、弐師に走る。弐師、捜粟都尉上官桀をして往きて郁成を攻め破らしむ。郁成王亡げて康居に走り、桀追ひて康居に至る。康居、漢已に宛を破るを聞き、乃ち郁成王を出だして桀に予ふ。桀、四騎士をして縛り守りて大将軍に詣らしむ。四人相謂ひて曰く、「郁成王は漢国の毒とする所なり。今生きて将ゐて去り、卒かに大事を失はん」と。殺さんと欲するも、敢へて先づ撃つもの莫し。上邽の騎士趙弟最も少く、剣を抜きて之を撃ち、郁成王を斬り、頭を齎らす。弟・桀等逐ひて大将軍に及ぶ。初め、弐師の後に行くや、天子使ひをして烏孫に告げしめ、大いに兵を発し力を并せて宛を撃たしむ。烏孫、二千騎を発して往き、両端を持して肯へて前まず。弐師将軍の東するや、諸々の過ぐる所の小国、宛の破るるを聞き、皆其の子弟をして軍に従ひて入りて献じ、天子に見えしめ、因りて以て質と為す。弐師の宛を伐つや、而して軍正趙始成力戦し、功最も多し。上官桀の敢へて深く入り、李哆の謀計を為すに及び、軍の玉門に入る者万余人、軍馬千余匹。弐師の後に行くや、軍は食に乏しきに非ず、戦死も多きこと能はず。而して将吏貪りて、多く士卒を愛せず、之を侵牟す。此を以て物故すること衆し。天子、万里にして宛を伐てるが為に、過ちを録せず。広利を封じて海西侯と為す。又身づから郁成王を斬りし者騎士趙弟を封じて新畤侯と為す。
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史記 大宛列伝郁成に至る比(ころ)、士の至る者は数千に過ぎず、皆饑ゑ罷(つか)る。郁成を攻むるに、郁成大いに之を破り、殺傷する所甚だ衆し。弐師将軍、哆・始成等と計りて、「郁成に至りて尚ほ挙ぐる能はず、況んや其の王都に至るをや」と。兵を引きて還る。往来二歳。還りて敦煌に至るに、士は什の一二に過ぎず。使ひをして上書せしめて言ふ、「道遠くして多く食に乏し。且つ士卒は戦ひを患へず、饑うるを患ふ。人少なく、以て宛を抜くに足らず。願はくは且く兵を罷め、益々発して復た往かん」と。天子之を聞きて大いに怒り、而して使ひをして玉門を遮らしめ、曰く、「軍に敢へて入る者有らば輒ち之を斬れ」と。弐師恐れ、因りて敦煌に留まる。其の夏、漢、浞野の兵二万余を匈奴に亡ふ。公卿及び議者は皆宛を撃つ軍を罷め、力を専らにして胡を攻めんことを願ふ。天子已に宛を誅するを業とす。宛は小国にして下す能はずんば、則ち大夏の属漢を軽んじ、而して宛の善馬絶えて来たらず、烏孫・侖頭易く漢使を苦しめ、外国の笑ひと為らん。乃ち宛を伐つを言ふこと尤も便ならざる者鄧光等を案じ、囚徒材官を赦し、益々悪少年及び辺騎を発し、歳余にして敦煌を出づる者六万人、私従を負ふ者は与らず。牛十万、馬三万余匹、驢騾橐它は万を以て数ふ。多く糧を齎し、兵弩甚だ設く。天下騒動し、伝へて相奉じて宛を伐つ。凡そ五十余校尉。宛王の城中に井無く、皆城外の流水を汲む。是に於いて乃ち水工を遣はして其の城下の水空を徙し、以て其の城を空しくせしむ。益々戍甲卒十八万を発し、酒泉・張掖の北に居延・休屠を置きて以て酒泉を衛らしめ、而して天下の七科の適を発し、及び糒を載せて弐師に給す。転車人徒相連属して敦煌に至る。而して馬に習ふ者二人を拝して執駆校尉と為し、宛を破るに備へて其の善馬を択び取らしむと云ふ。是に於いて弐師後に復た行き、兵多くして、至る所の小国迎へざる莫く、食を出だして軍に給す。
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史記 大宛列伝漢の黄白金を得れば、輒ち以て器と為し、用ひて幣と為さず。而して漢の使者往くこと既に多く、其の少従は率ね多く天子に進熟し、言ひて曰く、「宛に善馬有りて弐師城に在り、匿して肯へて漢使に与へず」と。天子既に宛馬を好み、之を聞きて甘心し、壮士車令等をして千金及び金馬を持して以て宛王に弐師城の善馬を請はしむ。宛国、漢の物に饒かにして、相与に謀りて曰く、「漢は我を去ること遠く、而して塩水の中に数々敗る。其の北に出づれば胡寇有り、其の南に出づれば水草に乏し。又且つ往往にして邑を絶ち、食に乏しき者多し。漢使数百人輩を為して来たれども、常に食に乏しく、死する者半ばを過ぐ。是れ安んぞ能く大軍を致さんや。我を奈何ともする無し。且つ弐師の馬は宛の宝馬なり」と。遂に肯へて漢使に予へず。漢使怒り、妄言して金馬を椎(う)ちて去る。宛の貴人怒りて曰く、「漢使至りて我を軽んず」と。漢使を遣はして去らしめ、其の東辺の郁成をして遮り攻めて漢使を殺さしめ、其の財物を取る。是に於いて天子大いに怒る。諸々の嘗て宛に使ひせし姚定漢等言ふ、宛の兵は弱く、誠に漢兵三千人に過ぎずして彊弩もて之を射れば、即ち尽く宛を虜にし破らんと。天子已に嘗て浞野侯をして楼蘭を攻めしめ、七百騎を以て先づ至り、其の王を虜にせしを以て、定漢等の言を以て然りと為す。而して寵姫李氏を侯とせんと欲し、李広利を拝して弐師将軍と為し、属国の六千騎及び郡国の悪少年数万人を発し、以て往きて宛を伐たしむ。期するに弐師城に至りて善馬を取るを以てす。故に弐師将軍と号す。趙始成を軍正と為し、故の浩侯王恢をして軍を導かしめ、而して李哆を校尉と為し、軍事を制せしむ。是の歳は太初元年なり。而して関東に蝗大いに起こり、蜚びて西のかた敦煌に至る。弐師将軍の軍既に西して塩水を過ぐるに、道に当たる小国恐れ、各々城を堅くして守り、肯へて食を給せず。之を攻むれども下す能はず。下る者は食を得、下らざる者は数日にして則ち去る。
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史記 大宛列伝曰く、大宛は匈奴の西南に在り、漢の正西に在り、漢を去ること万里可(ばか)りなり。其の俗は土著にして田を耕し、稲麦を田(つく)る。蒲陶酒有り。善馬多く、馬は血を汗す。其の先は天馬の子なり。城郭屋室有り。其の属邑は大小七十余城、衆は数十万可りなり。其の兵は弓矛騎射なり。其の北は則ち康居、西は則ち大月氏、西南は則ち大夏、東北は則ち烏孫、東は則ち扜穼・于窴なり。于窴の西は、則ち水皆西に流れ、西海に注ぐ。其の東は水東に流れ、塩沢に注ぐ。塩沢は潜かに地下を行き、其の南は則ち河源焉より出づ。玉石多く、河は中国に注ぐ。而して楼蘭・姑師の邑は城郭有り、塩沢に臨む。塩沢は長安を去ること五千里可りなり。匈奴の右方は塩沢より以東に居り、隴西の長城に至り、南は羌に接し、漢の道を鬲(へだ)つ。烏孫は大宛の東北二千里可りに在り、行国にして畜に随ひ、匈奴と俗を同じくす。控弦の者数万、戦ひを敢へてす。故は匈奴に服せしも、盛んなるに及び、其の羈属を取りて、肯へて往きて朝会せず。康居は大宛の西北二千里可りに在り、行国にして、月氏と大いに俗を同じくす。控弦の者八九万人。大宛と隣国たり。国小にして、南は月氏に羈事し、東は匈奴に羈事す。奄蔡は康居の西北二千里可りに在り、行国にして、康居と大いに俗を同じくす。控弦の者十余万。大沢に臨みて崖無し。蓋し乃ち北海なりと云ふ。大月氏は大宛の西二三千里可りに在り、嬀水の北に居る。其の南は則ち大夏、西は則ち安息、北は則ち康居なり。行国なり。畜に随ひて移徙し、匈奴と俗を同じくす。控弦の者一二十万可りなり。故時は彊く、匈奴を軽んぜしも、冒頓立つに及び、攻めて月氏を破り、匈奴の老上単于に至りて、月氏の王を殺し、其の頭を以て飲器と為す。
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『塩鉄論』西域篇文學曰く、有司の外國の事を言うや、議者は皆な一時の權を僥い、其の後を慮らず。張騫、大宛の天馬汗血、安息の真玉大鳥を言う。縣官既に聞きて甘心するが如し。乃ち大いに師を興して宛を伐ち、數期を歷て而る後に之に克つ。夫れ萬里にして人の國を攻むるに、兵未だ戰わずして物故半ばを過ぐ。宛を破りて寶馬を得たりと雖も、計に非ざるなり。此の時に當たりて、將卒は方に面を赤くして四夷に事う。師旅相望み、郡國並び發し、黎人困苦し、奸偽萌生し、盜賊並び起こる。守尉禁ずる能わず、城邑止むる能わず。然る後に上大夫を遣わし繡衣を衣て以て興ちて之を擊たしむ。此の時に當たりて、百姓元元、其の命を必とする莫し。故に山東の豪傑、頗る異心有り。先帝の聖靈斐然たるに賴る。其の咎は皆な匈奴を畢えんと欲して遠く幾うに在り。主の為に計ること此くの若きは、忠と謂う可きか。
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