名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 戦場の心得と携行品
○資正、剛強にして、軍慮に長ぜり。享祿二年九月十六歳、初陣より、天正十八年まで大小の戰七十九度、一番槍二十三度、組打三十四度と云ふ。嘗て曰く、具足は輕く馬は靜かなるが善し、刀は糸卷にて、頭際に菱三つ四つあるが善し、長尺は好み申まじ、槍は太く短きが善し、衣類は麻木綿善し、冬は木綿袷善し、食事は大食惡しゝ、餅四つ五つ持參するが善し、鰹節も持參あるべし、此外の物は無用なり、人馬の藥種々あれども、是は無用なり、藥抔用意せば人馬共働き成り難し、暑氣の凌ぎ樣は、其國々場所々々にて違ふなり、又面々の強弱にても違ひ之あるなり、寒中火にあたり申すまじ、後惡しゝ、雪中は片手づつ懷へ入るべし、暑中水飲申すまじ、第一腹合に惡しゝ、夜中は主從二た時づゝ能く寢べし、左なくても疲るゝなり、梅干の黒燒は持參すべしと。
新字:○資正、剛強にして、軍慮に長ぜり。享禄二年九月十六歳、初陣より、天正十八年まで大小の戦七十九度、一番槍二十三度、組打三十四度と云ふ。嘗て曰く、具足は軽く馬は静かなるが善し、刀は糸巻にて、頭際に菱三つ四つあるが善し、長尺は好み申まじ、槍は太く短きが善し、衣類は麻木綿善し、冬は木綿袷善し、食事は大食悪しゝ、餅四つ五つ持参するが善し、鰹節も持参あるべし、此外の物は無用なり、人馬の薬種々あれども、是は無用なり、薬抔用意せば人馬共働き成り難し、暑気の凌ぎ様は、其国々場所々々にて違ふなり、又面々の強弱にても違ひ之あるなり、寒中火にあたり申すまじ、後悪しゝ、雪中は片手づつ懐へ入るべし、暑中水飲申すまじ、第一腹合に悪しゝ、夜中は主従二た時づゝ能く寝べし、左なくても疲るゝなり、梅干の黒焼は持参すべしと。
書き下し
○資正、剛強にして、軍慮に長ぜり。享祿二年九月十六歳、初陣より、天正十八年まで大小の戰七十九度、一番槍二十三度、組打三十四度と云ふ。嘗て曰く、具足は輕く馬は靜かなるが善し、刀は糸卷にて、頭際に菱三つ四つあるが善し、長尺は好み申まじ、槍は太く短きが善し、衣類は麻木綿善し、冬は木綿袷善し、食事は大食惡しゝ、餅四つ五つ持參するが善し、鰹節も持參あるべし、此外の物は無用なり、人馬の藥種々あれども、是は無用なり、藥抔用意せば人馬共働き成り難し、暑氣の凌ぎ樣は、其國々場所々々にて違ふなり、又面々の強弱にても違ひ之あるなり、寒中火にあたり申すまじ、後惡しゝ、雪中は片手づつ懷へ入るべし、暑中水飲申すまじ、第一腹合に惡しゝ、夜中は主從二た時づゝ能く寢べし、左なくても疲るゝなり、梅干の黒燒は持參すべしと。
現代語訳
資正は剛強で、軍略に優れていた。享禄二年九月、十六歳の初陣から天正十八年まで、大小の戦は七十九度、一番槍は二十三度、組み打ちは三十四度という。かつてこう言った。「具足は軽く、馬は静かなのがよい。刀は糸巻きで、頭のあたりに菱が三つ四つあるのがよい。長いものは好むまい。槍は太く短いのがよい。衣類は麻か木綿がよい。冬は木綿の袷がよい。食事は大食は悪い。餅を四つ五つ持参するのがよい。鰹節も持参するべきだ。このほかの物は無用である。人馬の薬はいろいろあるが、これは無用だ。薬などを用意すれば、人も馬も働きにくくなる。暑さのしのぎ方は、その国やその場所によって違う。また各自の強弱によっても違いがある。寒中は火にあたるまい。後が悪い。雪中は片手ずつ懐に入れるのがよい。暑中は水を飲むまい。何より腹に悪い。夜中は主従が二時ずつよく寝るのがよい。そうでなくても疲れる。梅干の黒焼きは持参するのがよい。」
解説

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