名将言行録 / 『名将言行録』太田資正 組み伏せられても冷静に
○鴻の臺の役、資正敵と組みしが、初めより手疵數多負たる上なれば、是非なく組伏せられける。敵咽輪のあるを知らずして、首を搔けども切れず、資正下より咽輪あり、夫を脱して切れと言ふ。敵驚き脱さんとする所へ郎徒馳來て敵の首を打落し、資正を助けけり。 ○七年五月、資正、上田安獨齋が入れし童子の間に陷り、三千五百人を引率し、大軍にて楯籠りし松山城を攻め、侍二百六十人、雜兵一千三百人戰死す。資正去れども軍場を取り敷、勝鬨を取り行ひ下屋まで引取る。斯くて資正總軍の中より手負なき者三百人を從へ、夜廻りし、草臥たる役所の怠りを戒めし故、夜討に出し敵共中々窺ふべき樣なかりければ、鳥銃少々打掛け競ひを見せて、引返せり。此役資正、敵を打取ること侍百九十二人、雜兵一千四百餘人と云ふ。
新字:○鴻の台の役、資正敵と組みしが、初めより手疵数多負たる上なれば、是非なく組伏せられける。敵咽輪のあるを知らずして、首を搔けども切れず、資正下より咽輪あり、夫を脱して切れと言ふ。敵驚き脱さんとする所へ郎徒馳来て敵の首を打落し、資正を助けけり。 ○七年五月、資正、上田安独斎が入れし童子の間に陥り、三千五百人を引率し、大軍にて楯籠りし松山城を攻め、侍二百六十人、雑兵一千三百人戦死す。資正去れども軍場を取り敷、勝鬨を取り行ひ下屋まで引取る。斯くて資正総軍の中より手負なき者三百人を従へ、夜廻りし、草臥たる役所の怠りを戒めし故、夜討に出し敵共中々窺ふべき様なかりければ、鳥銃少々打掛け競ひを見せて、引返せり。此役資正、敵を打取ること侍百九十二人、雑兵一千四百余人と云ふ。
書き下し
○鴻の臺の役、資正敵と組みしが、初めより手疵數多負たる上なれば、是非なく組伏せられける。敵咽輪のあるを知らずして、首を搔けども切れず、資正下より咽輪あり、夫を脱して切れと言ふ。敵驚き脱さんとする所へ郎徒馳來て敵の首を打落し、資正を助けけり。 ○七年五月、資正、上田安獨齋が入れし童子の間に陷り、三千五百人を引率し、大軍にて楯籠りし松山城を攻め、侍二百六十人、雜兵一千三百人戰死す。資正去れども軍場を取り敷、勝鬨を取り行ひ下屋まで引取る。斯くて資正總軍の中より手負なき者三百人を從へ、夜廻りし、草臥たる役所の怠りを戒めし故、夜討に出し敵共中々窺ふべき樣なかりければ、鳥銃少々打掛け競ひを見せて、引返せり。此役資正、敵を打取ること侍百九十二人、雜兵一千四百餘人と云ふ。
現代語訳
鴻の台の役で、資正は敵と組み打ちになりましたが、初めから傷を数多く負っていたので、やむなく組み伏せられました。敵は咽輪(首を守る防具)があることを知らずに、首を搔きましたが切れません。資正は下から「咽輪がある。それを外して切れ」と言いました。敵は驚いて外そうとしたところへ、郎党が駆けつけて敵の首を打ち落とし、資正を助けました。 七年五月、資正は上田安独斎が送り込んだ少年の間者の計略にはまり、三千五百人を率いて、大軍で立て籠もる松山城を攻め、侍二百六十人、雑兵一千三百人が戦死しました。しかし資正は退かず、戦場を取り敷いて勝ち鬨を上げ、下屋まで引き取りました。こうして資正は全軍の中から手傷のない者三百人を従えて夜回りをし、疲れて怠っていた持ち場を戒めたので、夜討ちに出た敵はなかなか窺うことができず、鳥銃を少々撃ちかけて勢いを見せ、引き返しました。この役で資正が敵を討ち取ったのは、侍百九十二人、雑兵一千四百余人といいます。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』太田資正 敵の若者を助ける同九年、安獨齋、僧長江を使として資正方へ申越しけるは、去々年父子自分人質に出で、身を捨て計策せし童父子が事、重罪の者なれば時日を移されず首を召されて候はんと存候所に、思ひの外未だ存生致し居候由承はり候、去りとては叶ひ難き申事に候へ共、童が僕は理を曲げて命を賜はり候へかし、年比召使たる其好みに申にては、努々之なく候、彼の者年の程には比類なき健氣の者に候、古語にも後生可レ畏と申傳へて候へ、左候へば助け置き行末の器量をも見申度存ずるなり。御赦免に於ては安獨齋、生前の望み之に過ぎ候はずとなり。資正之を聞て嘸ぞあらん、此童去々年十六歳の程にも似ぬ振舞、實に後生可レ畏の理はり義に當れり、只生けて返すべしとて、父子の者を獄舎より出し使僧に之を渡せり。安獨齋、感悦大方ならず、甥の上田主計を以て、幣禮を厚くして之を謝す。是より松山衆下屋に働く事なかりしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』太田資正 戦場の心得と携行品○資正、剛強にして、軍慮に長ぜり。享祿二年九月十六歳、初陣より、天正十八年まで大小の戰七十九度、一番槍二十三度、組打三十四度と云ふ。嘗て曰く、具足は輕く馬は靜かなるが善し、刀は糸卷にて、頭際に菱三つ四つあるが善し、長尺は好み申まじ、槍は太く短きが善し、衣類は麻木綿善し、冬は木綿袷善し、食事は大食惡しゝ、餅四つ五つ持參するが善し、鰹節も持參あるべし、此外の物は無用なり、人馬の藥種々あれども、是は無用なり、藥抔用意せば人馬共働き成り難し、暑氣の凌ぎ樣は、其國々場所々々にて違ふなり、又面々の強弱にても違ひ之あるなり、寒中火にあたり申すまじ、後惡しゝ、雪中は片手づつ懷へ入るべし、暑中水飲申すまじ、第一腹合に惡しゝ、夜中は主從二た時づゝ能く寢べし、左なくても疲るゝなり、梅干の黒燒は持參すべしと。
-
名将言行録・『名将言行録』太田資正 遠くの義に立つ○北條氏康、勢日に強大なり。之に依り關東の諸將皆氏康に降りけれども、獨資正、岩槻に在城して憲政に屬し、越後の輝虎と一味す。此時關東及び甲斐信濃の義理を知らぬ人々は、資正は近所の小田原へ一味せず、遠き越後と一味す、偖々無謀の大將哉と、沙汰したり。資正之を聞て、我家は道眞、道灌以來譽を八州に振ひ、名を天下に揚げしは、第一に義の當る所を業として、終に不義の弓箭を執らざるが故なり。今管領落魄し給ふとて、諸人小田原に降參は、不義の至なり。我は管領より外に大將を持たず、今何の爲めに小田原と一味すべきや、と言て佐竹、里見と一味して、益々小田原に抗せり。 ○永祿四年、上杉輝虎、小田原を蹂躪せし時、反心を懷く者あり。時に資正總勢を老臣に預け僅に二十餘人を從へ諸手を乗廻し、備の色を見て白倉丹波が陣所に行き、丹波を誘引し、本陣に連行き之を歸さず、人質の如くにして置きたる故反心を懷きし者謀盡く相違して、手を出す者なかりけり。此役や、關東の諸將、氏康に反き、輝虎に附きしは資正の力なり。
-
名将言行録・『名将言行録』太田資正 小田原攻めへの直言○直江兼續曰く、方今日本に於て大身小身の名將多くある中に、撰みて主人にせん時は、太田三樂と我君謙信公に若くはなしと、他家にて其沙汰あると聞きしは實に尤もなりと。 ○十八年、秀吉小田原城を攻ること數月なれども、落ちず、之に依り資正を召し此城數月攻れども更に弱らず、若し今年中に落間敷は一と先づ上京して、來年又下向すべしと思ふなり。其方の心に思はん樣包まず語れと言はれければ、資正畏りて申樣抑と此城一方は荒海にて、舟の進退自由ならず、三方に難所の山を抱へたり、又氏綱、氏康、氏政、能く早雲の掟を守りて候へば、兵粮も澤山に候べし。但し一つ父祖の法に違ふ事の之あるは、士を敬ふことをせず、士を敬ふことをせず、去れば籠城の兵士五六萬も之あるべく、何れも坂東魂の勇士ながら、心に北條を疎み思ふ時節なれば、御計略も候はんに、何條御上京とは仰せらるゝにや、況て力攻抔にては、左右なく落城仕間敷と。秀吉忽ち氣色替はり三樂は北條に追はれて岩槻、松山を失ひし時に引きたる臆病風の未だ癒ざるかと、言はれければ、資正、樣惡しく退出しけるが、次の間にて聲高く、三樂が岩槻、松山を失ひしは、武略の足らざるに似たりと申べけれども、一度も氏政に押付を見せしことは候はず、偖又御計略にて、欺れ候はゞ、格別、武功を以て攻落され候はゞ、入道が命を奉るべきにて候と、にが〱しけに申て退きしとぞ。後果して資正の言の如く、力攻には成り難く、扱にて城落けり。
-
名将言行録・『名将言行録』太田資正 犬を使った情報網美濃守資頼の子、美濃守と稱し、後髪を削り三樂と號す。上杉憲政に仕へ、岩槻城に住す。後片野城に移る。世に片野の三樂と云ふ。文祿元年九月八日卒。年七十九。 ○資正、幼より犬を好み、岩槻にて飼育てたる犬五十疋を松山に置き、松山にて飼育てたる犬五十疋を岩槻に置く。世の沙汰に、太田美濃は虚氣たる者なり、稚き者の如く犬に好かるゝと言あへり。或時、資正、岩槻に在りし時、松山に一揆起り、北條氏康出馬たるべしとありしに、岩槻へ使者を立んには、途塞りて五騎三騎にては叶はじ、十騎と遣らば、松山に人數少し、況や飛脚は叶ふ間敷に、前の日資正密に留守居の者に敎へたればこそ、文を書き竹の筒を手一束に切て此狀を入れ、犬の頭に結付て十疋計り放ちければ、片時の間に岩槻へ馳せ來る。資正見ると均しく、松山へ後詰せり。一揆共之を見て速に後詰せしこそ、希代不思議の名人哉、と言て不審を爲せり。夫よりして、松山に一揆起ることなかりしとぞ。 ○資正、常に諸浪人を集め、國々の弓箭の格を物語させ、朝夕吟味強かりければ、上を學ぶ下にて、岩槻千騎の侍何れも、武勇を好むこと、他に比類なかりしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』太田資長 古歌で戦場を読む○上杉定正廳南へ寄する時人數を夜押にす。其途に山涯、海端の兩道あり、潮滿る時は涯を行くに、山の上に石弩を張置き、動もすれば人數を損ぜり。定正、此方にて人數を止め潮の干たらんには、山涯を避けて遠干潟を押すべし、潮干たるや否や見て參れ、とありて斥候を出せしに、見切悪き故分明ならず。時に資長、我等參り見て參らん、と言ひ乘出して其所までも行かず乘戻し、潮は干申候間、人數を押さるべくと言ふ。定正、汝其所まで行かずして、潮の干たりと見ること如何、と尋ねけるに、資長「遠くなり、近くなるみの、濱千鳥、鳴音に潮の、滿干をぞ知る。」と云ふ古歌是あり候、千鳥の聲遠く聞えしに付、潮の干たるを知り候ひぬ、と申ければ、定正如何にもとありて、人數を押させしに、何の恙もなく遠干潟を、安々と押通りたり。又資長、或夜軍を返し、利根川を渡らんとするに、闇さは闇し、淺瀬は知れず、人皆如何せんとありし時、資長「そこひなき、淵やはさわぐ、山川の、淺き瀬にこそ、あだ波は立て。」と云ふ古歌あり、波音荒き所を渡せと言て、事故なく渡したり。又資長、小机城を攻めし時、敵衆く、味方寡し、家臣小を以て大に勝つことは如何あるべしと言ければ、資長、善く兵を用ふる者は兵の多少に寄らず、勢に乘ずるものなり、我歌を唱ふの聲に應じ何れも和唱し進み戰ふべしと令しける。士卒乃ち其歌を唱ふると均く、進み戰ひ、遂に其城を拔けり。其歌に曰く「小机は、まづ手習の、始にて、いろはにほへと、ちり〱になる。」