名将言行録 / 『名将言行録』太田資長 築城と松の進言
○資長、勇にして才略あり、能く武事に練達す、尤も築城に長ぜり。江戸、河越、岩槻、鉢形等の九城、皆其築く所なりとぞ。世に稱して軍法の師範と云ふ。後世其流を酌む者持資流と云ひ、又道灌流とも云ふ。資長善く謀り、善く戰ふ、故を以て衆皆長憚す。屬下或は誇て曰く、諸葛武侯の再生なりと。 ○資長、松山城を築きし時、一簡を東門に懸け、此城に難を加ふる者あらば、重賞を以て之を謝せんと言ふ。時に城壁の四面に松を植たり。一の旅人あり、仰ぎ見て松は不斷の風を含み、颯々の響あれば、間に入るの便あり、四面の松は植ざるに如かずと言て去る。資長、之を聞き大に驚き、人をして之を追はしむるに、旅人遂に見えず、世に傳へて神人と爲せり。 ○初め定正、封地狹小なるを以て、常に顯定に屬す。資長、政を執るに及びて、内、國政を修め、外、軍旅を總べ、民を撫し物を愛し、將士畏服し兵威日に強し。顯定、資長を忌み之を除かんと欲し、人をして間を爲さしむ。定正之を信じ、資長を糟谷に召して之を殺す。資長、死に臨み和歌を詠ず。其歌に曰く、「昨日まで、莫亡想を、入れ置きし、へむなし袋、今破れけむ。」聞者之を哀む。是より扇谷の兵鋒大に衰へり。
新字:○資長、勇にして才略あり、能く武事に練達す、尤も築城に長ぜり。江戸、河越、岩槻、鉢形等の九城、皆其築く所なりとぞ。世に称して軍法の師範と云ふ。後世其流を酌む者持資流と云ひ、又道灌流とも云ふ。資長善く謀り、善く戦ふ、故を以て衆皆長憚す。属下或は誇て曰く、諸葛武侯の再生なりと。 ○資長、松山城を築きし時、一簡を東門に懸け、此城に難を加ふる者あらば、重賞を以て之を謝せんと言ふ。時に城壁の四面に松を植たり。一の旅人あり、仰ぎ見て松は不断の風を含み、颯々の響あれば、間に入るの便あり、四面の松は植ざるに如かずと言て去る。資長、之を聞き大に驚き、人をして之を追はしむるに、旅人遂に見えず、世に伝へて神人と為せり。 ○初め定正、封地狭小なるを以て、常に顕定に属す。資長、政を執るに及びて、内、国政を修め、外、軍旅を総べ、民を撫し物を愛し、将士畏服し兵威日に強し。顕定、資長を忌み之を除かんと欲し、人をして間を為さしむ。定正之を信じ、資長を糟谷に召して之を殺す。資長、死に臨み和歌を詠ず。其歌に曰く、「昨日まで、莫亡想を、入れ置きし、へむなし袋、今破れけむ。」聞者之を哀む。是より扇谷の兵鋒大に衰へり。
書き下し
○資長、勇にして才略あり、能く武事に練達す、尤も築城に長ぜり。江戸、河越、岩槻、鉢形等の九城、皆其築く所なりとぞ。世に稱して軍法の師範と云ふ。後世其流を酌む者持資流と云ひ、又道灌流とも云ふ。資長善く謀り、善く戰ふ、故を以て衆皆長憚す。屬下或は誇て曰く、諸葛武侯の再生なりと。 ○資長、松山城を築きし時、一簡を東門に懸け、此城に難を加ふる者あらば、重賞を以て之を謝せんと言ふ。時に城壁の四面に松を植たり。一の旅人あり、仰ぎ見て松は不斷の風を含み、颯々の響あれば、間に入るの便あり、四面の松は植ざるに如かずと言て去る。資長、之を聞き大に驚き、人をして之を追はしむるに、旅人遂に見えず、世に傳へて神人と爲せり。 ○初め定正、封地狹小なるを以て、常に顯定に屬す。資長、政を執るに及びて、内、國政を修め、外、軍旅を總べ、民を撫し物を愛し、將士畏服し兵威日に強し。顯定、資長を忌み之を除かんと欲し、人をして間を爲さしむ。定正之を信じ、資長を糟谷に召して之を殺す。資長、死に臨み和歌を詠ず。其歌に曰く、「昨日まで、莫亡想を、入れ置きし、へむなし袋、今破れけむ。」聞者之を哀む。是より扇谷の兵鋒大に衰へり。
現代語訳
資長は勇気があって才略があり、よく武事に練達し、とくに築城にすぐれていました。江戸、河越、岩槻、鉢形など九つの城は、みな彼が築いたものだということです。世の人は称して軍法の師範といいます。後世、その流れを汲む者を持資流と呼び、また道灌流とも呼びます。資長はよくはかり、よく戦ったため、皆が恐れ慎みました。配下の中には、誇って「諸葛武侯の再生である」と言う者もありました。 資長が松山城を築いたとき、一枚の札を東門に掛けて、「この城に難点を指摘する者があれば、重い賞をもって謝する」と言いました。そのとき、城壁の四面に松を植えていました。一人の旅人が仰ぎ見て、「松は絶え間なく風を含み、さらさらと響くので、そのすきに入り込む便宜がある。四面の松は植えないほうがよい」と言って去りました。資長はこれを聞いて大いに驚き、人にこれを追わせましたが、旅人はついに見つからず、世に伝えて神人としました。 初め定正は領地が狭く小さかったので、常に顕定に従っていました。資長が政を執るようになると、内では国の政治を整え、外では軍務を総べ、民をいたわり物を愛し、将兵は畏れ服し、兵の威勢は日に強まりました。顕定は資長を忌み、除こうとして人に離間の工作をさせました。定正はこれを信じ、資長を糟屋に呼んで殺しました。資長は死に臨んで和歌を詠みました。その歌にいう、「昨日まで、莫妄想を、入れ置きし、へむなし袋、今破れけむ」。聞く者はこれを哀れみました。これより扇谷の兵の勢いは大いに衰えました。
解説

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