名将言行録 / 『名将言行録』太田資長 評・山吹の話の出どころ
○道灌の名は、江戸城の築城と山吹の花とで、誰人にも親しい。しかし、山吹の話は、ちやんと本家がある。それは、醍醐天皇の皇子兼明親王の御逸話で、御拾遺集雜の部に見えてゐる。(小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける、みの(蓑)かる人の侍けれや、山吹の枝を折りとらせて侍けり。心もえでまかり過て、又の日やま吹の心もえざりしよしいひおこせて侍ける返事にいひつかはしける なゝへやへ花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき)道灌の父、資清も文武の方が豊かであり、道灌は九歳で建長寺に修學にやられ、十一歳で父に送つた作文が、流麗壯快で、そのため歸家のお許しが出たと云ふ神童で、歌學も幼少から修めてゐただろうから、少女に山吹の花を出されて、まごつくやうな事は絶對にないのである。 恐らく、道灌自身が、誰かをからかふつもりで(身共が、昨日狩に行つて、雨に降られ、賤が家に立ち寄つて、みのを借らうと思つたところ、二八ばかりの少女が、だまつて山吹の花を出した、お手前には、この意味が分るだらうか)と、云ふやうな事を話したため、こんな話が出來たのであらう。(驕者不久)に對し(不驕又不久)と、即座に書けるやうな頭のいゝ學問のある人は、昔から澤山はゐなかつたであらう。 歌學の知識をすぐ軍陣に應用するなど、道灌の機根の拔群さを示してゐるが、外の學問も盛んに軍陣に應用したのであらうが、それは周圍の人には、解せなかつたのであらう。
新字:○道灌の名は、江戸城の築城と山吹の花とで、誰人にも親しい。しかし、山吹の話は、ちやんと本家がある。それは、醍醐天皇の皇子兼明親王の御逸話で、御拾遺集雑の部に見えてゐる。(小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける、みの(蓑)かる人の侍けれや、山吹の枝を折りとらせて侍けり。心もえでまかり過て、又の日やま吹の心もえざりしよしいひおこせて侍ける返事にいひつかはしける なゝへやへ花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき)道灌の父、資清も文武の方が豊かであり、道灌は九歳で建長寺に修学にやられ、十一歳で父に送つた作文が、流麗壮快で、そのため帰家のお許しが出たと云ふ神童で、歌学も幼少から修めてゐただろうから、少女に山吹の花を出されて、まごつくやうな事は絶対にないのである。 恐らく、道灌自身が、誰かをからかふつもりで(身共が、昨日狩に行つて、雨に降られ、賤が家に立ち寄つて、みのを借らうと思つたところ、二八ばかりの少女が、だまつて山吹の花を出した、お手前には、この意味が分るだらうか)と、云ふやうな事を話したため、こんな話が出来たのであらう。(驕者不久)に対し(不驕又不久)と、即座に書けるやうな頭のいゝ学問のある人は、昔から沢山はゐなかつたであらう。 歌学の知識をすぐ軍陣に応用するなど、道灌の機根の抜群さを示してゐるが、外の学問も盛んに軍陣に応用したのであらうが、それは周囲の人には、解せなかつたのであらう。
書き下し
○道灌の名は、江戸城の築城と山吹の花とで、誰人にも親しい。しかし、山吹の話は、ちやんと本家がある。それは、醍醐天皇の皇子兼明親王の御逸話で、御拾遺集雜の部に見えてゐる。(小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける、みの(蓑)かる人の侍けれや、山吹の枝を折りとらせて侍けり。心もえでまかり過て、又の日やま吹の心もえざりしよしいひおこせて侍ける返事にいひつかはしける なゝへやへ花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき)道灌の父、資清も文武の方が豊かであり、道灌は九歳で建長寺に修學にやられ、十一歳で父に送つた作文が、流麗壯快で、そのため歸家のお許しが出たと云ふ神童で、歌學も幼少から修めてゐただろうから、少女に山吹の花を出されて、まごつくやうな事は絶對にないのである。 恐らく、道灌自身が、誰かをからかふつもりで(身共が、昨日狩に行つて、雨に降られ、賤が家に立ち寄つて、みのを借らうと思つたところ、二八ばかりの少女が、だまつて山吹の花を出した、お手前には、この意味が分るだらうか)と、云ふやうな事を話したため、こんな話が出來たのであらう。(驕者不久)に對し(不驕又不久)と、即座に書けるやうな頭のいゝ學問のある人は、昔から澤山はゐなかつたであらう。 歌學の知識をすぐ軍陣に應用するなど、道灌の機根の拔群さを示してゐるが、外の學問も盛んに軍陣に應用したのであらうが、それは周圍の人には、解せなかつたのであらう。
現代語訳
道灌の名は、江戸城の築城と山吹の花とで、誰にも親しい。しかし、山吹の話は、ちゃんと本家がある。それは、醍醐天皇の皇子兼明親王の御逸話で、後拾遺集雑の部に見えている。(小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける、みの(蓑)かる人の侍けれや、山吹の枝を折りとらせて侍けり。心もえでまかり過て、又の日やま吹の心もえざりしよしいひおこせて侍ける返事にいひつかはしける なゝへやへ花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき)道灌の父、資清も文武の方が豊かであり、道灌は九歳で建長寺に修学にやられ、十一歳で父に送った作文が、流麗壮快で、そのため帰家のお許しが出たという神童で、歌学も幼少から修めていただろうから、少女に山吹の花を出されて、まごつくような事は絶対にないのである。 恐らく、道灌自身が、誰かをからかうつもりで(身共が、昨日狩に行って、雨に降られ、賤が家に立ち寄って、みのを借りようと思ったところ、二八ばかりの少女が、だまって山吹の花を出した、お手前には、この意味が分かるだろうか)と、いうような事を話したため、こんな話が出来たのであろう。(驕者不久)に対し(不驕又不久)と、即座に書けるような頭のいい学問のある人は、昔から沢山はいなかったであろう。 歌学の知識をすぐ軍陣に応用するなど、道灌の機根の抜群さを示しているが、外の学問も盛んに軍陣に応用したのであろうが、それは周囲の人には、解せなかったのであろう。
解説

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名将言行録・『名将言行録』太田資長 正直と驕りの問答備中守資清の子、正五位下に叙し、左衞門大夫に任ず。後髮を削り道灌と號す。上杉定正に仕へ、江戶城に住す。初め持資、後今の名に改む。文明十八年七月二十六日害に遭ふ。年五十五。 ○資長初め鶴千代と云ふ。幼にして雄偉父祖之を奇なりとす。九歲學校に入り、十一歲能く文を屬す、十五歲の時、父資清、其不羈なるを患ひ、一日鶴千代を招て曰く、古より智ある者は僞多し、僞る者は禍に逢はざる者希なり、故に人は正直にあらざればならず、譬ば障子の如し、直なれば立ち、曲れる時は立ざるものなりと、敎へけり。鶴千代、之を聞き居たりしが、頓て座を立ち、屛風を持來り、是等は直ければ立ず、曲れば立ち候、是は如何に候やと問ふ。資清、詞なくして奧へ入りぬ。資清、後又驕者不レ久の四字を書し床に掛置き、鶴千代を招き、此四字の意心得候やと尋ねければ、如何にも心得候、願くは四字の側に五字を書し申度と言ふ。資清望みに任せければ、鶴千代、即ち筆を取り其側に、不レ驕又不レ久の五字を大書す。資清、大に怒り扇を以て鶴千代を打つ、鶴千代走り去る。其不驕牽ね斯の如し。
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 山吹の花と古歌○資長嘗て放鷹に出で雨に遭ひ、或小家に入て簑を借らんと言ふに、若き女の、何にとも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出せり。資長、我は花を求むるにあらずと言て怒て歸れり。或人之を聞き、夫は「七重八重、花は咲けども、山吹の、みの一つだに、なきぞ悲しき。」と云ふ古歌の心なるべし、と言ければ資長大に恥ぢ、夫より憤を發し、歌學しければ、遂に名家とは成りてけり。碎玉類題、江戶歌合、慕京集、平安紀行等の書あり。 ○資長、臣下に罪ありて誅すべき者七人あり、其者七人一つ屋敷に楯籠り、五六百人にて取卷きけれども、討得ず。資長、侍を一人目利して、其侍に謂て曰く、屋敷に取籠りたる七人の者を、其方一人にて討取るべし、夫には討たせ樣あり、只今其屋敷を取卷きて居る者共へ、我所より使を遣はすべし、其使の口上は其屋敷に七人取籠りたり、其中に一人助くる者あり、取卷く者共、其心得せよと、高聲に言觸さすべき間、其使の口上屋敷の中の七人の者共に聞えたるべし、と思ふ頃、其方内へ切て入り七人を討取るべしと申含めたり。偖使來て取卷きたる者共に、七人の内に一人助け給ふ者あり、卒爾に討つべからず、と高聲に觸て、後仕手の一人屋敷へ飛入り、座敷へ踏込みけるに、七人の者共出向ふとは雖も、右の使の言觸れたるを聞きたる故、助かる者は我か〳〵と思ふ疑の心出來て打太刀も控る心ありつる故、七人を一人にて殘らず討果せり。資長曰く、此度の討者は、古歌の心を以て輕く討たせたり、と言て其歌を吟じたり。歌に曰く、「世の中に、獨り止まる、ものならば、若し我かはと、身をや賴まん。」
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 築城と松の進言○資長、勇にして才略あり、能く武事に練達す、尤も築城に長ぜり。江戸、河越、岩槻、鉢形等の九城、皆其築く所なりとぞ。世に稱して軍法の師範と云ふ。後世其流を酌む者持資流と云ひ、又道灌流とも云ふ。資長善く謀り、善く戰ふ、故を以て衆皆長憚す。屬下或は誇て曰く、諸葛武侯の再生なりと。 ○資長、松山城を築きし時、一簡を東門に懸け、此城に難を加ふる者あらば、重賞を以て之を謝せんと言ふ。時に城壁の四面に松を植たり。一の旅人あり、仰ぎ見て松は不斷の風を含み、颯々の響あれば、間に入るの便あり、四面の松は植ざるに如かずと言て去る。資長、之を聞き大に驚き、人をして之を追はしむるに、旅人遂に見えず、世に傳へて神人と爲せり。 ○初め定正、封地狹小なるを以て、常に顯定に屬す。資長、政を執るに及びて、内、國政を修め、外、軍旅を總べ、民を撫し物を愛し、將士畏服し兵威日に強し。顯定、資長を忌み之を除かんと欲し、人をして間を爲さしむ。定正之を信じ、資長を糟谷に召して之を殺す。資長、死に臨み和歌を詠ず。其歌に曰く、「昨日まで、莫亡想を、入れ置きし、へむなし袋、今破れけむ。」聞者之を哀む。是より扇谷の兵鋒大に衰へり。
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 評・離間と暗殺の構図當時は、古河公方の成氏が管領の兩上杉と、對抗して居り、又山内上杉の家老の長尾景春が成氏と通じて、主家の山内に背いて、兩上杉を謀らうとした。その景春の計畫は、道灌の奮戰で、挫折したが、その後は山内上杉と道灌の屬してゐる扇谷上杉との對抗の形となつて來た。 道灌は、山内上杉に對する戰備として、江戸川越兩城の强化を計つた。道灌を怖れてゐた山内の上杉顯定は、道灌の主人である扇谷の上杉定正に、(道灌は自立を考へてゐるのだ)と、反間を放つたのである。 相手方の有力な部將を、その主人に疑はせて殺すのは、この時代の謀略の一つである。暗愚な大將は、大抵これにひつかゝるのである。上杉謙信のやうな短氣な大將も、これにかゝつてゐる。 道灌は、暗殺されるとき(當家滅亡!)と、叫んだと云ふが、道灌が倒れた後、道灌の父道眞、その子の資康も、扇谷に反抗し、山内の上杉顯定は、早くも扇谷に挑戰して來て、定正は忽ち當家滅亡!の姿を現はしたのである。 道灌の辟世の歌と云ふのは、少し怪しい。暗殺される前から用意してゐたわけでもあるまいから。
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 歌と学びと天神○康正元年藤澤の役、中村式部少輔重顯、敵を打取り資長に向ひ、此志の優き、歌一つものして手向にと勸めければ、資長其首に向て「斯る時、さこそ命の、惜しからめ、兼てなき身と、思ひ知らずば。」又寛正六年、資長京に上りし時、時の御門より武藏野の廣原を尋ね給ふ、資長、「露置かぬ、方もありけり、夕立の、空より廣き、武藏野の原。」と詠じて獻ず。又武藏野の風景を尋ね給ひければ、資長、「我庵は、松原續き、海近く、富士の高根を、軒端にぞ見る。」と詠じて奉りしかば、叡感斜めならず、御製を賜ふ。「武藏野は、高かやのみと、思ひしに、斯る言葉の、花や咲らん。」其後、文明中京に上りし時、又隅田川都島のことを尋ね給ふ。資長、「年歴れど、我がまだ知らぬ、都鳥、隅田川原に、宿はあれども。」又細川右京大夫勝元、短慮不レ成レ功と云ふ心を尋ねしかば、資長、「急がずば、ぬれざらましを、旅人の、跡より晴るゝ、野路の村雨。」 ○資長、書齋を靜勝軒と云ふ。平日心を翰墨に繫け、經史を始め、醫書、兵書、歌書等數萬卷を集め、軍旅の暇には、常に之を講習し、又關東、關西の知名の者に詩を作らせ、壁間に掛て、之を樂みとせり。僧集九が詩に曰く、山仰二士峰一人道灌。 ○文明中、資長夢に菅公を視る。明る日人來り菅公親筆の畫像を贈る。資長以爲らく、靈夢なりと、即ち城外に祠を建て之を祀る。湯島天神是なり。數十頃の田を寄附し、梅數十株を栽ゑけり。
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 怪異を恐れない目○資長居城の内、山里と云ふ所に、笠程の菌一夜に生出たり、諸人物怪なりとて資長へ告ぐ。資長聞き決して物怪にあらず、濕氣深き所には何程も大きなる菌出づべし、自然逆樣抔に生たらば不思議とも申すべしと言ふ。其後十日計り過ぎて、又同樣の菌逆に生たり。諸人驚き資長へ告ぐ。資長聞て以前生出たる時、逆樣ならば不思議なれども、此方より智惠を付られて逆に生出ること誠に笑ふに堪へたりと言ふ。其後火爐の中なる鐵輪踊り歩むを見て、人間は足二つにてさへ自由に歩むなり、足三つにて歩むこと珍しからず、其樣なる事は皆狐狸の爲す業なり、狐狸人間に誑がされて惑ふと見えたりと、冷笑自若として居たりしかば、其後は何事もなかりしとぞ。 ○資長京に上りし時、將軍義政饗應せんと言ふ。資長、義政に一つの猿ありて見知らぬ人をば、必ず掻き傷ふと云ふことを傳へ聞て、猿師に賂なひて密に猿を借り、旅亭の庭に繫ぎ置き、出仕の裝束して側を過ぐるに、猿飛び掛れり。資長鞭を以て思ふ樣に打伏せたれば、後には猿首を垂れて怖れ居たり。資長猿師に禮謝して、猿を返したり。斯くて饗應の日兼ねて義政彼猿を通るべき所に繫ぎ置き、資長が振舞を見んと待ちけるに、彼猿資長を見るや否や、地に平伏す。資長衣紋引き繕ひ打過ぎければ、義政見て尋常の人にあらずと言て大に驚きしとぞ。