名将言行録 / 『名将言行録』太田資長 正直と驕りの問答
備中守資清の子、正五位下に叙し、左衞門大夫に任ず。後髮を削り道灌と號す。上杉定正に仕へ、江戶城に住す。初め持資、後今の名に改む。文明十八年七月二十六日害に遭ふ。年五十五。 ○資長初め鶴千代と云ふ。幼にして雄偉父祖之を奇なりとす。九歲學校に入り、十一歲能く文を屬す、十五歲の時、父資清、其不羈なるを患ひ、一日鶴千代を招て曰く、古より智ある者は僞多し、僞る者は禍に逢はざる者希なり、故に人は正直にあらざればならず、譬ば障子の如し、直なれば立ち、曲れる時は立ざるものなりと、敎へけり。鶴千代、之を聞き居たりしが、頓て座を立ち、屛風を持來り、是等は直ければ立ず、曲れば立ち候、是は如何に候やと問ふ。資清、詞なくして奧へ入りぬ。資清、後又驕者不レ久の四字を書し床に掛置き、鶴千代を招き、此四字の意心得候やと尋ねければ、如何にも心得候、願くは四字の側に五字を書し申度と言ふ。資清望みに任せければ、鶴千代、即ち筆を取り其側に、不レ驕又不レ久の五字を大書す。資清、大に怒り扇を以て鶴千代を打つ、鶴千代走り去る。其不驕牽ね斯の如し。
新字:備中守資清の子、正五位下に叙し、左衛門大夫に任ず。後髪を削り道灌と号す。上杉定正に仕へ、江戸城に住す。初め持資、後今の名に改む。文明十八年七月二十六日害に遭ふ。年五十五。 ○資長初め鶴千代と云ふ。幼にして雄偉父祖之を奇なりとす。九歳学校に入り、十一歳能く文を属す、十五歳の時、父資清、其不羈なるを患ひ、一日鶴千代を招て曰く、古より智ある者は偽多し、偽る者は禍に逢はざる者希なり、故に人は正直にあらざればならず、譬ば障子の如し、直なれば立ち、曲れる時は立ざるものなりと、教へけり。鶴千代、之を聞き居たりしが、頓て座を立ち、屛風を持来り、是等は直ければ立ず、曲れば立ち候、是は如何に候やと問ふ。資清、詞なくして奥へ入りぬ。資清、後又驕者不レ久の四字を書し床に掛置き、鶴千代を招き、此四字の意心得候やと尋ねければ、如何にも心得候、願くは四字の側に五字を書し申度と言ふ。資清望みに任せければ、鶴千代、即ち筆を取り其側に、不レ驕又不レ久の五字を大書す。資清、大に怒り扇を以て鶴千代を打つ、鶴千代走り去る。其不驕牽ね斯の如し。
書き下し
備中守資清の子、正五位下に叙し、左衞門大夫に任ず。後髮を削り道灌と號す。上杉定正に仕へ、江戶城に住す。初め持資、後今の名に改む。文明十八年七月二十六日害に遭ふ。年五十五。 ○資長初め鶴千代と云ふ。幼にして雄偉父祖之を奇なりとす。九歲學校に入り、十一歲能く文を屬す、十五歲の時、父資清、其不羈なるを患ひ、一日鶴千代を招て曰く、古より智ある者は僞多し、僞る者は禍に逢はざる者希なり、故に人は正直にあらざればならず、譬ば障子の如し、直なれば立ち、曲れる時は立ざるものなりと、敎へけり。鶴千代、之を聞き居たりしが、頓て座を立ち、屛風を持來り、是等は直ければ立ず、曲れば立ち候、是は如何に候やと問ふ。資清、詞なくして奧へ入りぬ。資清、後又驕者不レ久の四字を書し床に掛置き、鶴千代を招き、此四字の意心得候やと尋ねければ、如何にも心得候、願くは四字の側に五字を書し申度と言ふ。資清望みに任せければ、鶴千代、即ち筆を取り其側に、不レ驕又不レ久の五字を大書す。資清、大に怒り扇を以て鶴千代を打つ、鶴千代走り去る。其不驕牽ね斯の如し。
現代語訳
備中守資清の子で、正五位下に叙せられ、左衛門大夫に任じられました。のち髪を剃って道灌と号しました。上杉定正に仕え、江戸城に住みました。初めは持資といい、のちに今の名に改めました。文明十八年七月二十六日、害に遭いました。享年五十五。 資長は初め鶴千代といいました。幼いころから雄々しくすぐれ、父祖は彼を非凡な子だと思っていました。九歳で学校に入り、十一歳でよく文を綴りました。十五歳のとき、父の資清はその奔放さを心配し、ある日、鶴千代を呼んで言いました。「昔から知恵のある者は偽りが多い。偽る者が禍にあわないことは稀だ。だから人は正直でなければならない。たとえば障子のようなものだ。まっすぐなら立つが、曲がっていれば立たないものだ」と教えました。鶴千代はこれを聞いていましたが、やがて座を立ち、屏風を持ってきて、「これらはまっすぐだと立たず、曲がっていれば立ちます。これはどうでしょうか」と尋ねました。資清は返す言葉がなく、奥へ入りました。資清はのち、また「驕者不久」の四字を書いて床に掛けておき、鶴千代を呼んで、「この四字の意味がわかるか」と尋ねました。鶴千代は「よくわかっております。願わくは四字のそばに五字を書き加えたく思います」と言いました。資清が望みにまかせると、鶴千代はたちまち筆を取り、そのそばに「不驕又不久」の五字を大書しました。資清は大いに怒り、扇で鶴千代を打ち、鶴千代は走り去りました。その不驕であることはこのようでした。
解説

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名将言行録・『名将言行録』太田資長 築城と松の進言○資長、勇にして才略あり、能く武事に練達す、尤も築城に長ぜり。江戸、河越、岩槻、鉢形等の九城、皆其築く所なりとぞ。世に稱して軍法の師範と云ふ。後世其流を酌む者持資流と云ひ、又道灌流とも云ふ。資長善く謀り、善く戰ふ、故を以て衆皆長憚す。屬下或は誇て曰く、諸葛武侯の再生なりと。 ○資長、松山城を築きし時、一簡を東門に懸け、此城に難を加ふる者あらば、重賞を以て之を謝せんと言ふ。時に城壁の四面に松を植たり。一の旅人あり、仰ぎ見て松は不斷の風を含み、颯々の響あれば、間に入るの便あり、四面の松は植ざるに如かずと言て去る。資長、之を聞き大に驚き、人をして之を追はしむるに、旅人遂に見えず、世に傳へて神人と爲せり。 ○初め定正、封地狹小なるを以て、常に顯定に屬す。資長、政を執るに及びて、内、國政を修め、外、軍旅を總べ、民を撫し物を愛し、將士畏服し兵威日に強し。顯定、資長を忌み之を除かんと欲し、人をして間を爲さしむ。定正之を信じ、資長を糟谷に召して之を殺す。資長、死に臨み和歌を詠ず。其歌に曰く、「昨日まで、莫亡想を、入れ置きし、へむなし袋、今破れけむ。」聞者之を哀む。是より扇谷の兵鋒大に衰へり。
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 評・山吹の話の出どころ○道灌の名は、江戸城の築城と山吹の花とで、誰人にも親しい。しかし、山吹の話は、ちやんと本家がある。それは、醍醐天皇の皇子兼明親王の御逸話で、御拾遺集雜の部に見えてゐる。(小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける、みの(蓑)かる人の侍けれや、山吹の枝を折りとらせて侍けり。心もえでまかり過て、又の日やま吹の心もえざりしよしいひおこせて侍ける返事にいひつかはしける なゝへやへ花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき)道灌の父、資清も文武の方が豊かであり、道灌は九歳で建長寺に修學にやられ、十一歳で父に送つた作文が、流麗壯快で、そのため歸家のお許しが出たと云ふ神童で、歌學も幼少から修めてゐただろうから、少女に山吹の花を出されて、まごつくやうな事は絶對にないのである。 恐らく、道灌自身が、誰かをからかふつもりで(身共が、昨日狩に行つて、雨に降られ、賤が家に立ち寄つて、みのを借らうと思つたところ、二八ばかりの少女が、だまつて山吹の花を出した、お手前には、この意味が分るだらうか)と、云ふやうな事を話したため、こんな話が出來たのであらう。(驕者不久)に對し(不驕又不久)と、即座に書けるやうな頭のいゝ學問のある人は、昔から澤山はゐなかつたであらう。 歌學の知識をすぐ軍陣に應用するなど、道灌の機根の拔群さを示してゐるが、外の學問も盛んに軍陣に應用したのであらうが、それは周圍の人には、解せなかつたのであらう。
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名将言行録・『名将言行録』太田資正 忠義と読みの確かさ○上杉憲政、平井を捨て越後に奔りし時、扇谷の上杉朝定、岩槻に來り、一向に賴む由を言入ければ、資正涙を流し、曾祖父道灌は忠ありて罪なく候ひしを、修理大夫殿、曾我鹽谷が讒言を信ぜられ、糟谷の館に於て橫死して候、其頃某は生れざる以前の事なれども、兄にて候三郎は、心を盡して讒言を構へたる曾我をば討取り、偖扇谷殿をば先祖の仇と思ふべからず、と吳々申て腫物を病み死て候。箇樣の遺言なくば資正は生れ付たる腹立症の者にて、君の御兄弟を恙なくとは申間敷候へ共、今日の御有樣を見參らせては、思ひ殘す方もなく候、とて直垂の袖を濡しける。朝定、此言を聞き暫時は淚に咽びて詞も出さず。良ありて資正、何事も今は是までにて候、平井の事こそ覺束なく候へ、臆病至極の町人原、我身を遁れんが爲め、龍若君を取り參らせ、必定降參仕るべく、彼妻鹿田九里と云ふは、境の町人なりと承はり候へば、頼むに足らずとて、先以て朝定の使者として、那須某を遣はし、事の樣を尋ぬるに、平井には長尾佐治右衞門數千騎にて馳來り、龍若丸を守護する由聞えければ、資正、偖は別儀なく、左候はゞ、越後輝虎の發向を勸めんとありし所に、明年正月下旬、長尾、平井を捨ける由聞えければ、資正驚き、早速中村伊勢守に五百餘人を副へ、龍若丸を迎ひとして平井へ遣はしけれども、一日以前小田原へ捕はれたりとて城中には人もなし、捨置きたる財寶を町人、百姓等爭ひ取り、蔀遣り戸壁墻を壞ち、散々に荒果てたり。憲政出奔の後一年を過ぎざるに、右の如くなれば、伊勢守大に怒り、數日逗留して馳廻り、妻鹿田等、並に降參せし人々の殘黨を打捕り、三十餘人が首を蓮沼に掛けさせ府中の狼藉强盜を靜め、飛脚を以て、輝虎に注進せり。輝虎之を聞き、伊勢守を褒賞し、太田が家の水を飲めば、犬も能く獸を取ると言て笑はれしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』太田資長 評・離間と暗殺の構図當時は、古河公方の成氏が管領の兩上杉と、對抗して居り、又山内上杉の家老の長尾景春が成氏と通じて、主家の山内に背いて、兩上杉を謀らうとした。その景春の計畫は、道灌の奮戰で、挫折したが、その後は山内上杉と道灌の屬してゐる扇谷上杉との對抗の形となつて來た。 道灌は、山内上杉に對する戰備として、江戸川越兩城の强化を計つた。道灌を怖れてゐた山内の上杉顯定は、道灌の主人である扇谷の上杉定正に、(道灌は自立を考へてゐるのだ)と、反間を放つたのである。 相手方の有力な部將を、その主人に疑はせて殺すのは、この時代の謀略の一つである。暗愚な大將は、大抵これにひつかゝるのである。上杉謙信のやうな短氣な大將も、これにかゝつてゐる。 道灌は、暗殺されるとき(當家滅亡!)と、叫んだと云ふが、道灌が倒れた後、道灌の父道眞、その子の資康も、扇谷に反抗し、山内の上杉顯定は、早くも扇谷に挑戰して來て、定正は忽ち當家滅亡!の姿を現はしたのである。 道灌の辟世の歌と云ふのは、少し怪しい。暗殺される前から用意してゐたわけでもあるまいから。
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