名将言行録 / 『名将言行録』太田資長 山吹の花と古歌
○資長嘗て放鷹に出で雨に遭ひ、或小家に入て簑を借らんと言ふに、若き女の、何にとも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出せり。資長、我は花を求むるにあらずと言て怒て歸れり。或人之を聞き、夫は「七重八重、花は咲けども、山吹の、みの一つだに、なきぞ悲しき。」と云ふ古歌の心なるべし、と言ければ資長大に恥ぢ、夫より憤を發し、歌學しければ、遂に名家とは成りてけり。碎玉類題、江戶歌合、慕京集、平安紀行等の書あり。 ○資長、臣下に罪ありて誅すべき者七人あり、其者七人一つ屋敷に楯籠り、五六百人にて取卷きけれども、討得ず。資長、侍を一人目利して、其侍に謂て曰く、屋敷に取籠りたる七人の者を、其方一人にて討取るべし、夫には討たせ樣あり、只今其屋敷を取卷きて居る者共へ、我所より使を遣はすべし、其使の口上は其屋敷に七人取籠りたり、其中に一人助くる者あり、取卷く者共、其心得せよと、高聲に言觸さすべき間、其使の口上屋敷の中の七人の者共に聞えたるべし、と思ふ頃、其方内へ切て入り七人を討取るべしと申含めたり。偖使來て取卷きたる者共に、七人の内に一人助け給ふ者あり、卒爾に討つべからず、と高聲に觸て、後仕手の一人屋敷へ飛入り、座敷へ踏込みけるに、七人の者共出向ふとは雖も、右の使の言觸れたるを聞きたる故、助かる者は我か〳〵と思ふ疑の心出來て打太刀も控る心ありつる故、七人を一人にて殘らず討果せり。資長曰く、此度の討者は、古歌の心を以て輕く討たせたり、と言て其歌を吟じたり。歌に曰く、「世の中に、獨り止まる、ものならば、若し我かはと、身をや賴まん。」
新字:○資長嘗て放鷹に出で雨に遭ひ、或小家に入て簑を借らんと言ふに、若き女の、何にとも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出せり。資長、我は花を求むるにあらずと言て怒て帰れり。或人之を聞き、夫は「七重八重、花は咲けども、山吹の、みの一つだに、なきぞ悲しき。」と云ふ古歌の心なるべし、と言ければ資長大に恥ぢ、夫より憤を発し、歌学しければ、遂に名家とは成りてけり。砕玉類題、江戸歌合、慕京集、平安紀行等の書あり。 ○資長、臣下に罪ありて誅すべき者七人あり、其者七人一つ屋敷に楯籠り、五六百人にて取巻きけれども、討得ず。資長、侍を一人目利して、其侍に謂て曰く、屋敷に取籠りたる七人の者を、其方一人にて討取るべし、夫には討たせ様あり、只今其屋敷を取巻きて居る者共へ、我所より使を遣はすべし、其使の口上は其屋敷に七人取籠りたり、其中に一人助くる者あり、取巻く者共、其心得せよと、高声に言触さすべき間、其使の口上屋敷の中の七人の者共に聞えたるべし、と思ふ頃、其方内へ切て入り七人を討取るべしと申含めたり。偖使来て取巻きたる者共に、七人の内に一人助け給ふ者あり、卒爾に討つべからず、と高声に触て、後仕手の一人屋敷へ飛入り、座敷へ踏込みけるに、七人の者共出向ふとは雖も、右の使の言触れたるを聞きたる故、助かる者は我か〳〵と思ふ疑の心出来て打太刀も控る心ありつる故、七人を一人にて残らず討果せり。資長曰く、此度の討者は、古歌の心を以て軽く討たせたり、と言て其歌を吟じたり。歌に曰く、「世の中に、独り止まる、ものならば、若し我かはと、身をや頼まん。」
書き下し
○資長嘗て放鷹に出で雨に遭ひ、或小家に入て簑を借らんと言ふに、若き女の、何にとも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出せり。資長、我は花を求むるにあらずと言て怒て歸れり。或人之を聞き、夫は「七重八重、花は咲けども、山吹の、みの一つだに、なきぞ悲しき。」と云ふ古歌の心なるべし、と言ければ資長大に恥ぢ、夫より憤を發し、歌學しければ、遂に名家とは成りてけり。碎玉類題、江戶歌合、慕京集、平安紀行等の書あり。 ○資長、臣下に罪ありて誅すべき者七人あり、其者七人一つ屋敷に楯籠り、五六百人にて取卷きけれども、討得ず。資長、侍を一人目利して、其侍に謂て曰く、屋敷に取籠りたる七人の者を、其方一人にて討取るべし、夫には討たせ樣あり、只今其屋敷を取卷きて居る者共へ、我所より使を遣はすべし、其使の口上は其屋敷に七人取籠りたり、其中に一人助くる者あり、取卷く者共、其心得せよと、高聲に言觸さすべき間、其使の口上屋敷の中の七人の者共に聞えたるべし、と思ふ頃、其方内へ切て入り七人を討取るべしと申含めたり。偖使來て取卷きたる者共に、七人の内に一人助け給ふ者あり、卒爾に討つべからず、と高聲に觸て、後仕手の一人屋敷へ飛入り、座敷へ踏込みけるに、七人の者共出向ふとは雖も、右の使の言觸れたるを聞きたる故、助かる者は我か〳〵と思ふ疑の心出來て打太刀も控る心ありつる故、七人を一人にて殘らず討果せり。資長曰く、此度の討者は、古歌の心を以て輕く討たせたり、と言て其歌を吟じたり。歌に曰く、「世の中に、獨り止まる、ものならば、若し我かはと、身をや賴まん。」
現代語訳
資長がかつて鷹狩りに出て雨にあい、ある小さな家に入って蓑を借りたいと言うと、若い女は何も言わずに、山吹の花を一枝折って差し出しました。資長は「私は花を求めているのではない」と言って怒って帰りました。ある人がこれを聞いて、「それは『七重八重、花は咲けども、山吹の、みの一つだに、なきぞ悲しき』という古歌の心でしょう」と言ったところ、資長は大いに恥じ、それから憤りを発して歌学に励み、ついに歌の名家となりました。「砕玉類題」「江戸歌合」「慕京集」「平安紀行」などの書があります。 資長の家臣に罪があって誅すべき者が七人あり、その七人が一つ屋敷に立て籠もり、五、六百人で取り巻いても討つことができませんでした。資長は侍を一人選んで、その侍に言いました。「屋敷に立て籠もった七人の者を、おまえ一人で討ち取れ。それには討たせ方がある。ただいま、その屋敷を取り巻いている者たちへ、私のところから使いを遣わす。その使いの口上は、屋敷に七人が立て籠もっているが、その中の一人を助ける者がある、取り巻く者どもはその心得でいよ、と高い声で言い触らさせる。その使いの口上が屋敷の中の七人にも聞こえただろうと思う頃、おまえは中へ切り込んで七人を討ち取れ」と言い含めました。さて使いが来て、取り巻いている者たちに「七人のうちに一人、助けられる者がある、軽はずみに討つな」と高い声で触れ、その後、討ち手の一人が屋敷へ飛び込み、座敷へ踏み込むと、七人の者は出向かいましたが、先の使いの言い触らしを聞いていたため、助かる者は自分かもしれないという疑いが生じ、打ち込む太刀もためらう心があったので、七人を一人で残らず討ち果たしました。資長は「このたびの討ち手は、古歌の心によって軽く討たせたのだ」と言って、その歌を吟じました。歌にいう、「世の中に、独り止まる、ものならば、もし我かはと、身をや頼まん」。
解説

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