名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 評・川越の夜軍
○氏康は、北條氏綱の子で、早雲の孫である。戰國時代屈指の名將である。西の毛利元就に對抗し得る人物で、恐らく天下取りの素質があつた一人だと思ふ。 それに、祖父早雲ほどの惡辣さがなく、戰場の勇將である點なども、好感が得てる。頼山陽は、戰國時代の三大戰として嚴島の役、桶狹間の役と川越の夜軍とを擧げてゐる。川越は、東京近くであるに拘はらず、「川越の夜軍」など知つてゐる人は、ごく少い。これは、北條氏が滅んでしまつたためでもあるが、現在の皇軍は、陸海軍とも夜襲戰が得意である點を考へても、典型的夜襲戰である「川越の夜軍」は、もう少し世へに知られてもいゝのではないかと思ふ。 桶狹間の戰が大膽不的な奇襲戰であり、嚴島の戰が、二三年もかゝつた謀略戰であるに比し、「川越の夜軍」は、戰場に於ける智謀戰であり、氏康がいかに頭がよかつたかゞ分るのである。猛將の上杉謙信に對する態度なども、氏康らしく老巧無類である。しかし、かうした籠城に依つて、敵の英氣を挫折すると云ふ頭のいゝやり方を、暗愚の氏政が、秀吉に應用し損じて、北條家が亡んだのである。それは謙信と秀吉とを同じやうに考へた愚かさからも來たのである。
新字:○氏康は、北条氏綱の子で、早雲の孫である。戦国時代屈指の名将である。西の毛利元就に対抗し得る人物で、恐らく天下取りの素質があつた一人だと思ふ。 それに、祖父早雲ほどの悪辣さがなく、戦場の勇将である点なども、好感が得てる。頼山陽は、戦国時代の三大戦として厳島の役、桶狭間の役と川越の夜軍とを挙げてゐる。川越は、東京近くであるに拘はらず、「川越の夜軍」など知つてゐる人は、ごく少い。これは、北条氏が滅んでしまつたためでもあるが、現在の皇軍は、陸海軍とも夜襲戦が得意である点を考へても、典型的夜襲戦である「川越の夜軍」は、もう少し世へに知られてもいゝのではないかと思ふ。 桶狭間の戦が大胆不的な奇襲戦であり、厳島の戦が、二三年もかゝつた謀略戦であるに比し、「川越の夜軍」は、戦場に於ける智謀戦であり、氏康がいかに頭がよかつたかゞ分るのである。猛将の上杉謙信に対する態度なども、氏康らしく老巧無類である。しかし、かうした籠城に依つて、敵の英気を挫折すると云ふ頭のいゝやり方を、暗愚の氏政が、秀吉に応用し損じて、北条家が亡んだのである。それは謙信と秀吉とを同じやうに考へた愚かさからも来たのである。
書き下し
○氏康は、北條氏綱の子で、早雲の孫である。戰國時代屈指の名將である。西の毛利元就に對抗し得る人物で、恐らく天下取りの素質があつた一人だと思ふ。 それに、祖父早雲ほどの惡辣さがなく、戰場の勇將である點なども、好感が得てる。頼山陽は、戰國時代の三大戰として嚴島の役、桶狹間の役と川越の夜軍とを擧げてゐる。川越は、東京近くであるに拘はらず、「川越の夜軍」など知つてゐる人は、ごく少い。これは、北條氏が滅んでしまつたためでもあるが、現在の皇軍は、陸海軍とも夜襲戰が得意である點を考へても、典型的夜襲戰である「川越の夜軍」は、もう少し世へに知られてもいゝのではないかと思ふ。 桶狹間の戰が大膽不的な奇襲戰であり、嚴島の戰が、二三年もかゝつた謀略戰であるに比し、「川越の夜軍」は、戰場に於ける智謀戰であり、氏康がいかに頭がよかつたかゞ分るのである。猛將の上杉謙信に對する態度なども、氏康らしく老巧無類である。しかし、かうした籠城に依つて、敵の英氣を挫折すると云ふ頭のいゝやり方を、暗愚の氏政が、秀吉に應用し損じて、北條家が亡んだのである。それは謙信と秀吉とを同じやうに考へた愚かさからも來たのである。
現代語訳
氏康は、北條氏綱の子で、早雲の孫である。戦国時代屈指の名将である。西の毛利元就に対抗し得る人物で、おそらく天下取りの素質があった一人だと思う。 それに、祖父早雲ほどの悪辣さがなく、戦場の勇将である点なども、好感が持てる。頼山陽は、戦国時代の三大戦として厳島の役、桶狭間の役と川越の夜軍とを挙げている。川越は、東京近くであるにもかかわらず、「川越の夜軍」など知っている人は、ごく少ない。これは、北條氏が滅んでしまったためでもあるが、現在の皇軍は、陸海軍とも夜襲戦が得意である点を考えても、典型的夜襲戦である「川越の夜軍」は、もう少し世に知られてもいいのではないかと思う。 桶狭間の戦が大胆不敵な奇襲戦であり、厳島の戦が、二、三年もかかった謀略戦であるのに比べ、「川越の夜軍」は、戦場における智謀戦であり、氏康がいかに頭がよかったかが分かるのである。猛将の上杉謙信に対する態度なども、氏康らしく老巧無類である。しかし、こうした籠城によって、敵の英気を挫くという頭のいいやり方を、暗愚の氏政が、秀吉に応用し損じて、北條家が亡んだのである。それは謙信と秀吉とを同じように考えた愚かさからも来たのである。
解説

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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 評・綱成と文武の将この時、謙信が來たと云ふ蓮沼は、現在の小原城跡の池などではなく、ずつと市外の酒匂川に近いあたりである。昔の小田原城は西は早川を境とし、南は海にまで延びて居り、東方は現在の小田原市外の一里位の所まで、城廓があつたらしいのである。小田原の町や東海道は、城壁内にあつたのである。 川越城の守將であつた北條左衞門太夫綱成と云ふのは、氏綱、氏康、氏政三代に仕へた猛將で、黄色の地に八幡と大書した旗差物を、かゝけて戰場を馳驅し、戰ふ毎に(勝つた!勝つた!)と絶叫しながら、敵を切り伏せたと云はれる。北條の黄八幡と呼ばれ、その武名がかくれなかつた猛將である。 氏康の如く主將で、七ケ所の刀創があるなど云ふ大將は、戰國時代にも稀ではなかつたかと思はれる。歌をよくし、讀書を好んだところなどを考へても、文武兼備の名將であることが分る。
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名将言行録・『名将言行録』毛利元就 評・戦国第一の人物戰國時代の英雄を擧げると、その功業から云つて、秀吉、家康、信長、元就、と云ふ順序だが、しかしこの本などで、元就の言行を見ると、人物としては、前三者以上ではないかと思ふ。 手堅さは家康に似てゐるが、智惠の銳いことに於ては、家康以上である。嚴島の合戰と桶狹間の合戰とを比べると、智謀戰と云ふ點では比較にならないのである。仁慈にも富んでゐるが、辛辣なところがあり、(其人を侮る者、その土に君たらず)などと云ふ言葉を愛してゐるところを見ると、大政治家である。 又(知萬人に勝れ、天下の治亂盛衰に心を用ふる者は、世に眞の友はあるべからず)など云ふ一項などを讀むと、かうした思索をする武將など、戰國時代に他に一人もゐないだらう。秀吉などは、天成の大器であるが、元就などは相當鍛練した大器である。その頭のよい反間苦肉の策にかゝつては、陶晴賢など、ウマ〱と罠の中へ引き入れられたのも當然である。
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『甲陽軍鑑』品第六かやうに辱を知り給ふたけき大将にてましませばこそ、其後氏康公二十四歳の時河越の夜軍、敵は両管領人数八万計り、氏康人数八千にて氏康討ち勝ち給ふ、是に付て種々の謀あり、此合戦と信長義元の合戦と近代まれ成る戦ひ也一武田信玄晴信公十三歳の御時駿州義元の御前は信玄の姉子にておはします、
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