名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 制札の数で国を見る
○天正の頃、諸國遍參の僧あり、小田原の城下に來て其所に建たる制札を熟と覩て大に歎息して、偖も〳〵是非に及ばぬ事哉、北條家も大に衰へたり、是にては遠からずして亡びやすべきと獨語しけるを役人聞付け、大に叱り憎き僧の申條とて、嚴敷捕て其故を問ひければ、僧答て曰く、去ればとよ、外に仔細あるにも候はず、拙僧先年此領内を通りしこと候ひしが、其時には制札の表僅に一二ケ條なりし故、國主氏康公の寛仁大度ありて、世に勝れ給ひ、北條家の行末盛なることを感心仕りて、更に忘れ候はず、然るに今日計らずして、又此城下を過て覩るに、其時より覩れば既に制札の掟の箇條十倍して、十二三箇條あり。是そも御領内に惡事を爲す惡る者出來たればなるべし、其惡事を爲す者の出來る本は、誰なるぞ、國主の不仁にして驕り矜ること前代に越ゆる故、民苦み國弊ると見えたり、人苦み財乏きが故に、惡事を爲す者出來る、惡事を爲す者出來る故に、其惡事を禁じて制する爲めに、斯の如く掟の箇條は增たるなるべし、天下の事は事少き程目出度ことはなし、然るに制札の面さへ既に斯の如くなれば、先代よりは衰へたること、是を以て知り候ひぬと申ければ、彼役人大に感じて、赦しけり。果して此僧の言ひし如く、幾程もなく亡びたり。
新字:○天正の頃、諸国遍参の僧あり、小田原の城下に来て其所に建たる制札を熟と睹て大に嘆息して、偖も〳〵是非に及ばぬ事哉、北条家も大に衰へたり、是にては遠からずして亡びやすべきと独語しけるを役人聞付け、大に叱り憎き僧の申条とて、厳敷捕て其故を問ひければ、僧答て曰く、去ればとよ、外に仔細あるにも候はず、拙僧先年此領内を通りしこと候ひしが、其時には制札の表僅に一二ケ条なりし故、国主氏康公の寛仁大度ありて、世に勝れ給ひ、北条家の行末盛なることを感心仕りて、更に忘れ候はず、然るに今日計らずして、又此城下を過て睹るに、其時より睹れば既に制札の掟の箇条十倍して、十二三箇条あり。是そも御領内に悪事を為す悪る者出来たればなるべし、其悪事を為す者の出来る本は、誰なるぞ、国主の不仁にして驕り矜ること前代に越ゆる故、民苦み国弊ると見えたり、人苦み財乏きが故に、悪事を為す者出来る、悪事を為す者出来る故に、其悪事を禁じて制する為めに、斯の如く掟の箇条は增たるなるべし、天下の事は事少き程目出度ことはなし、然るに制札の面さへ既に斯の如くなれば、先代よりは衰へたること、是を以て知り候ひぬと申ければ、彼役人大に感じて、赦しけり。果して此僧の言ひし如く、幾程もなく亡びたり。
書き下し
○天正の頃、諸國遍參の僧あり、小田原の城下に來て其所に建たる制札を熟と覩て大に歎息して、偖も〳〵是非に及ばぬ事哉、北條家も大に衰へたり、是にては遠からずして亡びやすべきと獨語しけるを役人聞付け、大に叱り憎き僧の申條とて、嚴敷捕て其故を問ひければ、僧答て曰く、去ればとよ、外に仔細あるにも候はず、拙僧先年此領内を通りしこと候ひしが、其時には制札の表僅に一二ケ條なりし故、國主氏康公の寛仁大度ありて、世に勝れ給ひ、北條家の行末盛なることを感心仕りて、更に忘れ候はず、然るに今日計らずして、又此城下を過て覩るに、其時より覩れば既に制札の掟の箇條十倍して、十二三箇條あり。是そも御領内に惡事を爲す惡る者出來たればなるべし、其惡事を爲す者の出來る本は、誰なるぞ、國主の不仁にして驕り矜ること前代に越ゆる故、民苦み國弊ると見えたり、人苦み財乏きが故に、惡事を爲す者出來る、惡事を爲す者出來る故に、其惡事を禁じて制する爲めに、斯の如く掟の箇條は增たるなるべし、天下の事は事少き程目出度ことはなし、然るに制札の面さへ既に斯の如くなれば、先代よりは衰へたること、是を以て知り候ひぬと申ければ、彼役人大に感じて、赦しけり。果して此僧の言ひし如く、幾程もなく亡びたり。
現代語訳
天正のころ、諸国をめぐり歩く僧がありました。小田原の城下に来て、そこに立てられた制札をじっと見て大いに嘆息し、「さてもさても、仕方のないことだ。北條家はたいそう衰えた。これでは遠からず滅びるだろう」とひとりごとを言いました。役人がこれを聞きつけ、大いに叱って、憎い僧の言いぐさだと厳しく捕らえ、その理由を問いただしました。僧は答えて言いました。「ほかに仔細があるわけではございません。拙僧は先年この領内を通ったことがあり、そのとき制札の表にはわずか一、二か条しかありませんでした。それで国主の氏康公の寛仁大度が世に優れておられ、北條家の行く末の盛んなことに感心して、少しも忘れずにおりました。ところが今日、思いがけずまたこの城下を通って見ると、そのときに比べて制札の掟の箇条は十倍になり、十二、三か条あります。これは御領内に悪事をなす悪い者が出てきたからでしょう。その悪事をなす者が出てくる本は誰でしょうか。国主が不仁で、おごりほこることが前代を超えるため、民が苦しみ国が疲れているのだと見えます。人が苦しみ財が乏しいので悪事をなす者が出る。悪事をなす者が出るので、その悪事を禁じて抑えるために、このように掟の箇条が増えたのでしょう。天下のことは、事が少ないほどめでたいことはありません。それなのに制札の面さえすでにこうであるなら、先代よりも衰えたことは、これでわかります」と申しました。役人は大いに感心して、許しました。はたして、この僧の言ったとおり、いくらも経たないうちに滅びました。
解説

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