名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 評・綱成と文武の将
この時、謙信が來たと云ふ蓮沼は、現在の小原城跡の池などではなく、ずつと市外の酒匂川に近いあたりである。昔の小田原城は西は早川を境とし、南は海にまで延びて居り、東方は現在の小田原市外の一里位の所まで、城廓があつたらしいのである。小田原の町や東海道は、城壁内にあつたのである。 川越城の守將であつた北條左衞門太夫綱成と云ふのは、氏綱、氏康、氏政三代に仕へた猛將で、黄色の地に八幡と大書した旗差物を、かゝけて戰場を馳驅し、戰ふ毎に(勝つた!勝つた!)と絶叫しながら、敵を切り伏せたと云はれる。北條の黄八幡と呼ばれ、その武名がかくれなかつた猛將である。 氏康の如く主將で、七ケ所の刀創があるなど云ふ大將は、戰國時代にも稀ではなかつたかと思はれる。歌をよくし、讀書を好んだところなどを考へても、文武兼備の名將であることが分る。
新字:この時、謙信が来たと云ふ蓮沼は、現在の小原城跡の池などではなく、ずつと市外の酒匂川に近いあたりである。昔の小田原城は西は早川を境とし、南は海にまで延びて居り、東方は現在の小田原市外の一里位の所まで、城廓があつたらしいのである。小田原の町や東海道は、城壁内にあつたのである。 川越城の守将であつた北条左衛門太夫綱成と云ふのは、氏綱、氏康、氏政三代に仕へた猛将で、黄色の地に八幡と大書した旗差物を、かゝけて戦場を馳駆し、戦ふ毎に(勝つた!勝つた!)と絶叫しながら、敵を切り伏せたと云はれる。北条の黄八幡と呼ばれ、その武名がかくれなかつた猛将である。 氏康の如く主将で、七ケ所の刀創があるなど云ふ大将は、戦国時代にも稀ではなかつたかと思はれる。歌をよくし、読書を好んだところなどを考へても、文武兼備の名将であることが分る。
書き下し
この時、謙信が來たと云ふ蓮沼は、現在の小原城跡の池などではなく、ずつと市外の酒匂川に近いあたりである。昔の小田原城は西は早川を境とし、南は海にまで延びて居り、東方は現在の小田原市外の一里位の所まで、城廓があつたらしいのである。小田原の町や東海道は、城壁内にあつたのである。 川越城の守將であつた北條左衞門太夫綱成と云ふのは、氏綱、氏康、氏政三代に仕へた猛將で、黄色の地に八幡と大書した旗差物を、かゝけて戰場を馳驅し、戰ふ毎に(勝つた!勝つた!)と絶叫しながら、敵を切り伏せたと云はれる。北條の黄八幡と呼ばれ、その武名がかくれなかつた猛將である。 氏康の如く主將で、七ケ所の刀創があるなど云ふ大將は、戰國時代にも稀ではなかつたかと思はれる。歌をよくし、讀書を好んだところなどを考へても、文武兼備の名將であることが分る。
現代語訳
この時、謙信が来たという蓮沼は、現在の小原城跡の池などではなく、ずっと市外の酒匂川に近いあたりである。昔の小田原城は西は早川を境とし、南は海にまで延びており、東方は現在の小田原市外の一里ぐらいの所まで、城郭があったらしいのである。小田原の町や東海道は、城壁内にあったのである。 川越城の守将であった北條左衛門太夫綱成というのは、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将で、黄色の地に八幡と大書した旗差物を掲げて戦場を駆け回り、戦うたびに(勝った!勝った!)と絶叫しながら、敵を切り伏せたと言われる。北條の黄八幡と呼ばれ、その武名がかくれなかった猛将である。 氏康のように主将で、七か所の刀傷があるなどという大将は、戦国時代にも稀ではなかったかと思われる。歌をよくし、読書を好んだところなどを考えても、文武兼備の名将であることが分かる。
解説

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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 評・川越の夜軍○氏康は、北條氏綱の子で、早雲の孫である。戰國時代屈指の名將である。西の毛利元就に對抗し得る人物で、恐らく天下取りの素質があつた一人だと思ふ。 それに、祖父早雲ほどの惡辣さがなく、戰場の勇將である點なども、好感が得てる。頼山陽は、戰國時代の三大戰として嚴島の役、桶狹間の役と川越の夜軍とを擧げてゐる。川越は、東京近くであるに拘はらず、「川越の夜軍」など知つてゐる人は、ごく少い。これは、北條氏が滅んでしまつたためでもあるが、現在の皇軍は、陸海軍とも夜襲戰が得意である點を考へても、典型的夜襲戰である「川越の夜軍」は、もう少し世へに知られてもいゝのではないかと思ふ。 桶狹間の戰が大膽不的な奇襲戰であり、嚴島の戰が、二三年もかゝつた謀略戰であるに比し、「川越の夜軍」は、戰場に於ける智謀戰であり、氏康がいかに頭がよかつたかゞ分るのである。猛將の上杉謙信に對する態度なども、氏康らしく老巧無類である。しかし、かうした籠城に依つて、敵の英氣を挫折すると云ふ頭のいゝやり方を、暗愚の氏政が、秀吉に應用し損じて、北條家が亡んだのである。それは謙信と秀吉とを同じやうに考へた愚かさからも來たのである。
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名将言行録・『名将言行録』太田資正 評・文武兼備の孤忠太田三樂と云つても、誰も知る人もないだらうが、この言行錄でも分る通り、關東に於ける文武兼備の名將である。太田道灌の曾孫であるが、道灌が定正に暗殺されて、以來、太田一族は山内上杉に仕へてゐたのである。 上杉憲政が、北條のために、壓迫され、上杉の舊臣が悉く北條に降參した間に立つて、太田三樂と簔輪城の長野業正の二人だけが、頑張つてゐたのである。だから、上杉謙信が、憲政から管領職を譲られて關東に出陣するや、三樂が、その肝煎役として、小田原征伐の總參謀を務めたわけである。後年秀吉が、小田原征伐の案内役を勤めたわけである。 三樂の知を以て、一國を持つてゐないのは一つの不思議だと秀吉に、からかはれてゐるが、上杉家に孤忠を守つて、北條氏との抗爭に、半生を送つたわけだから、一國を持つてゐなくつても、三樂の恥でない。 これで見ても、秀吉は三樂を大に認めたわけだが、しかし小田原落城に依つて、天下は定まつたわけだから、今更三樂を起用する必要もなかつたわけである。三樂が、年若くして信長なり秀吉の知遇を得たならば、大に活躍してゐたらうし、その境遇がもつと惠まれてゐたならば、武田信玄上杉謙信などと、對抗出來る大將になつてゐたかも知れない。 何分沒落過程に在つた上杉管領家の被官であり、節義を解した武士としては、あゝした運命を辿る外はなかつたのである。
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