名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 家康が見た北條家の忠義
○德川家康、北條氏亡びて後、人々に申されしは、武田信玄は近代の良將なりしが、己が父の信虎を追出せし餘殃、子に轉いて勝頼さしもの猛將たりしが、運傾くに至り、譜第恩顧の者まで離叛して、はなかく亡びしは、天道其親愛の恩義なきを憎み給ふ故と知らる。小田原は百日計の圍城に、松田尾張が外は、反逆の者一人もなし。氏直が高野に赴きし時も、命を捨てゝも從はんと願ふ者多かりき。是れ早雲已來貽謀の正しくして、諸士皆節義を守りしが故なりと言はれしとぞ。
新字:○徳川家康、北条氏亡びて後、人々に申されしは、武田信玄は近代の良将なりしが、己が父の信虎を追出せし余殃、子に転いて勝頼さしもの猛将たりしが、運傾くに至り、譜第恩顧の者まで離叛して、はなかく亡びしは、天道其親愛の恩義なきを憎み給ふ故と知らる。小田原は百日計の囲城に、松田尾張が外は、反逆の者一人もなし。氏直が高野に赴きし時も、命を捨てゝも従はんと願ふ者多かりき。是れ早雲已来貽謀の正しくして、諸士皆節義を守りしが故なりと言はれしとぞ。
書き下し
○德川家康、北條氏亡びて後、人々に申されしは、武田信玄は近代の良將なりしが、己が父の信虎を追出せし餘殃、子に轉いて勝頼さしもの猛將たりしが、運傾くに至り、譜第恩顧の者まで離叛して、はなかく亡びしは、天道其親愛の恩義なきを憎み給ふ故と知らる。小田原は百日計の圍城に、松田尾張が外は、反逆の者一人もなし。氏直が高野に赴きし時も、命を捨てゝも從はんと願ふ者多かりき。是れ早雲已來貽謀の正しくして、諸士皆節義を守りしが故なりと言はれしとぞ。
現代語訳
徳川家康は、北條氏が滅んだ後、人々に申されました。「武田信玄は近代の良将であったが、己の父の信虎を追い出した報いが、子に及んだ。勝頼はあれほどの猛将であったが、運が傾くにいたり、代々恩顧の者までが離反して、あっけなく滅んだのは、天道が親愛の恩義のないことを憎まれたゆえと知られる。小田原は百日ばかり囲まれたが、松田尾張のほかは、反逆の者が一人もなかった。氏直が高野山に赴いたときも、命を捨ててもついて行こうと願う者が多かった。これは早雲以来、残した謀りごとが正しく、諸士がみな節義を守ったからである」と言われたということです。
解説

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