名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 評・足軽から出世した男
北條長氏は、後に氏茂と呼び入道して北條早雲と云つた。後北條の始祖である。 戰國時代の武將の中での出世頭は、豐臣秀吉である。足輕から天下を取つたのである。(足輕と云ふのは、歩兵である。源平時代の戰爭は騎兵が主であつた。相當名ある武士共で、戰爭が騎射戰であつたから、大抵馬に乘つてゐる。郎黨などは、戰場では主人の介添役に過ぎなかつた。ところが、吉野時代から室町時代の末期にかけて、足輕と云ふものが發達して、槍や鐵砲を以つて、馳驅するやうになつた。騎兵の外に、歩兵が出來たのである。これは、農民出身が多く、統制や規律もないために、應仁の時などその連中が京都の町を盛んに荒したのである。)秀吉に次ぐ出世男は、恐らく北條長氏であらう。彼はわづか三百貫の知行から關東二百五十萬石の大名になる基礎を築いたのである。(三百貫と云ふのは三百石と云ふのと略同じである。昔は、米一石が錢一貫文であつた。だから、土地の表價をその産出する米の石數に依れば、三百石であり、その米の價値に依れば三百貫であつたのである。子供の戲言にお首十貫やる、と誓言するのは、戰國時代に首一級について十貫の知行をやると云ふのが轉化したのであらう。)その出身素性に就いては、異説があり、此の本の原註には、備中國の生れだと書いてあるが、小田原北條の遺臣である三浦淨心の書いた北條五代記に依ると、長氏は元、山城の宇治に住み、伊勢平氏の出だとある。
新字:北条長氏は、後に氏茂と呼び入道して北条早雲と云つた。後北条の始祖である。 戦国時代の武将の中での出世頭は、豊臣秀吉である。足軽から天下を取つたのである。(足軽と云ふのは、歩兵である。源平時代の戦争は騎兵が主であつた。相当名ある武士共で、戦争が騎射戦であつたから、大抵馬に乗つてゐる。郎党などは、戦場では主人の介添役に過ぎなかつた。ところが、吉野時代から室町時代の末期にかけて、足軽と云ふものが発達して、槍や鉄砲を以つて、馳駆するやうになつた。騎兵の外に、歩兵が出来たのである。これは、農民出身が多く、統制や規律もないために、応仁の時などその連中が京都の町を盛んに荒したのである。)秀吉に次ぐ出世男は、恐らく北条長氏であらう。彼はわづか三百貫の知行から関東二百五十万石の大名になる基礎を築いたのである。(三百貫と云ふのは三百石と云ふのと略同じである。昔は、米一石が銭一貫文であつた。だから、土地の表価をその産出する米の石数に依れば、三百石であり、その米の価値に依れば三百貫であつたのである。子供の戯言にお首十貫やる、と誓言するのは、戦国時代に首一級について十貫の知行をやると云ふのが転化したのであらう。)その出身素性に就いては、異説があり、此の本の原註には、備中国の生れだと書いてあるが、小田原北条の遺臣である三浦浄心の書いた北条五代記に依ると、長氏は元、山城の宇治に住み、伊勢平氏の出だとある。
書き下し
北條長氏は、後に氏茂と呼び入道して北條早雲と云つた。後北條の始祖である。 戰國時代の武將の中での出世頭は、豐臣秀吉である。足輕から天下を取つたのである。(足輕と云ふのは、歩兵である。源平時代の戰爭は騎兵が主であつた。相當名ある武士共で、戰爭が騎射戰であつたから、大抵馬に乘つてゐる。郎黨などは、戰場では主人の介添役に過ぎなかつた。ところが、吉野時代から室町時代の末期にかけて、足輕と云ふものが發達して、槍や鐵砲を以つて、馳驅するやうになつた。騎兵の外に、歩兵が出來たのである。これは、農民出身が多く、統制や規律もないために、應仁の時などその連中が京都の町を盛んに荒したのである。)秀吉に次ぐ出世男は、恐らく北條長氏であらう。彼はわづか三百貫の知行から關東二百五十萬石の大名になる基礎を築いたのである。(三百貫と云ふのは三百石と云ふのと略同じである。昔は、米一石が錢一貫文であつた。だから、土地の表價をその産出する米の石數に依れば、三百石であり、その米の價値に依れば三百貫であつたのである。子供の戲言にお首十貫やる、と誓言するのは、戰國時代に首一級について十貫の知行をやると云ふのが轉化したのであらう。)その出身素性に就いては、異説があり、此の本の原註には、備中國の生れだと書いてあるが、小田原北條の遺臣である三浦淨心の書いた北條五代記に依ると、長氏は元、山城の宇治に住み、伊勢平氏の出だとある。
現代語訳
北條長氏は、後に氏茂と呼び、入道して北條早雲と言った。後北條の始祖である。 戦国時代の武将の中での出世頭は、豊臣秀吉である。足軽から天下を取ったのである。(足軽と言うのは、歩兵である。源平時代の戦争は騎兵が主であった。相当名のある武士どもで、戦争が騎射戦であったから、大抵馬に乗っている。郎党などは、戦場では主人の介添え役に過ぎなかった。ところが、吉野時代から室町時代の末期にかけて、足軽というものが発達して、槍や鉄砲を用いて、馳駆するようになった。騎兵のほかに、歩兵ができたのである。これは、農民出身が多く、統制や規律もないために、応仁の時などその連中が京都の町を盛んに荒らしたのである。)秀吉に次ぐ出世男は、恐らく北條長氏であろう。彼はわずか三百貫の知行から関東二百五十万石の大名になる基礎を築いたのである。(三百貫と言うのは三百石と言うのと略同じである。昔は、米一石が銭一貫文であった。だから、土地の表価をその産出する米の石数によれば、三百石であり、その米の価値によれば三百貫であったのである。子供の戯言にお首十貫やる、と誓言するのは、戦国時代に首一級について十貫の知行をやると言うのが転化したのであろう。)その出身素性については、異説があり、この本の原註には、備中国の生れだと書いてあるが、小田原北條の遺臣である三浦浄心の書いた北條五代記によると、長氏は元、山城の宇治に住み、伊勢平氏の出だとある。
解説

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名将言行録・『名将言行録』北條長氏 評・出自をめぐる考証なるほど、室町幕府には、伊勢氏と云ふのがあるが、これは政所(足利幕府では財政を司つてゐた)の長官を世襲してゐた非常な勢力家である。長氏が、この一族の出身なら、當時の文獻に、その事實がハツキリ書かれてゐないわけはないのである。それに長氏の姉が今川義忠の妾(文中には妻とあるが)となつてゐるが、恐らく今川義忠が妾を迎へるとき、何故かの緣故で、伊勢氏の一族の娘分としたのではないか。それで、長氏までが、伊勢氏を名乘つたのではあるまいか。早雲の自筆の書狀が殘つてゐるが、それに依ると、自分は伊勢の關の一族だと云つてゐる。とにかく、伊勢平氏の子孫であることは確かであらう。しかし、たいした身分のものでないことは確である。後に、北條氏を冒したのは、人心收攬策ではあるが、同じ平家の血統なので、いくらか、こぢつけが利いたのではあるまいかと思はれる。
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名将言行録・『名将言行録』北條長氏 評・政治家としての素質伊豆を奪取した後の宣撫工作などを見ても、長氏がいかに政治家の素質に富んでゐたかゞ分る。田租も、四公六民として、人民を愛撫したのである。田畑の收入の六割を百姓にやるのである。當時は、六公四民、中に七公三民さへあつた。恐らく戰國時代を通じて、家康、元就、長氏の三人は、酸も甘いも噛みわけた、それでゐて煮ても燒いても喰へない軍人政治家であつたのであらう。伊豆の取り方も、小田原の奪ひ方でも、老猾至極であるが、それでゐて、馬盜坊に(あの國を盜んだ人は如何)と云はれると、苦笑しながら(器量のある奴だ!)と、許してやるところは、甚だ氣持がよい。 時代が遲れて生れたならば、天下取りの候補者にもなれる人だが、伊豆を取つたときが、既に六十一歳である。永正十六年に八十八で死んだのだから、生れ方が少し早すぎたのである。それに、六十一歳でやつと、一國を取つたのでは、日暮れて道遠しであつたのである。
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名将言行録・『名将言行録』北條長氏 七人の誓いと東下伊勢新三郎行長の子、新九郎と稱す、備中の人なり。北條氏を冒し、後髪を剃り、早雲庵宗瑞と號す。流離瑣尾の身より起り、竟に伊豆、相模を平げ、韮山城に住す。初め氏茂、後、今の名に改む。永正十七年八月十六日卒、年八十八。 ○應仁中、山名、細川各私黨を樹て京師に鬪ふ。將軍義政制すること能はず。長氏聰明にして大志あり、騎射を善くし、鈴韜に通じ、陰に財を散じ豪傑に結ぶ。一日衆を集めて曰く、熟と天下の事を考ふるに、功名を成し、富貴を取るは今に在り、意ふに關東八州、地勢高爽にして、士馬精強なり、古より武を用ふるの地と稱せり。且つ永享以來定主なし、苟も此に割據することを得ば天下は圖るべきなり、吾諸君と共に東下し、機に因り變を制し、功名を立んと欲す、諸君豈意なきやと、衆奮て之に從ふ。長氏、家世ゝ三百貫の地を領す、爰に於て沽却し、以て路費と爲し、荒木兵庫頭、山中才四郎、多目權兵衞、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衞尉と共に東行し、伊勢に至り太神宮の神前に詣でゝ、各神水を飲み、誓て曰く、假令如何なる事ありとも、此七人不和を生ずべからず、互に援助を爲し、功名を立つべし、士の習ひなれば、七人の中、一人身を立て國を知らんには、殘る六人、何れも家人となり力を盡すべし。又君となる者は、殘る六人を取立つべしと契約す。文明元年二月、駿河に至る。駿河の守護今川治部大輔義忠の妻、北川は、長氏の姉にて、此腹の子龍王丸は甥なれば、之に便りて居れり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 評・川越の夜軍○氏康は、北條氏綱の子で、早雲の孫である。戰國時代屈指の名將である。西の毛利元就に對抗し得る人物で、恐らく天下取りの素質があつた一人だと思ふ。 それに、祖父早雲ほどの惡辣さがなく、戰場の勇將である點なども、好感が得てる。頼山陽は、戰國時代の三大戰として嚴島の役、桶狹間の役と川越の夜軍とを擧げてゐる。川越は、東京近くであるに拘はらず、「川越の夜軍」など知つてゐる人は、ごく少い。これは、北條氏が滅んでしまつたためでもあるが、現在の皇軍は、陸海軍とも夜襲戰が得意である點を考へても、典型的夜襲戰である「川越の夜軍」は、もう少し世へに知られてもいゝのではないかと思ふ。 桶狹間の戰が大膽不的な奇襲戰であり、嚴島の戰が、二三年もかゝつた謀略戰であるに比し、「川越の夜軍」は、戰場に於ける智謀戰であり、氏康がいかに頭がよかつたかゞ分るのである。猛將の上杉謙信に對する態度なども、氏康らしく老巧無類である。しかし、かうした籠城に依つて、敵の英氣を挫折すると云ふ頭のいゝやり方を、暗愚の氏政が、秀吉に應用し損じて、北條家が亡んだのである。それは謙信と秀吉とを同じやうに考へた愚かさからも來たのである。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏規 評・小田原落城のあっけなさ○北條家の末路と云ふものは、何と云つてもアツ氣ない。天下の兵を迎へて、百日餘支へたとは云へ、氏政と弟の氏照が自殺し、當主の氏直だけが助命され、高野山に放れたと云ふのでは少し寂びし過ぎる。 開城するにしても、もう少しいゝ條件があつたのではないかと思はれる。こんな開城の仕方をする位なら、最初から妥協すれば、立派に北條家の社稷を殘すことが出來たのである。 この北條家にとつては不名譽な小田原落城史に、北條家のために、萬丈とは云へなくつても、相當の氣焰を揚げたものは、北條氏規だけである。小田原の支城が、悉く攻め落さるゝ間に在て、韮山城だけは、頑張り通したのである。もし、氏規が當主であつたならば、北條家は百萬石の諸侯として、江戸時代まで殘つたのではないかと思ふ。 秀吉は、氏直に伯耆で十八萬石與へるつもりであつたと云ふが、その中に氏直が死んでしまつたので、氏規が北條家を代表して、河内狹山で一萬石に封ぜられた。二百五十萬石から、一萬石では、あまりに轉落がひどすぎる。 維新の際、天誅組が最初に武器貸與の交渉したのが、この狹山の北條家である。北條家が、秀吉と妥協し、その二百五十萬石の威力をつゞけてゐたとしたら、家康はあんなに發展することも出來ず、天下の形勢は何う動いたか。尤も、氏政氏直程度の人物では、結局同じ事であつたかも分らないが・・・・・・・・・・・。
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名将言行録・『名将言行録』北條長氏 評・武士訓と四代目の凋落二十一ケ條の武士訓は、有名だが(歌道なき人は、無手に賤し、學ぶべし)と云つてゐるなど、流石に京都にゐた丈あり、戰國時代の諸將に比べて、文化的にも一日の長があると云つてよい。(無手に)と云ふのは、無下にの誤植でなく、(空手に)の意味で(風情なく、取柄なく)と云ふ意味である。子の氏綱、孫の氏康が父祖を恥しめない位偉かつた。家康に對する秀忠、家光などよりも、ずつと偉いのである。それで、關東八州を切り取つたわけだが、四代目の氏政が、ガタ落をしたので、四代目になつて、うり家と唐樣に書いてしまつたのである。