説苑 / 君道
周公踐天子之位布德施惠,遠而逾明,十二牧,方三人,出舉遠方之民,有饑寒而不得衣食者,有獄訟而失職者,有賢才而不舉者,以入告乎天子,天子於其君之朝也,攝而進之曰:「意朕之政教有不得者與!何其所臨之民有饑寒不得衣食者,有獄訟而失職者,有賢才而不舉者?」其君歸也,乃召其國大夫,告用天子之言,百姓聞之皆喜曰:「此誠天子也!何居之深遠而見我之明也,豈可欺哉!」故牧者所以辟四門,明四目,達四聰也,是以近者親之,遠者安之。詩曰:「柔遠能邇,以定我王」,此之謂矣。
新字:周公践天子之位布徳施恵,遠而逾明,十二牧,方三人,出舉遠方之民,有饑寒而不得衣食者,有獄訟而失職者,有賢才而不舉者,以入告乎天子,天子於其君之朝也,摂而進之曰:「意朕之政教有不得者与!何其所臨之民有饑寒不得衣食者,有獄訟而失職者,有賢才而不舉者?」其君帰也,乃召其国大夫,告用天子之言,百姓聞之皆喜曰:「此誠天子也!何居之深遠而見我之明也,豈可欺哉!」故牧者所以辟四門,明四目,達四聰也,是以近者親之,遠者安之。詩曰:「柔遠能邇,以定我王」,此之謂矣。
書き下し
周公、天子の位を践み徳を布き恵みを施す。遠くして逾々明らかに、十二牧、方三人、遠方の民を挙げ出だし、饑寒ありて衣食を得ざる者、獄訟ありて職を失う者、賢才ありて挙げられざる者あれば、以て天子に入りて告ぐ。天子其の君の朝に於いて、攝して之を進めて曰く、「意うに朕の政教に得ざる者有るか。何ぞ其の臨む所の民に饑寒ありて衣食を得ざる者、獄訟ありて職を失う者、賢才ありて挙げられざる者有るや」と。其の君帰るや、乃ち其の国の大夫を召し、天子の言を用って告ぐ。百姓之を聞きて皆喜びて曰く、「此れ誠に天子なり。何ぞ居ること深遠にして我を見ること之明らかなるや、豈に欺くべけんや」と。故に牧なる者は四門を辟き、四目を明らかにし、四聰を達する所以なり。是を以て近き者之に親しみ、遠き者之に安んず。詩に曰く、「遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定む」と、此を之れ謂うなり。
現代語訳
周公は天子の位に就いて徳を広め恵みを施した。それは遠方までますます明らかに及んだ。十二の州には各三人の牧(地方長官)を置き、遠方の民の実情を報告させた。飢えや寒さで衣食を得られない者、訴訟で職を失った者、賢才がありながら登用されない者がいれば、これを天子に報告させた。天子はその国の君主が朝見する際、進み出させて言った。「私の政治や教化に至らぬ点があるのではないか。なぜあなたの治める民に、飢えや寒さで衣食を得られない者、訴訟で職を失った者、賢才がありながら登用されない者がいるのか。」その君主が帰国すると、国の大夫を召し出し、天子の言葉を伝えた。民衆はこれを聞いて皆喜び、「これこそ本当の天子だ。なぜこれほど遠くにいながら、我々のことをこれほど明らかに見通せるのか、決して欺くことなどできない」と言った。だから牧という官は、四方の門を開き、四方を見る目を明らかにし、四方に届く耳を通す役目を果たすのである。これによって近くの者は親しみ、遠くの者も安心する。詩経に「遠方を懐柔し身近な者をよく治めて、我が王の地位を安定させる」とあるのは、このことを言っているのである。
解説

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