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甲陽軍鑑 / 品第十一

扨て其後ち永祿十一年辰の極月に、子細有りて武田信玄公駿河へ出張の時、氏眞公駿府の城をあけ、遠州かけ川の城へつほみ給ふ時、三浦右衞門と申す出頭人かかははづ子右衞門が觀類習子のもの人人付申駿河にも剛の兵多しといへども三浦の右衛門が累年侫人ゆへ、悉く氏眞公をうらみ奉り、供仕る者すくなし、結句氏眞公世が世の時は威勢なき人々に供いたす者あまたあり、一番にいせい者の三浦右衛門はづして、遠州高天神の小笠原を賴みて行に、冥加盡はて三浦右衛門小笠原に誅せらる、氏眞公心は剛にましませど、我まゝにおはします故目利し給ふ、各々皆不賢とははじめよりみへつれども、後に全くしらるゝなり、

新字:扨て其後ち永禄十一年辰の極月に、子細有りて武田信玄公駿河へ出張の時、氏真公駿府の城をあけ、遠州かけ川の城へつほみ給ふ時、三浦右衛門と申す出頭人かかははづ子右衛門が観類習子のもの人人付申駿河にも剛の兵多しといへども三浦の右衛門が累年侫人ゆへ、悉く氏真公をうらみ奉り、供仕る者すくなし、結句氏真公世が世の時は威勢なき人々に供いたす者あまたあり、一番にいせい者の三浦右衛門はづして、遠州高天神の小笠原を頼みて行に、冥加尽はて三浦右衛門小笠原に誅せらる、氏真公心は剛にましませど、我まゝにおはします故目利し給ふ、各々皆不賢とははじめよりみへつれども、後に全くしらるゝなり、

書き下し

扨て其後ち永禄十一年辰の極月に、子細有りて武田信玄公駿河へ出張の時、氏真公駿府の城をあけ、遠州かけ川の城へつほみ給ふ時、三浦右衛門と申す出頭人かかははづ子右衛門が観類習子のもの人人付申駿河にも剛の兵多しといへども三浦の右衛門が累年侫人ゆへ、悉く氏真公をうらみ奉り、供仕る者すくなし、結句氏真公世が世の時は威勢なき人々に供いたす者あまたあり、一番にいせい者の三浦右衛門はづして、遠州高天神の小笠原を頼みて行に、冥加尽はて三浦右衛門小笠原に誅せらる、氏真公心は剛にましませど、我まゝにおはします故目利し給ふ、各々皆不賢とははじめよりみへつれども、後に全くしらるゝなり、

現代語訳

さてその後、永禄十一年戊辰の極月(十二月)に、子細あって武田信玄公が駿河へ出張なさった時、氏真公は駿府の城を明け、遠州掛川の城へ籠られた時、三浦右衛門という出頭人(底本ここ判読しがたい)。駿河にも剛の兵は多かったけれども、三浦右衛門が長年の佞人であったゆえに、悉く氏真公を恨み申して、供をする者は少なかった。かえって氏真公の世が盛んだった時には威勢のなかった人々に、供をする者が大勢あった。一番に、威勢を誇った三浦右衛門が離れて、遠州高天神の小笠原を頼んで行ったが、冥加が尽きて、三浦右衛門は小笠原に誅された。氏真公は心は剛でいらっしゃったけれども、我儘でいらっしゃったゆえに、目利きなさった者は、各々みな不賢であると初めから見えていたが、後に全く知れたのである。

解説

信玄の駿河侵攻で氏真が駿府を捨てた時、長年の佞人三浦右衛門を恨んで、供をする者は少なかった。むしろ盛時に日の当たらなかった人々が供をした。そして威勢を誇った三浦右衛門は真っ先に主を離れ、頼った先で誅された。寵臣は順境の産物であり、逆境では最初にいなくなる。我儘な大将の目利きは、苦境になって初めて誤りが露わになる。平時に冷遇している人の中にこそ、最後まで残る者がいる。

この章句が説くこと

佞人寵臣今川氏真忠節逆境目利き

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