名将言行録 / 『名将言行録』北條長氏 七人の誓いと東下
伊勢新三郎行長の子、新九郎と稱す、備中の人なり。北條氏を冒し、後髪を剃り、早雲庵宗瑞と號す。流離瑣尾の身より起り、竟に伊豆、相模を平げ、韮山城に住す。初め氏茂、後、今の名に改む。永正十七年八月十六日卒、年八十八。 ○應仁中、山名、細川各私黨を樹て京師に鬪ふ。將軍義政制すること能はず。長氏聰明にして大志あり、騎射を善くし、鈴韜に通じ、陰に財を散じ豪傑に結ぶ。一日衆を集めて曰く、熟と天下の事を考ふるに、功名を成し、富貴を取るは今に在り、意ふに關東八州、地勢高爽にして、士馬精強なり、古より武を用ふるの地と稱せり。且つ永享以來定主なし、苟も此に割據することを得ば天下は圖るべきなり、吾諸君と共に東下し、機に因り變を制し、功名を立んと欲す、諸君豈意なきやと、衆奮て之に從ふ。長氏、家世ゝ三百貫の地を領す、爰に於て沽却し、以て路費と爲し、荒木兵庫頭、山中才四郎、多目權兵衞、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衞尉と共に東行し、伊勢に至り太神宮の神前に詣でゝ、各神水を飲み、誓て曰く、假令如何なる事ありとも、此七人不和を生ずべからず、互に援助を爲し、功名を立つべし、士の習ひなれば、七人の中、一人身を立て國を知らんには、殘る六人、何れも家人となり力を盡すべし。又君となる者は、殘る六人を取立つべしと契約す。文明元年二月、駿河に至る。駿河の守護今川治部大輔義忠の妻、北川は、長氏の姉にて、此腹の子龍王丸は甥なれば、之に便りて居れり。
新字:伊勢新三郎行長の子、新九郎と称す、備中の人なり。北条氏を冒し、後髪を剃り、早雲庵宗瑞と号す。流離瑣尾の身より起り、竟に伊豆、相模を平げ、韮山城に住す。初め氏茂、後、今の名に改む。永正十七年八月十六日卒、年八十八。 ○応仁中、山名、細川各私党を樹て京師に闘ふ。将軍義政制すること能はず。長氏聰明にして大志あり、騎射を善くし、鈴韜に通じ、陰に財を散じ豪傑に結ぶ。一日衆を集めて曰く、熟と天下の事を考ふるに、功名を成し、富貴を取るは今に在り、意ふに関東八州、地勢高爽にして、士馬精強なり、古より武を用ふるの地と称せり。且つ永享以来定主なし、苟も此に割拠することを得ば天下は図るべきなり、吾諸君と共に東下し、機に因り変を制し、功名を立んと欲す、諸君豈意なきやと、衆奮て之に従ふ。長氏、家世ゝ三百貫の地を領す、爰に於て沽却し、以て路費と為し、荒木兵庫頭、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉と共に東行し、伊勢に至り太神宮の神前に詣でゝ、各神水を飲み、誓て曰く、仮令如何なる事ありとも、此七人不和を生ずべからず、互に援助を為し、功名を立つべし、士の習ひなれば、七人の中、一人身を立て国を知らんには、残る六人、何れも家人となり力を尽すべし。又君となる者は、残る六人を取立つべしと契約す。文明元年二月、駿河に至る。駿河の守護今川治部大輔義忠の妻、北川は、長氏の姉にて、此腹の子竜王丸は甥なれば、之に便りて居れり。
書き下し
伊勢新三郎行長の子、新九郎と稱す、備中の人なり。北條氏を冒し、後髪を剃り、早雲庵宗瑞と號す。流離瑣尾の身より起り、竟に伊豆、相模を平げ、韮山城に住す。初め氏茂、後、今の名に改む。永正十七年八月十六日卒、年八十八。 ○應仁中、山名、細川各私黨を樹て京師に鬪ふ。將軍義政制すること能はず。長氏聰明にして大志あり、騎射を善くし、鈴韜に通じ、陰に財を散じ豪傑に結ぶ。一日衆を集めて曰く、熟と天下の事を考ふるに、功名を成し、富貴を取るは今に在り、意ふに關東八州、地勢高爽にして、士馬精強なり、古より武を用ふるの地と稱せり。且つ永享以來定主なし、苟も此に割據することを得ば天下は圖るべきなり、吾諸君と共に東下し、機に因り變を制し、功名を立んと欲す、諸君豈意なきやと、衆奮て之に從ふ。長氏、家世ゝ三百貫の地を領す、爰に於て沽却し、以て路費と爲し、荒木兵庫頭、山中才四郎、多目權兵衞、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衞尉と共に東行し、伊勢に至り太神宮の神前に詣でゝ、各神水を飲み、誓て曰く、假令如何なる事ありとも、此七人不和を生ずべからず、互に援助を爲し、功名を立つべし、士の習ひなれば、七人の中、一人身を立て國を知らんには、殘る六人、何れも家人となり力を盡すべし。又君となる者は、殘る六人を取立つべしと契約す。文明元年二月、駿河に至る。駿河の守護今川治部大輔義忠の妻、北川は、長氏の姉にて、此腹の子龍王丸は甥なれば、之に便りて居れり。
現代語訳
伊勢新三郎行長の子で、新九郎と称しました。備中の人です。北條氏を名乗り、のちに髪を剃って、早雲庵宗瑞と号しました。落ちぶれた身から身を起こし、ついに伊豆と相模を平定して、韮山城に住みました。初めは氏茂、のちに今の名に改めています。永正十七年八月十六日に亡くなり、享年八十八です。 応仁の年間、山名と細川がそれぞれ徒党を立てて京都で争いました。将軍義政は抑えることができません。長氏は聡明で大志があり、騎射に優れ、兵法に通じ、ひそかに財を散じて豪傑と結んでいました。ある日、人々を集めて言いました。「つらつら天下の事を考えるに、功名を立て富貴を得るのは今だ。思うに関東八州は地勢が高く開けており、兵馬も精強で、古くから武を用いる地と言われてきた。しかも永享以来、定まった主がいない。もしここに割拠できれば、天下を図ることもできる。私は諸君とともに東へ下り、機に応じて変に対処し、功名を立てたい。諸君に志はないか」。人々は奮い立って従いました。長氏は代々三百貫の地を領していましたが、これを売り払って路銀とし、荒木兵庫頭、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉とともに東へ向かい、伊勢に至って太神宮の神前に詣で、それぞれ神水を飲んで誓いました。「たとえどんなことがあっても、この七人は不和を生じてはならない。互いに助け合って功名を立てよう。武士の習いであるから、七人のうち一人が身を立て国を治めることになれば、残る六人はみな家来となって力を尽くそう。また主君となる者は、残る六人を取り立てよう」と契約しました。文明元年二月、駿河に至りました。駿河の守護、今川治部大輔義忠の妻の北川は長氏の姉で、その子の龍王丸は甥にあたるので、これを頼って暮らしました。
解説

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