甲陽軍鑑 / 品第十二
宗雲公なとは定めて一佛一社の化身にて候へし、子細は伊勢より七人あらき·山中·ため·あら河·ありたけ·大道寺·宗雲·共に七人武者修行と談合あり、駿河の今川義元公祖父子の御代に牢人分にて、今川殿に堪忍有り才覺を以て駿河屋形の緣者に成り給ひ、則ら駿河の內かたのゝと云ふ所に、暫くまし〳〵義元公御親父の代に、今川殿の威勢をかりて、伊豆へ移り、
新字:宗雲公なとは定めて一仏一社の化身にて候へし、子細は伊勢より七人あらき·山中·ため·あら河·ありたけ·大道寺·宗雲·共に七人武者修行と談合あり、駿河の今川義元公祖父子の御代に牢人分にて、今川殿に堪忍有り才覚を以て駿河屋形の縁者に成り給ひ、則ら駿河の内かたのゝと云ふ所に、暫くまし〳〵義元公御親父の代に、今川殿の威勢をかりて、伊豆へ移り、
書き下し
宗雲公なとは定めて一仏一社の化身にて候へし、子細は伊勢より七人あらき·山中·ため·あら河·ありたけ·大道寺·宗雲·共に七人武者修行と談合あり、駿河の今川義元公祖父子の御代に牢人分にて、今川殿に堪忍有り才覚を以て駿河屋形の縁者に成り給ひ、則ら駿河の内かたのゝと云ふ所に、暫くまし〳〵義元公御親父の代に、今川殿の威勢をかりて、伊豆へ移り、
現代語訳
宗雲公などは、定めて一仏一社の化身でおありであろう。子細は、伊勢から七人、あらき・山中・ため・あら河・ありたけ・大道寺・宗雲の都合七人が武者修行をしようと談合した。駿河の今川義元公の祖父の御代に牢人の身分で今川殿のもとに身を寄せ、才覚をもって駿河の屋形の縁者となられ、駿河の内のかたのという所にしばらくおられた。義元公の御親父の代に、今川殿の威勢を借りて伊豆へ移った。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十二大塲北条あたりの百姓どもに物をかし給へば後は伊豆半国の侍百姓共、宗雲公へ出入を仕り、物をかり候故、朔日·十五日の礼に参り、其間にも切々参る者にはかし銭を指置き給ふに付て、我ましに宗雲公の御屋敷のあたりに家を作り、皆被官に成り、右の六人のあらき·山中·ため·あら川·ありたけ·大道寺も宗雲の被官に成、此衆を首として宗雲公共に七手に作り、伊豆一国をおさめ給ひ、たへて久敷き北条をつがんとて、三島の明神へ願を立て給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第十三長坂長閑老·跡部大炊助殿さる程に上杉家にて、長尾いげん入道·長野信濃守其外四五人寄り合ひ談合して、上杉則政公万事能き様に仕置き有る所に、又すがの大膳·上原兵庫以ヲ取成成〓則政公旗本にてはばめく親類·傍輩どもの中に、分別有る者四五十人あつまり談合仕り、此五ヶ条を書き付け両人して則政公へ申上る一北条宗雲は古来伊勢国より乞食をいたし、駿河今川殿被官になり、今川家ノかげをもつて伊豆へうつり、たと今かくのごとくに候へば、元来伊豆のせばき所より出でたる宗雲が子孫少しも深き事なく候、宗雲子北条氏縄は甲州の武田信虎に大きにしまけ申す、是れは駿河あしたか山ノ下·東さほの原にての事、
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『甲陽軍鑑』品第十二此もとをたどすに偏に宗雲公に濫觴す、此宗雲のまねは中々思ひもよるまじ、惣別人間は大小によらずふの能き人のまねはせぬ者也、先仕合悪者の仕形を穿鑿ありそのうへ吉事の人のしわざを分別候て、其間よりいかにもあぶなげもなき働を専らにまもるべし、殊更一代にて仕出たる大身の真似を、二代·三代·五代·十代の大将衆十が九ツまねべからず、子細は我一代に仕出る大名は、天道の恵み深かるべし、其大将にはあやうき働き有物なれども、是は天道よければ、死するきは迄は大略理運になり、其弁へもなく代々ゆづられきたる大将あぶなき働きし給ひては、必しぞこなふなり、けが有こそ尤なれ、天道も代々恵はなき者にて候、
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『甲陽軍鑑』品第十三又きくことあり北条家三代さき宗雲公兼々いひ置くに、金銀·米銭も我より三代目までのこと、三代目には上杉めつきやくして、必ず予が子孫関東仕置きうたがふべからず、さありて後四代目には国かずの余慶をもつて支配する者なれば、至りて金銀をさのみたくはゆるに及はず、然ば宗雲彼の地小チキ二代の間侍扶助のこと二十以前、七十以後は大小ともに我蓄へ置く金銀·米銭をもつて切符にあつべし、
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『甲陽軍鑑』品第十三されども管領則政公には、両出頭のすがの大膳·上原兵庫是を聞て申しけるは、北条宗雲元来伊豆のいかにもちいさき所より出でたる族の、氏康がなにの深きことあるべき、伊豆·相摸両国持ても北条二人·三人合たる程の大身衆、越後·関東·奥両国へかけては則政公御旗下に五六人も在之、上杉家に伝る衆にも北条程の者は有まじげに、はびこるに付ては則政公旗を出され、たゞ一陣に北条家を誅罰し給はんと、すがの·上原両人の口にて、
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『甲陽軍鑑』品第十三此時節伊豆の宗雲出て小田原をのつ取る事、明応四年乙卯の歳と承り及び候、前代の義なりしかも他国の事人の雑談にて書き記し候へば定めて相違なる事斗り多きは必定なれども、たと此の理究を取りて今勝頼公御代のたくらべになさるべし、長坂長閑老·跡部大炊介殿されば世間に能き大将と名を取給ふ、それ〳〵に生れつきの様子替ること大方四あり、君子は千里同風とて御心中はいづれもひとつ所へまいらせ給ひ候を、縦へば人間の小袖色々を着して各々寄り合ふ時みては面々様々なれども、其寒きを防ぐことは同意なり、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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