明訓一班抄抄録 / 刑は少きに期すべき事・賭博を厳しく取り締まった家康の命令
東照宮濱松駿府に御坐の節も、博奕は諸惡の根元と有し御意にて、御城下之儀は申に不及、四箇國の御領內を御法度に被仰出、關東御入國の砌、御當地の儀は不及申、總て關八州共に北條家柔弱なる仕置故、僧侶男女の差別なく押晴て博奕を打も是ある由御聞に達し、(中略)嚴敷御法度も被仰出、(中略)博奕を仕候者共をば暫くも御ゆるめなく、捕次第片はしより御成敗被仰付候也、其節淺草專一にて博奕仕候者を捕へ、五人共に其處に獄門にかけらるゝを御鷹御成之節是を御覽被遊て、還御以後博奕吟味にかゝり候者共を御城へ召して御直に被仰渡けるは、總て科人を仕置にして其首を獄門に掛さらし置は諸人見こりの爲にてあるなれば、五人一坐の博奕ならば何月何日何方にても人立多き場所へ出しさらし置樣にと仰付らるゝを以、其以後の儀拾人一坐にて捕へ候へば十ヶ所へ遣し御仕置に仰付られ、首を其所に掛置に付、二三ヶ年の間に博奕の沙汰止ける也、云々、
新字:東照宮浜松駿府に御坐の節も、博奕は諸悪の根元と有し御意にて、御城下之儀は申に不及、四箇国の御領内を御法度に被仰出、関東御入国の砌、御当地の儀は不及申、総て関八州共に北条家柔弱なる仕置故、僧侶男女の差別なく押晴て博奕を打も是ある由御聞に達し、(中略)厳敷御法度も被仰出、(中略)博奕を仕候者共をば暫くも御ゆるめなく、捕次第片はしより御成敗被仰付候也、其節浅草専一にて博奕仕候者を捕へ、五人共に其処に獄門にかけらるゝを御鷹御成之節是を御覧被遊て、還御以後博奕吟味にかゝり候者共を御城へ召して御直に被仰渡けるは、総て科人を仕置にして其首を獄門に掛さらし置は諸人見こりの為にてあるなれば、五人一坐の博奕ならば何月何日何方にても人立多き場所へ出しさらし置様にと仰付らるゝを以、其以後の儀拾人一坐にて捕へ候へば十ヶ所へ遣し御仕置に仰付られ、首を其所に掛置に付、二三ヶ年の間に博奕の沙汰止ける也、云々、
書き下し
東照宮濱松駿府に御坐の節も、博奕は諸惡の根元と有し御意にて、御城下之儀は申に不及、四箇國の御領內を御法度に被仰出、關東御入國の砌、御當地の儀は不及申、總て關八州共に北條家柔弱なる仕置故、僧侶男女の差別なく押晴て博奕を打も是ある由御聞に達し、(中略)嚴敷御法度も被仰出、(中略)博奕を仕候者共をば暫くも御ゆるめなく、捕次第片はしより御成敗被仰付候也、其節淺草專一にて博奕仕候者を捕へ、五人共に其處に獄門にかけらるゝを御鷹御成之節是を御覽被遊て、還御以後博奕吟味にかゝり候者共を御城へ召して御直に被仰渡けるは、總て科人を仕置にして其首を獄門に掛さらし置は諸人見こりの爲にてあるなれば、五人一坐の博奕ならば何月何日何方にても人立多き場所へ出しさらし置樣にと仰付らるゝを以、其以後の儀拾人一坐にて捕へ候へば十ヶ所へ遣し御仕置に仰付られ、首を其所に掛置に付、二三ヶ年の間に博奕の沙汰止ける也、云々、
現代語訳
東照宮(徳川家康)が浜松・駿府にいらっしゃった頃も、博奕は諸悪の根元であるとの御意があり、御城下はもちろん、四か国の御領内を御法度と仰せ出されました。関東にご入国の際には、この土地はもちろん、総じて関八州とも、北条家の柔弱な仕置のため、僧侶も男女の差別もなく、おおっぴらに博奕を打つ者もいるとお聞きになり、(中略)厳しい御法度を仰せ出され、(中略)博奕をする者たちは少しもゆるめず、捕らえ次第片端から成敗を命じられました。そのとき浅草が専一で、博奕をした者を捕らえ、五人とも其処に獄門にかけられたのを、鷹狩りの御成りの折にご覧になり、お帰りの後、博奕の吟味にかかった者たちを御城に召して直接仰せ渡されたことには、総じて科人を処罰してその首を獄門に掛けさらしておくのは、人々が懲りるためであるから、五人が一座で博奕をしたならば、何月何日どこででも、人の多く集まる場所へ出してさらしておくようにと命じられました。それにより、その後は十人が一座で捕らえられれば十か所へ送って処罰され、首をその所に掛けておいたので、二、三年の間に博奕の沙汰がやんだということです。云々。
解説
この章句が説くこと
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『明訓一班抄抄録』・刑は少きに期すべき事・賭博の刑は初期に厳しく段階を踏む齊昭謹て案に、事は初發なる所を禁ずる事先務なり、たとへば風は萬病の長と言が如く、少しの風邪に強き藥を用ひ熱氣を取時は、事もなく癒べきを、微邪なりとて其儘差置時は大熱と成のみならず、人にまで押移るもの也、博奕も其長じたる者は勿論、幼年抔にて初たる者も、死罪迄はなくとも嚴重にしてこらしめたる、能なり、盜賊どもの儀は牢舍抔被仰付、博奕を仕者は暫くも御宥めなく召捕次第片はしより成敗し玉ふ儀、却て御仁惠の至りと申べし、博奕して經營をそこね窮迫する時は夫より色々の惡事は出來る物也、己のみならず人までさそひ出し、月々年々に惡き者數多く出來る者也、されば壹人を殺して衆人を善道へ導き玉ふは難有御事也、不見識の者は博奕は盜賊抔よりやゝかろきと思ひ嚴重の刑に行はざれば、當世は次第〱に博奕多く、御城へ登城せし供の小者迄城內にてさへ博奕をする事と成候やからが多く成たる上は、嚴刑に所置する事もなしがたき樣に成行たるは、其刑ゆるき故也、さりとて今の世見付次第片はしより、神君の被仰付し如く嚴刑に行ひなば、多人數の怪我人出來し、是又御仁惠を損すべし、さりとていつ迄も此儘にて差置時は追〱惡き者のみ增長すべければ、一度嚴重の命を出し置て、先一ヶ年が間は召捕次第遠島抔申付、二ヶ年目より神君仰の如く片はしより死刑に行はるゝがよろしきなり、總て何刑にても人を殺す事を樂しむにあらず、後人の見せしめなれば、外より見ては如何にも嚴重に見へて、其當人はさまで苦しまぬ樣にすべきなり、刑の事は品數多き事なれども、先づ博奕諸惡の根元とのたまへる上意により、博奕の刑のみ論ずる也、
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『明訓一班抄抄録』・諫言を用べき事・大釜を打ち砕いた作左衛門の諫め東照宮濱松より放鷹として三河へ御出ありしに、今川義元の製しおかれたる大釜有、田間に打捨有しを御覽じて、幸ひの事なり濱松へ持參るべし盜賊を煮るに用べしと仰有し程に、民ども是を持行んと、其こしらへをなす所へ、作左衞門廻鄕して來られ何所へ持行ぞと尋候程に、右の由を申ければ、則人夫を出して其釜を悉く打碎きて歸られける、民どもも此儀を濱松へ達しければ則作左衞門を召し寄られ、如何成存寄にて打碎きたるぞと尋有し所に、國を治るに此事をなしたらば此罪に行ふべしと定れば、下より上の作法を知りて種々の巧をなすものなり、且釜を設て盜を待樣成政にては、天下の望みはいかにと申ければ、大に感じ思召て、常にあら〱しき樣なれども、大成思慮有とて御賞美不斜りけるとぞ、
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・家康の倹約と奢りへの戒め東照宮上意に、奢心なく物事儉約を用ひ、常に其程を能知るを、政道正しきと言なれば、下々は過分に知行其外給ひもの其程に施しあたふれば、奢者に引當て吝嗇の取沙汰致し候、古より賢者賢臣の過分に給り物萬事花麗の行はなく、身を愼み儉約を用ひし事に候、同上意に、我領分は勿論、其外天下せし以後、公料成し民百姓にても、我子孫萬代も願ふ由聞へあり、是三河以來の舊封にて年貢取箇の方諸家よりは少分に取候へと申付る故也、此時法を子孫迄第一に守るべき事なれども、太平打續上奢り下へつらひ國用乏しき風に至り、勘定奉行抔言者代官をせたげ、取箇にてすくなき時は不平の顏色をもて不勤などゝいはん、代官共も當時のなり合能樣に跡の事には構はず、法外に年貢取箇をまし百姓を困窮させ上をうとませ候樣致すべし、左樣の不了簡成勘定奉行を御爲などゝ言立、年寄共はじめ側近く勤むる者共立身を取持加增をも遣す樣に成などは、國家の衰微と知るべし、我百年の後にも天下兵軍起らん事は有べからず、只百姓の心はなれ上の冥加氣運も薄くならん事歎かはしき事也、箇樣の事中君より以下は執政の者も志し次第なり、水よく船を浮べ、水能船をくつがへす、たゞ此事を能く心得られよと、秀忠公え每度御敎訓なり、同上意に、人にも身にも去るべき物は奢りぞ、云々、同上意に、武道不案內成家は、諸士の風俗柔弱非義になりて武勇なければ、一戰に打負る時は罪なき嬰兒迄も一時に亡びぬるは古今ためし多し、武家に生れては武道に愚なるは鼠とらぬ猫の如し、公家と武家との替りは、譬へば金ならば、公家は金銀のごとし、武家は鐵に同じ、然るに人民金銀を好み、鐵の大寶なる事を知らず、鐵は寶器の本也、五穀を作り竹木を切とも朝夕の食を調へ尤天下國家の亂を拂ひ太平を致す事鐵の用多し、誠に大寶の長たるもの也、爰を不見付、
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『明訓一班抄抄録』・諫言を用べき事・御印籠を打ち砕いた雅楽頭酒井雅樂頭忠世は御後見にて御尊敬の人なり、或時御前へ出ける處に、其頃世に大に行れたる刑部梨地の御印籠を御床の上へ差置れたるを見て、あれは何にて候と申上らるれば、御前も如何と思召れしや、御赤面遊されながら、加賀守がとばかり上意なりし、雅樂頭御小性衆へ向ひあれを是へと申けるに、御前御赤面の御樣子を見奉る故立兼候を、御覽遊され取て遣し候へとの上意にて、御小性衆御床へ參り件の御印籠を取て雅樂頭前に置ければ、取上見て是は御印籠にて候か、加賀守御懇意にあまへ、若き故箇樣の花美なるものを差上ると相見へ申候、以前大殿樣(東照宮)駿府御在城の節、夕御膳御給仕之何某御小性にて着る袴を御覽被遊夫は何と申物ぞと御尋ねの時、茶宇と申物の由申上ければ、上意に己れ惡き者かな、天下久しく亂に及び漸此頃少く靜になり萬民も安き樣に見へ候處、名をも知り召れぬ程の衣類を着しける事、天下の奢を始め亂の端を起す不屆ものなり、御前退き候へと以の外御機嫌を損じ、夕御膳をも召上られず候故、某も種々に御機嫌を取漸に夜に入御膳をすゝめ申上る事有し、大殿樣には此ごとく天下の治亂を御大切に思召し、奢を御防遊されしに、只今箇樣に花美なる遊興を御賞翫遊され候事、以の外の由申上られ、御庭の石にあてゝ打ひしぎ捨られける、
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『明訓一班抄抄録』・治に亂を忘るべからざる事・太平に奢る風潮を戒めた吉宗の鷹狩り有德公には、近代彌太平の御世、御仁慮に安心して、諸家武備に怠り、無益の送り物に金銀を費し、衣食居宅に美を盡し、武器を等閑にして、先祖の功を忘れ、奢に費す事、禽獸にひとしと歎き玉ひ、士を勸め、武を勵まし、放鷹遊獵に出御有之、麾下の伴士を勵まし給ふ、是諸家上を學びて其風に移り、太平に武を忘れざらしめんとの思し召なり、同上意に、治世に亂を忘れざるは鷹野猪狩なり、如何となれは人數を遣ひ覺るは多少の人數に寄べからず、又諸士に弓鐵砲を打せ射させ、有功を記し、金銀衣服をとらする事は、第一旗本の士をなつけ、武功を我前にてあらはす事賞美し、外樣に居候者其外も我を見知る者なり、殊に兩番の者共は歷々にて、我手足も同じ事なれども、近習へは遠し紋付の衣服など貰らふ事尤少し、箇樣の時とらさすれば其者骨髓に徹し有がたく可存なり、然れば手足にもなるべき義なり、第一近年武備衰へて、大小名諸家中に到る迄、遊山翫などに長じ、酒色に溺れ、身に綾羅錦繡をまとひて、樂しみを專らとし、遊藝をのみ第一として、武士の習しは少しもなく、公家町人の如くに氣弱になり來り候事、上に武備なき故なり、旗本の風義も、少しは見能成事いかめしき事なれども、我武勇を好み、儉約を用ひ、無用に費なく、及ばずながら善政廉直を施さんと欲する故也、云々、齊昭謹で案ずるに、東照宮を初奉り、世に賢明の大將軍と聞えまします御方には、治世に亂を忘れぬ樣にしば〱御示し被爲置候、東照宮御明智、太平とは申ながら漸く天下治まりたる砌り、太平久敷續なば奢長じ武備を失はん事を歎かせ給ひ、治世に亂を忘れざる樣にとの御示諭しば〱なり、
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『明訓一班抄抄録』・奢侈を禁ずべき事・家康の麦飯と衣類への戒め云々、東照宮三河におゐて每歲夏中御麥飯なり、御近侍の人潛に白米の御飯を御椀の底に入上に麥飯少許おほふて出しければ、御覽有て、汝等我心をさとらず、我はおしむとおもへるか、今戰國の時にて兵杖勤かぬ年なし、士卒煩擾にして寢食を安ぜず、我獨なんぞ飽食に忍んや、且我一身の奉節を儉約にして軍用に給はせんとす、百姓を勞して自分ゆたかなる事をせずと仰られければ、聞者皆悅服せり、薩摩守忠吉十五歲初陣の時、純子のごとく綾紋ある唐機に、背に壹尺四方銀金絲にて圓を縫、內に同絲にて孔雀に縫たり、東照宮其奢を戒給ふにより、家老小笠原和泉守自分の陣羽織高宮にて作りしを忠吉へ着せ參らせ、孔雀の陣羽織は和泉守に給り、今小笠原三郞左衞門調子が家に在りと、云々、東照宮駿府に御在城之節御膳之御給仕に御小性罷在候處、其者着し袴を御覽被遊夫は何と申物ぞと御尋被遊候得ば、彼者茶宇と申物のよし申上候得ば、おのれにくきやつかな、天下久敷亂に及び漸此頃少靜に成萬民も安き樣に見へし處、我等も不知程の衣類を着したること、天下の奢を始、亂のはしを發す、不屆者なり、御前を退候得と、以の外御機嫌損じ、夕御膳を不被召上候故、御近臣ども種々に御機嫌を取、漸夜に入御膳をすゝめたるとぞ、御遺戒に、大小名は不及申、平日奢停止分限相應は勿論、直參陪臣に至り、高知の面々とても、知行の時一分は軍役、一分は領分救米除置、常々儉約を不忘所帶續くべき事、國郡在々常に分限を見定め可置、凶年飢饉の節救民の施行見遁すべからざる事、直參たりと言共、百石以下の士着用結衣不可用、公私兩樣木綿にて可相濟事、東照宮御鷹野に被爲成刻御泊り掛と申は格別にて、御日歸り御鷹野の節御辨當被仰出は稀のことにて、大方は御燒飯を御持せ被遊、野にても二度三度も被召上、其儘にて御歸被遊候、

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