及門遺範 / 西洋の脅威への憂い
一先生素憂戎狄窺邊、寛政甲寅、俄羅斯來東蝦夷乞通市、先生察其情僞、推求古今戎狄之形勢、瞭然如指掌、且辨破其虛誕誇張之妄說、(如云六千年史書具存、又云中世有大洪水人物蕩然無復存者、其言自相矛盾、其餘所論破今不盡錄)明如觀火、而謂、脫使西夷得志、宇內晦暗、天地爲長夜矣、安聞之茫然自失、如無所措身焉、其激勵後輩如此、而屢誦陳同甫上書高宗言、擧一世安君父之大讎、不知何物是性命、故後輩亦知性命之不可附空言、當時不見干戈二百年、文恬武熙、無復言兵事者、先生謂、滿淸乾隆之西師、去今二三十年、一水之外用大兵革如彼、雖海內無虞云乎、而治安焉可恃、廼欲著西土諸戎記、以警發世之安於無事者、屬稿粗成、遭多故不果、見今淸有寧波廣東之變、而西夷張大、逞覬覦益甚、世亦多以兵事爲言、果如先生所憂矣、
新字:一先生素憂戎狄窺辺、寛政甲寅、俄羅斯来東蝦夷乞通市、先生察其情偽、推求古今戎狄之形勢、瞭然如指掌、且弁破其虚誕誇張之妄説、(如云六千年史書具存、又云中世有大洪水人物蕩然無復存者、其言自相矛盾、其余所論破今不尽録)明如観火、而謂、脱使西夷得志、宇内晦暗、天地為長夜矣、安聞之茫然自失、如無所措身焉、其激励後輩如此、而屡誦陳同甫上書高宗言、挙一世安君父之大讎、不知何物是性命、故後輩亦知性命之不可附空言、当時不見干戈二百年、文恬武熙、無復言兵事者、先生謂、満清乾隆之西師、去今二三十年、一水之外用大兵革如彼、雖海内無虞云乎、而治安焉可恃、廼欲著西土諸戎記、以警発世之安於無事者、属稿粗成、遭多故不果、見今清有寧波広東之変、而西夷張大、逞覬覦益甚、世亦多以兵事為言、果如先生所憂矣、
書き下し
一、先生素より戎狄の辺を窺ふを憂ふ。寛政甲寅、俄羅斯東蝦夷に来たりて通市を乞ふ。先生其の情偽を察し、古今戎狄の形勢を推求して、瞭然として掌を指すが如し。且つ其の虚誕誇張の妄説を弁破し、(六千年の史書具存すと云ひ、又中世に大洪水有りて人物蕩然として復た存する者無しと云ふが如き、其の言自ら相矛盾す。其の余の論破は今尽くは録さず。)明らかなること火を観るが如し。而して謂ふ、脱し西夷をして志を得しめば、宇内晦暗にして、天地長夜と為らん、と。安聞きて茫然として自失し、身を措く所無きが如し。其の後輩を激励すること此くの如し。而して屡々陳同甫の高宗に上る書の言を誦す。一世の君父の大讐に安んずるを挙げ、何物か是れ性命なるかを知らず、と。故に後輩も亦た性命の空言に附すべからざるを知る。当時干戈を見ざること二百年、文恬武熙、復た兵事を言ふ者無し。先生謂ふ、満清乾隆の西師は、今を去ること二三十年、一水の外、大兵革を用ふること彼の如し。海内虞れ無しと云ふと雖も、治安焉んぞ恃むべけんや、と。乃ち西土諸戎記を著し、以て世の無事に安んずる者を警発せんと欲す。稿を属して粗ぼ成るも、多故に遭ひて果たさず。見今、清に寧波・広東の変有り、西夷張大して、覬覦益々甚だし。世も亦た多く兵事を以て言ふ。果たして先生の憂ふる所の如し。
現代語訳
一 先生はかねてから、外国勢力が国境をうかがうことを憂えていました。寛政六年(甲寅の年)に、ロシアが東蝦夷に来て通商を求めました。先生はその実情と偽りを見抜き、古今の外国勢力の形勢を調べて、掌を指すように明らかに述べました。さらに、そのでたらめで誇張した妄説を打ち破りました。(六千年の史書がすべて残っていると言いながら、中世に大洪水があって人も物もすべて跡形もなくなったと言うなど、その言葉は自ら矛盾している。そのほかの論破は、ここにはすべて載せない。)その明らかさは火を見るようでした。そして先生は言いました。もし西洋の外国勢力が志を遂げたなら、天下は暗く閉ざされ、天地は長い夜になるだろう、と。私はこれを聞いて茫然として自分を失い、身の置きどころがないほどでした。先生が後輩を励ますのはこのようでした。また先生はしばしば、陳同甫が高宗に上った書の言葉を誦しました。世の人が君父の大きな仇に安んじているのを挙げて、「何をもって性命とするのか分からない」と言ったものです。それで後輩たちも、性命が空言に付すべきものでないことを知りました。当時は戦乱を見なくなって二百年、文は穏やかで武は輝き、もはや兵事を言う者はいませんでした。先生は言いました。清の乾隆帝の西方遠征は今から二、三十年前のことで、海を隔てた外でそのような大規模な戦争を行っている。国内に心配がないといっても、太平が頼りになるだろうか、と。そこで『西土諸戎記』を著して、世の無事に安んじている者に警告しようとしました。草稿はほぼできましたが、多くの事件に遭って果たせませんでした。今、清には寧波・広東の変が起き、西洋勢力が大きくなって、野心がますます甚だしくなっています。世間でも兵事を言う者が多くなりました。まさに先生が憂えたとおりになりました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『及門遺範』・先生の学問と早世一、先生経史を講究し、学として該ねざる無し。而して聖人経綸の事業に於いて尤も力を致す。内には則ち天神の創業、列聖の継述より、以て皇綱□紐、武人政を為すに至り、外には則ち堯舜周孔の政を立て教を明らかにするより、漢唐宋明の治乱興衰、以て身毒西洋の形勢沿革、異教の民を罔し呑併して毒を肆にするの跡に至るまで、上下数千載、原委を推究し、臧否を甄別す。礼楽制度、経国治民の規模、人情風俗の変態、之を論ずること掌を指すが如し。而して古を稽へ今に徴するに、幕府の法令、及び我が東藩の政治教禁より、之を文書に徴し、之を口碑に求め、断簡破牘、俚言瑣語と雖も、採録蒐羅せざる莫し。其の鈔録記載、積みて汗牛充棟に至る。門人著述して編を成さんことを請ふ。先生曰く、吾が学既に諸れを事業に試すを得ず。之を文字に托するも、亦た以て已むべからず。我将に年知命に至るを待ち、然る後に著作する所有らんとす、と。其の言未だ遂ぐるに及ばず、五十三を以て終はる。実に文政九年丙戌冬十一月朔なり。今を距つること二十余年、門人も亦た離合聚散し、凋謝尠からず。往事を追懐し、泫然として之を書す。
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・蝦夷地の備えと平時の防備の必要性大猷公以來長崎の方は黑田鍋島へ防禦の事永續被仰付たる上にも、事有候時は其節に臨み能武將を撰び被遣事見へたれども、裏門の蝦夷に於ては實に御手薄き事とて、非常の節良將を被遣迄持こたへ、何も安心守らざる事也、昔は蝦夷の北は無人なりしが、今は昔と違ひ、魯西亞も廣大に成り、且はカンサツカへも能湊出來、ラツコ島まで奪れたれば、昔の御見通しにては大に異なるべし、されば文化の明斷を繼給ひて、蝦夷の地は公邊にて處置し給ひて、蝦夷地中便宜の土地を撰びて本城を御出來、郡村迄も追ゝに御おき、何事も無之內に人數も繁衍すべきやう御仕向け、海岸平路の地へは出城にても所々へ出來、大筒人數共常ゝ夫ゝ備え給ひて、萬々一の時も此方より御人數出し給ふまでもなく、小事は防ぎ留べく、又大事に成候ても御人數着至迄の持こたへ位は成るべき也、北狄の模樣昔と違ひ强大に成りて、且又、蝦夷の離島も追ゝ奪れたる上は、大猷公にて、黑船よりも明は近きに寄て御油斷不相成との尊意を以考ふれば、今は明よりも魯西亞の方はるかに近ければ、長崎よりは蝦夷の方御油斷なりがたき事に思ひ侍るなり、上意に、異國みだると聞ば云々との御諚乍憚御尤至極の御事にて、異國亂るゝよし聞たらば嚴重御備被遊べきは勿論なり、扨又日本は海國故、いつ何時夷狄押寄來らんも難計ければ、常ゝ浦々津々油斷すべからざれども、別て北狄の戰爭無之靜謐の時も防禦の備へ怠るべからず、是昔と今と敵國の模樣替りたる故也、扨近來浦賀等の海岸夫ゝ御手厚に備へ給ひしが、愚考にては未御十分には不奉存を、何れよりの建呈にて二ヶ年も不立內に、
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『新論』虜情升平已に久しく、海内無事なるに及びて、夷復た中国を窺ひ、諳厄利重ねて通商を乞ふ(長崎夜話に是の事を載す。大略に云ふ、諳厄利往年市舶を通じ、元和中に至りて、自ら其の通舶を罷むる者は、蓋し深く時勢を知る者有ればなり。世移り時改まるに及びて、又徼幸する所有らんと欲し、延宝癸丑を以て復た通商を乞ふも、許さずと。今其の語意を詳らかにするに、亦泛言なる者に非ざるに似たり)。而して邏馬も亦僧を遣はして潜入し、窃かに夷教を唱ふ。亦皆未だ其の志を得ること能はざるなり。近時に至りては、則ち鄂羅殊に張り、蝦夷を誘ふに邪教を以てし、諸島を蚕食して、遂に内地を伺ふ。而して諳厄利も亦頻りに来たりて、潜かに辺氓を誘ふ。然らば則ち其の胡神を奉じて以て中国を覬覦する者、豈に独り波爾杜瓦のみにして止まんや。
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『講孟余話』公孫丑上 第四章此の章両つの「是の時に及びて」の語を下す。朱註並びに「惟れ日も足らざるの意」と云ふ、最も妙なり、味はふべし。今や東墨西欧駸々として来り逼る、官皆枉げて其の意に適従す。輿地図を披きて是れを検するに、蝦夷のクシュンコタン既に魯人の城塁を築く。松前の箱館、伊豆の下田已に墨人の互市場となる。肥前の長崎、暗払の来航頻々なり。其の他武蔵の神奈川、志摩の鳥羽、摂津の難波等、夷人已に去ると雖も、腥膻の気汗染して未だ去らず。然らば則ち神州の其の汗を受けざる者幾許ぞや。事已に茲に至る、間暇又幾時ぞや。幸に今数年の災を紓ぶ、実は不治の病を護す。是の時に乗じ惟れ日も足らずとして、日夜刻苦勉励、上に在りては其の政教を修め、士大夫に在りては其の学芸を錬り、農工商賈は各々其の業を勤め、務めて牖戸を綢繆し、下民の侮を禦ぐべし。然るに今は然らず、是の時に乗じ惟れ日も足らず日夜般楽怠敖すること何事ぞや。古今同慨なるかな。
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『海国兵談抄録』・自序・ロシアの動きと文武両全の勧め竊に憶へば、若くは此以後の清主、無內患の時に乘じ、且つ元の古業を思合せて、如何なる無主義を起す間じきにもあらず、其時に至ては、貪欲を本とすれば、日本の仁政にも不可懐、又兵馬億萬の多きを恃めば、日本の武威にも不可畏、是明迄の唐山と、同じからざるわけ也、又近頃歐羅巴の莫斯哥未亞、其勢ひ無雙にして、遠く韃靼の北地を侵掠し、此ごろは室韋の地方を略して、東の限り加模西葛杜加(即カムサスカ也蝦夷の東北に在)迄、押領したり、然ルに加模西葛杜加より東には此上取べき國土なし、此故に又西に顧みて蝦夷國の東なる千島を手に入るべき機しありと聞及べり、既に明和辛卯の年、莫哥斯未亞より加模西葛杜加え遣し置る豪傑、バロンマオリッツ、アラアダルハン、ベンゴロウといふ者、加模西葛杜加より船を發して、日本え押渡り、港々え下繩して、其の深サを計りながら、日本を過半乘廻したる事あり、就中、土佐の國に於ては、日本國に在合、阿蘭陀人えと認し書を遺置たることもある也、是等の事、其心根可憎可恐、是海國なるがゆへに、來る間敷船も乘る人の機轉次第にて、心易く來らるゝなりと察すべし、さて海國のわけと唐山の時勢とを辨じ得たる上に、又一ッの心得あり、其心得といふは偏武に不陷して、文武兩全なるべき事を欲し願ふべし、偏武なれば野也、無智也、元より兵者凶器也、然れども死生存亡の係る所にして、國の大事是に過るものはなきゆへ、野にして無智なる偏武の輩に任せ難き事也、此故に日本の古代は都には鼓吹司と淳和、獎學の兩院を置、國々には軍團と鄕學とを置て、皆文武を敎られたり、又孔子も文武兩全の意を述て、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・裏門の備えを手厚くすべきという斉昭の意見齊昭謹で按ずるに、土地とても異國より日本を窺ふの患あり、故本文のごとく武內大臣を筑紫差置れ、又、三代將軍家御代には異國船の沙汰も今の如くには無之に、大猷公黑田鍋島等へ被命、防禦永續被仰けるは、深遠に御仕置と奉感も、餘り有る事也、扨、又、大猷公上意の趣、明は日本へ近き國なれば黑船よりも御心許なく被思召よし、愼ながら御尤至極なる御事也、然るに明國も其後北狄より攻めとられ、今淸國と改めたれば、其土地は昔も今も日本へ近きは違ることなかれ、長崎の押は今以嚴重に戒め給ふ事當然の事なれ共、蝦夷狄は至て北狄へ近く、且昔と違ひ北狄強大になりて、追ゝ蝦夷地を蠶食すれば、此儘差置れなば末終に大患となるべし、本朝は四面海なれば、何れの浦々津々とても同樣ながら、譬へば長崎は表門にて、蝦夷は裏門の姿なり、長崎には黑田鍋島のみならず、隣國も大名多ければ、自然の事有之ても、御手厚なれども、蝦夷の地は嚴寒麁土地なりとて、町人風の一小島南方に城郭を搆へたるのみなれば、北狄渡來るにおゐては、一戰もなく只渡し遣候樣可相成、昔はカンサツカ迄日本の地の由なりしが、今はラツコ島カラフト島の北邊は皆夷狄に被奪たりと聞、本文の如く東照宮御意にも異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰び異國を押させよとの御事なり、此御遺圖を續せ給ひ、

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