及門遺範 / 諸学の長短を見て短を捨てる
一先生於文學、網羅古今、會華衆說、斷之以聖經、謂漢儒博士之學、先訓詁、疎實用、甚者流讖緯之言、大害聖人之道、宋儒一洗陋習、說躬行心術、其見卓矣、然自信太過、蔑視前賢、以爲繼二千年絕學、至後學之弊、則或知有濂洛、而不知有洙泗、明人言、敢於非周公孔子、不敢於非宋人、亦有非誣者、而自設藩籬、立門戶、見異於己者、則排擯以爲異學、不能汎愛容衆、陳同甫以英邁之才、倡大義、其王覇之辨、不爲無一得、然豪氣過甚、其言亦有不醇者、王伯安一代人豪、其謂就物窮理爲支離、亦如有一理、然自恃聰明、浸淫禪機、則失聖人之旨、明淸考證之學、解經精密、然或務碎細、遺大義、不無一失、熊澤氏才識絕倫、然偏信王學、則未爲得、山崎氏磨礪節義、有益風敎、然狹隘多僻說、伊藤氏以論語爲宇宙第一書、說□充之義、可謂卓見、然見道過平易、亦流於一偏、荻生氏雄才卓識、壓倒古今、然英雄欺人、說經多牽强、以道爲先王所造作、不知君臣之名、華夷之分、新井氏聰明絕倫、爲經綸之才、然至君臣名分、則大失其義、此皆有長有短、舍短取長、以聖經爲根據、庶幾其不倍矣、安謂、義公嘗曰、先賢各有所見、廣蒐博採、用之不偏則善、執偏見、拘泥一隅、儒中之異端矣、先生蓋奉 公遺意也、
新字:一先生於文学、網羅古今、会華衆説、断之以聖経、謂漢儒博士之学、先訓詁、疎実用、甚者流讖緯之言、大害聖人之道、宋儒一洗陋習、説躬行心術、其見卓矣、然自信太過、蔑視前賢、以為継二千年絶学、至後学之弊、則或知有濂洛、而不知有洙泗、明人言、敢於非周公孔子、不敢於非宋人、亦有非誣者、而自設藩籬、立門戸、見異於己者、則排擯以為異学、不能汎愛容衆、陳同甫以英邁之才、倡大義、其王覇之弁、不為無一得、然豪気過甚、其言亦有不醇者、王伯安一代人豪、其謂就物窮理為支離、亦如有一理、然自恃聰明、浸淫禅機、則失聖人之旨、明清考証之学、解経精密、然或務砕細、遺大義、不無一失、熊沢氏才識絶倫、然偏信王学、則未為得、山崎氏磨礪節義、有益風教、然狭隘多僻説、伊藤氏以論語為宇宙第一書、説□充之義、可謂卓見、然見道過平易、亦流於一偏、荻生氏雄才卓識、圧倒古今、然英雄欺人、説経多牽強、以道為先王所造作、不知君臣之名、華夷之分、新井氏聰明絶倫、為経綸之才、然至君臣名分、則大失其義、此皆有長有短、舎短取長、以聖経為根拠、庶幾其不倍矣、安謂、義公嘗曰、先賢各有所見、広蒐博採、用之不偏則善、執偏見、拘泥一隅、儒中之異端矣、先生蓋奉 公遺意也、
書き下し
一、先生文学に於いて、古今を網羅し、衆説を会華し、之を聖経に断ず。謂ふ、漢儒博士の学は、訓詁を先にして実用を疎んじ、甚だしきは讖緯の言に流れ、大いに聖人の道を害す。宋儒は陋習を一洗し、躬行心術を説く、其の見卓なり。然れども自信太だ過ぎ、前賢を蔑視し、以て二千年絶学を継ぐと為す。後学の弊に至りては、則ち或いは濂洛有るを知りて、洙泗有るを知らず。明人の言に、敢へて周公孔子を非るも、敢へて宋人を非らず、と。亦た誣に非ざる者有り。而して自ら藩籬を設け、門戸を立て、己に異なる者を見れば、則ち排擯して異学と為し、汎く愛し衆を容るる能はず。陳同甫は英邁の才を以て大義を倡へ、其の王覇の弁は、一得無きに非ず。然れども豪気過甚にして、其の言も亦た醇ならざる者有り。王伯安は一代の人豪にして、其の物に就きて理を窮むるを支離と謂ふは、亦た一理有るが如し。然れども自ら聡明を恃み、禅機に浸淫して、則ち聖人の旨を失ふ。明清考証の学は、経を解すること精密なり。然れども或いは砕細に務めて大義を遺し、一失無きに非ず。熊沢氏は才識絶倫なれども、偏に王学を信ずるは、則ち未だ得たりと為さず。山崎氏は節義を磨礪して風教に益有り、然れども狭隘にして僻説多し。伊藤氏は論語を以て宇宙第一の書と為し、□充の義を説くは、卓見と謂ふべし。然れども道を見ること平易に過ぎ、亦た一偏に流る。荻生氏は雄才卓識、古今を圧倒す。然れども英雄人を欺き、経を説くこと牽強多く、道を以て先王の造作する所と為し、君臣の名、華夷の分を知らず。新井氏は聡明絶倫、経綸の才なり。然れども君臣名分に至りては、則ち大いに其の義を失す。此れ皆長有り短有り、短を舎て長を取り、聖経を以て根拠とせば、庶幾くは其れ倍かざらん。安謂へらく、義公嘗て曰く、先賢各々見る所有り、広く蒐め博く採り、之を用ひて偏せざれば則ち善し。偏見を執り、一隅に拘泥するは、儒中の異端なり、と。先生は蓋し公の遺意を奉ずるなり。
現代語訳
一 先生は学問において、古今の説を網羅し、多くの学説を集め合わせ、それを聖人の経書によって判断しました。先生はこう論じました。漢代の儒者や博士の学問は、字句の解釈を先にして実用をおろそかにし、ひどいものは讖緯(予言)の言葉に流れて、聖人の道を大いに害した。宋代の儒者はこの古い悪習をすっかり洗い流し、自ら実践することと心のあり方を説いた。その見識はすぐれている。しかし自信が過ぎて、昔の賢人を軽んじ、二千年途絶えていた学を自分が継いだと考えた。後の学者の弊害に至っては、濂渓・洛陽(宋学の祖)を知っていても、洙水・泗水(孔子の地、つまり孔子その人)を知らない者さえいる。明の人が「周公や孔子を非難することはあっても、宋の学者を非難することはしない」と言ったのも、まんざら嘘ではない。そして自分で垣根を作り、門戸を立てて、自分と異なる者を見ると、排斥して異学とし、広く愛し多くを受け入れることができない。陳同甫(陳亮)はすぐれた才で大義を唱え、王道と覇道についての弁は一つの得るところがないではない。しかし意気が盛んすぎて、その言葉にも純粋でないところがある。王陽明は一代の傑物で、物に即して理を究めるのを煩わしく散漫だとしたのは、一理あるようである。しかし自分の聡明さを恃み、禅の機微に深く浸って、聖人の趣旨を失った。明・清の考証学は経書の解釈が精密である。しかし細かいことに努めて大義を忘れ、失敗がないとは言えない。熊沢氏(熊沢蕃山)は才識が並外れているが、陽明学をかたよって信じたのは、よいとは言えない。山崎氏(山崎闇斎)は節義を磨き励まして教化に益があるが、狭隘で偏った説が多い。伊藤氏(伊藤仁斎)は『論語』を宇宙第一の書とし、(底本で判読できない字)充(底本で判読できない一字を含む)の義を説いたのは卓見と言える。しかし道の見方が平易すぎ、これもまた一方に偏っている。荻生氏(荻生徂徠)は雄大な才と卓越した見識で、古今を圧倒する。しかし英雄が人を欺くように、経書の解説にこじつけが多く、道を先王の作ったものとし、君臣の名や華夷の区別を知らない。新井氏(新井白石)は聡明で並ぶ者がなく、国を治める才がある。しかし君臣の名分については、その義を大いに失っている。これらはみな長所もあれば短所もあり、短所を捨て長所を取って、聖人の経書を根拠とすれば、おおむね背くことはないだろう、と。私が思うに、義公(光圀)はかつてこう言いました。昔の賢人にはそれぞれ見るところがある。広く集め、広く取り、それを用いて偏らなければよい。偏った見解に固執して一隅にこだわるなら、それは儒者の中の異端である、と。先生はおそらく義公の遺志を奉じていたのでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四古今先儒の説は、各異同有り。後儒の説は、固より偏邪なる者多し。苟も斯の道に於て齟齬する所有らば、則ち固より順従すべからず。然れども其の中に復た理の正しくして、旧説と小しく出入する者有り。須らく択びて取捨を為すべし。槩して是ならずと為すべからず。何ぞや。人は聖人に非ざれば、賢者と雖も、各長ずる所有り、短なる所有り。須らく偏側過不及の差無きこと能はざるべし。伯夷柳下恵を見て知るべきなり。聖人の言は、大中至正、純粋精微なり。譬へば嘉穀の能く人を養ふが如く然り。人の病有ると病無きと、宜しきを罄くさざるは無し。賢者の言は、偏側の病無きこと能はず。譬へば参芪朮甘の如し。固より上薬為り。然れども其の性為るや、偏勝の害無きこと能はず。須らく症に随ひて択び用ふべし。槩して任使すべからず。且つ人文の開明すること漸を以てする者は、自然の理なり。故に後人の説と雖も、或いは前人に勝る者も、亦た間之有り。故に咸非と為すべからず。須らく択びて之を去取すべし。此れ平正を悪みて新奇を好むに非ず。斯の学は一家の私に非ず。須らく道理の至当に帰することを要するのみ。一家に偏党して、聡明を蔽塞すべからず。
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