匡正論 / 詩文は悪くない、教え方の弊を改める
余は是を勝れたりとする也、如此云ばとて詩文は惡しきものなりと心得は又大に誤也、夫詩は情懷を述する者にて、喜怒哀樂凡心に感ずる事、皆詩に發する也、たとへば、人にも語られざる感懷あらんに、言ずしてあられぬ人情有は、是を詩歌にて懷を述るに、其詞すくなくして微妙に其意を通ずる者は詩也、又文章は先王の道皆書によりて知る事なれば、文章に通達せざれば快通する事能はず、是皆知らで叶ぬ事なれども、世其弊多によりて右の如く書す也、皆其人の罪にして、決して詩文の罪に非ずと知可し、殊に士君子の無骨野鄙にて物の哀をも知らざるは見苦き者也、故に本意さへ失ずば、餘力に詩文も心がけたき事也、且右の如に云者、人々其才短なりとして、孟子所謂自暴の病導かん事のあらんを恐る、只右にも云如く、虛學に走らざる樣にして如何にも成丈は博學を心がけたき也、學の弊あると云事も、學者の弊のみにてもあらず、其師の弊も亦多し、其師とする多くは儒生なれば、假令ば藩國に抱られても浪人の才學を講じて諸生を集め、詩文を專らとして人を悅ばしむるを以て口に糊することをのみ業とする癖にて、諸士に敎るに差別あることにも心づかず吾得手を以て敎る也、孔子の弟子を敎育し玉ふ仁心より責るときは、其罪甚き事也、故に人の師たる者は弟子の才を見立て、それ〱の敎方あるべきと思はる、且弊は何にても有ものにや、徂徠は誠に希代の大才にして殊に實學の旨を開き、君子の學今是を師とせずして外なし、然れども其學をする輩、多くは詩文を專らとする弊ありて、夫より傲氣放蕩を極むるものあるに至る、
新字:余は是を勝れたりとする也、如此云ばとて詩文は悪しきものなりと心得は又大に誤也、夫詩は情懐を述する者にて、喜怒哀楽凡心に感ずる事、皆詩に発する也、たとへば、人にも語られざる感懐あらんに、言ずしてあられぬ人情有は、是を詩歌にて懐を述るに、其詞すくなくして微妙に其意を通ずる者は詩也、又文章は先王の道皆書によりて知る事なれば、文章に通達せざれば快通する事能はず、是皆知らで叶ぬ事なれども、世其弊多によりて右の如く書す也、皆其人の罪にして、決して詩文の罪に非ずと知可し、殊に士君子の無骨野鄙にて物の哀をも知らざるは見苦き者也、故に本意さへ失ずば、余力に詩文も心がけたき事也、且右の如に云者、人々其才短なりとして、孟子所謂自暴の病導かん事のあらんを恐る、只右にも云如く、虚学に走らざる様にして如何にも成丈は博学を心がけたき也、学の弊あると云事も、学者の弊のみにてもあらず、其師の弊も亦多し、其師とする多くは儒生なれば、仮令ば藩国に抱られても浪人の才学を講じて諸生を集め、詩文を専らとして人を悦ばしむるを以て口に糊することをのみ業とする癖にて、諸士に教るに差別あることにも心づかず吾得手を以て教る也、孔子の弟子を教育し玉ふ仁心より責るときは、其罪甚き事也、故に人の師たる者は弟子の才を見立て、それ〱の教方あるべきと思はる、且弊は何にても有ものにや、徂徠は誠に希代の大才にして殊に実学の旨を開き、君子の学今是を師とせずして外なし、然れども其学をする輩、多くは詩文を専らとする弊ありて、夫より傲気放蕩を極むるものあるに至る、
書き下し
余は是を勝れたりとする也、如此云ばとて詩文は惡しきものなりと心得は又大に誤也、夫詩は情懷を述する者にて、喜怒哀樂凡心に感ずる事、皆詩に發する也、たとへば、人にも語られざる感懷あらんに、言ずしてあられぬ人情有は、是を詩歌にて懷を述るに、其詞すくなくして微妙に其意を通ずる者は詩也、又文章は先王の道皆書によりて知る事なれば、文章に通達せざれば快通する事能はず、是皆知らで叶ぬ事なれども、世其弊多によりて右の如く書す也、皆其人の罪にして、決して詩文の罪に非ずと知可し、殊に士君子の無骨野鄙にて物の哀をも知らざるは見苦き者也、故に本意さへ失ずば、餘力に詩文も心がけたき事也、且右の如に云者、人々其才短なりとして、孟子所謂自暴の病導かん事のあらんを恐る、只右にも云如く、虛學に走らざる樣にして如何にも成丈は博學を心がけたき也、學の弊あると云事も、學者の弊のみにてもあらず、其師の弊も亦多し、其師とする多くは儒生なれば、假令ば藩國に抱られても浪人の才學を講じて諸生を集め、詩文を專らとして人を悅ばしむるを以て口に糊することをのみ業とする癖にて、諸士に敎るに差別あることにも心づかず吾得手を以て敎る也、孔子の弟子を敎育し玉ふ仁心より責るときは、其罪甚き事也、故に人の師たる者は弟子の才を見立て、それ〱の敎方あるべきと思はる、且弊は何にても有ものにや、徂徠は誠に希代の大才にして殊に實學の旨を開き、君子の學今是を師とせずして外なし、然れども其學をする輩、多くは詩文を專らとする弊ありて、夫より傲氣放蕩を極むるものあるに至る、
現代語訳
私は(経書を熟読した)この人のほうが優れていると思います。このように言うからといって、詩文は悪いものだと心得るのはまた大いに誤りです。そもそも詩は情懐を述べるもので、喜怒哀楽およそ心に感じることはみな詩に発します。たとえば人にも語れない感懐があって、言わずにはいられない人情があるとき、これを詩歌で述べると、その言葉は少なくて微妙にその意を通じるのが詩です。また文章は、先王の道はみな書によって知ることなので、文章に通達していなければ、快く通じることができません。これらはみな知らなくてはならないことですが、世にその弊害が多いので右のように書くのです。みなその人の罪であって、決して詩文の罪ではないと知るべきです。特に士君子が無骨で野暮で物の哀れも知らないのは見苦しいものです。ですから本意さえ失わなければ、余力で詩文も心がけたいものです。また右のように言う者は、人々が自分の才は短いとして、孟子のいわゆる自暴の病に導かれることを恐れるのです。ただ右にも言うように、虚学に走らないようにして、できるだけ博学を心がけたいのです。学の弊害があるというのも、学者の弊害だけではなく、その師の弊害も多いものです。その師とするのは多くは儒生なので、たとえば藩国に抱えられても、浪人の才学を講じて諸生を集め、詩文を専らとして人を喜ばせ、それで口に糊することばかりを業とする癖があり、諸士に教えるのに差別があることにも気づかず、自分の得手をもって教えるのです。孔子が弟子を教育なさった仁心から責めるなら、その罪は甚だしいことです。ですから人の師たる者は弟子の才を見立てて、それぞれの教え方があるべきと思われます。また弊害はどんなものにもあるものでしょうか。徂徠は誠に希代の大才で、特に実学の旨を開き、君子の学は今これを師とせずして他にありません。けれどもその学をする者は、多くは詩文を専らとする弊害があって、そこから傲気放蕩を極める者さえ出るに至ります。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『匡正論』・唐めかす風と詩教の本意何も角も唐めかしたる事を好み、總てわびもの好みを高雅風流の事と思ふ類今世の弊風なり、且少し學文あると通用書牘にも處々華語を交じへ、平生談話にも公等足下など云樣の事を雅なりとするも可笑、其牘を讀むに正文にも非ず俗文にも非ず、譬へば廊上下に冠を戴くが如し、平生の詞に公等御出なされたかなど云は、吾國の人とも云れぬ也、夫より下りては俳優好女の輩色々唐士めける事をなせば、皆人其文雅の行わたりたるとて珍重せる樣になりたり、輕薄の至りと知可し、扨今の詩は猶古の詩の如し、其躰裁は異なれども其情景を其儘詠ずるは何ぞ異ならん、喜怒哀樂遇不遇去就出處よろづの事に付心に成ずる事あれば是を詩に發する人情也、故に聖人詩敎を立て人をして溫柔敦厚の德を成さしめ玉ふ也、古君子の德を養ふ詩より始る、故に詩敎の第一に是を立たり、君子の德を養ふ事皆國家安治に關からざるはなき也、然るに後の詩を學ぶ者動もすれば游民素餐の徒となる事あらんとは聖人も前知し給はざる所ならん、苟くも聖人の書端をも窺見は如何ぞや、故に今の人詩を學はいかにも盛唐の格詞を師として、其人物行事は必しも師とせずして作らる可き事也、去れば唐の魏徵などは其人物格別にして其詩も又實情雅順也、如此の類いくらも有べき也、然るに後の詩人の君子ならざる故に其害甚しきに至る也、吾朝の歌も全く詩と同敎なる事は見えたり、殊にすぐれて吾朝古より歌の德を以て盛なりとする、誰も知る所也、然るに吾國歌傳をば殊に秘し玉ふと聞なれば、其敎の至意は是を知る事に非ず、
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『匡正論』・才に応じた学び方と流派の弊徠翁の徠翁たる所は經學復古の業を以て盛なりとする事にて、實學の大才なれども、初學に敎ふるに詩文を以て敎らるゝ事故に、後世是を學者の罪にはあれども、遂に詩文の虛學者出來る事也、大に徠翁の心に非る可し、且つ徠翁は大才の豪傑なれば、詩文は勿論何も角も出來たる事也、人の知る所也、是を學者其才の餘りなき故に有することあたはず、諺に云ふまねする烏とやらん云樣にて、遂に虛學に陷る也、故に人々其才に從て、學び方敎へ方心得あり度事也、儲又武藝兵法を學にも其心得有度事也、大抵は徂翁の著書中にも處々あるが如く、詩文は武藝の中にても古は專らとして用ひ今はさまでの專用にあらざるもあるべく、又古の敎方と今の敎方と異もあるべく、無益の事に氣をつけずして、あたら月日を送るもあるべければ、徂徠の鈴錄抔に論ぜる所を工夫して、修行ありたき事也、兵法抔にて云へば、兵家諸流の輩、謙信の傳る所の武道は、日本武尊より傳來る和國正統の武道にて、治國修身の外他の道を假らずと云、孫吳をも異國の兵書なれば見るに及ばずなど云ふ、甚しきは六經論語をも見る事をふせぐに似たるもあり、文盲なる士は誠に此上もなきやうに思ひ、且つ其妄說により文學をもなさで濟む事と心得、得手勝手を云類もあり、大に害ある事ども也、又軍法と云へば城取など第一義として、繪圖或は小手三昧にて日月を費し精力を勞するもあり、又兵法の理などは少し文才ある者は一覽にてさらりと會得する事なども、師家よりの傳來なりとて聞かで叶ざることをばさしをき、幾度の講釋三度の返講など濟ざれば言聞かさざる類もあり、
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『匡正論』・才に応じた学びと虚学の戒め海舶來の和訓なき書の解するほどには誰もありたき者也、儲大才の質ならば如何にも博學成才を勤め治國平天下の大器にも當るべき盛德をなしたき事也、箇樣の英才は才に餘る事なれば武事も何も角も出來る者也、又さまてなき人の謾りに博學をなし、才器を弘るとて先經書をもさしをき、專ら文章を玩び、儒者諸生と是を競ひ、其風の儀も儒生めきたるは、相應に人も慕、詩或は文にても添削を請るゝ樣になり、或は傍書畫彫刻等も出來、人も持はやしなどすれば、終に自分も學文は出來たりと思ひ、一生是等の藝に終る者少きに非ず、畢竟才の短なる故に、大道に行及ばざるにても有べけれ共、博學の仁そこないなども有べき也、又初學の中に詩よりして入れば入易き事なれば、詩を作らしむるが癖となりて、詩人の風流を是として晉人の放逸を高しとし、經濟の事などを閒ては理屈めきて卑しとし、動もすれば、遨遊を催し、詩興を求め、隱逸の趣をなす。是等の風は士學の好ざること也、迚も才の餘りなき質ならば、詩文はさまで美事を書出さぬとも、如何にもして經書を熟讀して先王の義の大概には行はるゝほどの學文ならば本意なるべし、儲又其次なる才が晩學ならば、孝經論語尙書等の書を熟讀して、後世徂徠の二辨等を讀み、道は大抵箇樣なる者と合點するほどの本意なれば、道を政治に施事は成がたくとも、相應には今日の上にも疑も生じ、誤も十に一つは見ゆる樣にも有べければ、君父に事へて忠孝を志し、相應に諫めをも言ひ、君父をして不義に陷らしめず、何事にも大なる過は有まじければ、彼虛學に走り虛名を世に傳へて鼻高する輕薄者よりも、
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『匡正論』・雅俗の誤解と放逸の風古より其主の干城ともなるべき士の妬氣ありて不忠の罪に陷る者其數を知らず、返す〱も文武兼備ならば却て其罪を生ずる事あり、庶くは君子熟察せよ、雅俗と云事も亦今人頗る其儀を誤る事あり、其弊少からず、詩人歌人茶客の類多く其毒を痛也、先其雅とせる者の大抵を云はゞ、世人に異なる體を好み奇怪放逸の行狀をなし、世に用らるゝ事をうるさく思ひ、閑靜の地に避て喫茶飮酒を縱にし、世の事にうときを高しとして一生哦吟に心をよする類を雅とし、是に反する者を俗とする也、夫詩を作る事を敎るに高妙より入べきと云、漢魏晉盛唐を以て師とせしめ、儒者の氣象言語を入るは本色々に非ずと云より、詩人多高妙に走るの失ありと見へたり、且晉唐の詩をよくする人老莊佛等の學を爲せる者多き樣なれば、其輩多くは世に用られて身を羈せざることを好み、至尊高貴へも不遜なる言行あるを高しとする故に、其詩句も亦多く此氣象を詠ずるや殊に其人詩に妙なる故によく人を感動せしむる樣に其情實を詠じ出すによりて、後の詩を學ぶもの其詩に法りて作る故に、終に其人の行事を風雅なる事と思て又是に傚ふに至る、苟くも詩を作る者とさへ云へば、假令身は士宦たりとも動もすれば隱趣不羈の事を云、詩は志を云ものなるに、詩志相違しても箇樣ならざれば高雅ならずと思、又今日さまでの不遇にもなきに實に世を逃れたく士宦をうるさく思ひ、天下の遊民となり、或は飮酒放逸して風雅を極めんと思ふ類もあり、又かゝる人の平日文房の具なりとて集を見るに、かりそめにも異國より渡る物とさへ云ば、唐土ては俗間に用る賤き物にても總て雅物なりとして珍重し、
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『徂徠先生答問書』卷中一詩文章の学は無益なる儀の様に被思召候由、宋儒の詞章記誦などゝ申候を御聞入候事年久敷候故、左様思召候にて可有御座候。まづ五経の内に詩経と申物御座候。是はたゞ吾邦の和歌などの様なる物にて別に、心身を治め候道理を説きたる物にても、又国天下を治め候道を説きたる物にても無御座候。古の人のうきにつけうれしきにつけうめき出したる言の葉に候を、其中にて人情によく叶ひ言葉もよく、又其時その国の風俗をしらるべきを、聖人の集め置き人に教へ給ふにて候。是を学び候とて道理の便には成不申候得共、言葉を巧みにして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀国の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり、高き位より賤き人の事をもしり、男が女の心ゆきをもしり、又かしこきが愚なる人の心あわはひをもしらるゝ益御座候。又詞の巧なる物なるゆへ、其事をいふとなしに自然と其心を人に会得さするの益ありて、人を教へ諭し諷諫するに益多く候。
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『徂徠先生答問書』卷下詩経の取捌、宋儒の誤の大成処可申進候。詩勧善懲悪の為と申事、是大き成誤に候。誠に勧善懲悪の為と思召候はゞ、今少よき仕形外にも可有之候。詩にて勧善懲悪の教を施すといふ事さりとては聞え不申事に候。古聖人の智にて、左様のつまり不申事可有之候様無御座候。詩経は淫奔の詩多く有之候。朱註には悪を懲しむる為と有之候へ共、却て淫を導く為に成可申候。是等の所とくと御了簡可被成候。詩経は曽て夢にも済不被申と相見申候。論語に不学詩無以言と有之、学詩三百使四方不能専対と有之候。是詩専言語の教にて御座候。洞に人性に通達する事、詩経の教にて人性に通達不申候へば、物申事は成不申物に候。宋儒は理非邪正の見にからめられ被居候故、論語聖言に詩経の事有之候には従不被申、是非邪正の見より見候故、勧懲の為と見被申候事に候。是等の所、詩経御覧被成候大段の意得に候故申進候。詩経の詩も、後世の詩も全く替目無之候。詩経は只詩と御覧被成候が能御座候。

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