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匡正論 / 唐めかす風と詩教の本意

何も角も唐めかしたる事を好み、總てわびもの好みを高雅風流の事と思ふ類今世の弊風なり、且少し學文あると通用書牘にも處々華語を交じへ、平生談話にも公等足下など云樣の事を雅なりとするも可笑、其牘を讀むに正文にも非ず俗文にも非ず、譬へば廊上下に冠を戴くが如し、平生の詞に公等御出なされたかなど云は、吾國の人とも云れぬ也、夫より下りては俳優好女の輩色々唐士めける事をなせば、皆人其文雅の行わたりたるとて珍重せる樣になりたり、輕薄の至りと知可し、扨今の詩は猶古の詩の如し、其躰裁は異なれども其情景を其儘詠ずるは何ぞ異ならん、喜怒哀樂遇不遇去就出處よろづの事に付心に成ずる事あれば是を詩に發する人情也、故に聖人詩敎を立て人をして溫柔敦厚の德を成さしめ玉ふ也、古君子の德を養ふ詩より始る、故に詩敎の第一に是を立たり、君子の德を養ふ事皆國家安治に關からざるはなき也、然るに後の詩を學ぶ者動もすれば游民素餐の徒となる事あらんとは聖人も前知し給はざる所ならん、苟くも聖人の書端をも窺見は如何ぞや、故に今の人詩を學はいかにも盛唐の格詞を師として、其人物行事は必しも師とせずして作らる可き事也、去れば唐の魏徵などは其人物格別にして其詩も又實情雅順也、如此の類いくらも有べき也、然るに後の詩人の君子ならざる故に其害甚しきに至る也、吾朝の歌も全く詩と同敎なる事は見えたり、殊にすぐれて吾朝古より歌の德を以て盛なりとする、誰も知る所也、然るに吾國歌傳をば殊に秘し玉ふと聞なれば、其敎の至意は是を知る事に非ず、

新字:何も角も唐めかしたる事を好み、総てわびもの好みを高雅風流の事と思ふ類今世の弊風なり、且少し学文あると通用書牘にも処々華語を交じへ、平生談話にも公等足下など云様の事を雅なりとするも可笑、其牘を読むに正文にも非ず俗文にも非ず、譬へば廊上下に冠を戴くが如し、平生の詞に公等御出なされたかなど云は、吾国の人とも云れぬ也、夫より下りては俳優好女の輩色々唐士めける事をなせば、皆人其文雅の行わたりたるとて珍重せる様になりたり、軽薄の至りと知可し、扨今の詩は猶古の詩の如し、其体裁は異なれども其情景を其儘詠ずるは何ぞ異ならん、喜怒哀楽遇不遇去就出処よろづの事に付心に成ずる事あれば是を詩に発する人情也、故に聖人詩教を立て人をして温柔敦厚の徳を成さしめ玉ふ也、古君子の徳を養ふ詩より始る、故に詩教の第一に是を立たり、君子の徳を養ふ事皆国家安治に関からざるはなき也、然るに後の詩を学ぶ者動もすれば游民素餐の徒となる事あらんとは聖人も前知し給はざる所ならん、苟くも聖人の書端をも窺見は如何ぞや、故に今の人詩を学はいかにも盛唐の格詞を師として、其人物行事は必しも師とせずして作らる可き事也、去れば唐の魏徴などは其人物格別にして其詩も又実情雅順也、如此の類いくらも有べき也、然るに後の詩人の君子ならざる故に其害甚しきに至る也、吾朝の歌も全く詩と同教なる事は見えたり、殊にすぐれて吾朝古より歌の徳を以て盛なりとする、誰も知る所也、然るに吾国歌伝をば殊に秘し玉ふと聞なれば、其教の至意は是を知る事に非ず、

書き下し

何も角も唐めかしたる事を好み、總てわびもの好みを高雅風流の事と思ふ類今世の弊風なり、且少し學文あると通用書牘にも處々華語を交じへ、平生談話にも公等足下など云樣の事を雅なりとするも可笑、其牘を讀むに正文にも非ず俗文にも非ず、譬へば廊上下に冠を戴くが如し、平生の詞に公等御出なされたかなど云は、吾國の人とも云れぬ也、夫より下りては俳優好女の輩色々唐士めける事をなせば、皆人其文雅の行わたりたるとて珍重せる樣になりたり、輕薄の至りと知可し、扨今の詩は猶古の詩の如し、其躰裁は異なれども其情景を其儘詠ずるは何ぞ異ならん、喜怒哀樂遇不遇去就出處よろづの事に付心に成ずる事あれば是を詩に發する人情也、故に聖人詩敎を立て人をして溫柔敦厚の德を成さしめ玉ふ也、古君子の德を養ふ詩より始る、故に詩敎の第一に是を立たり、君子の德を養ふ事皆國家安治に關からざるはなき也、然るに後の詩を學ぶ者動もすれば游民素餐の徒となる事あらんとは聖人も前知し給はざる所ならん、苟くも聖人の書端をも窺見は如何ぞや、故に今の人詩を學はいかにも盛唐の格詞を師として、其人物行事は必しも師とせずして作らる可き事也、去れば唐の魏徵などは其人物格別にして其詩も又實情雅順也、如此の類いくらも有べき也、然るに後の詩人の君子ならざる故に其害甚しきに至る也、吾朝の歌も全く詩と同敎なる事は見えたり、殊にすぐれて吾朝古より歌の德を以て盛なりとする、誰も知る所也、然るに吾國歌傳をば殊に秘し玉ふと聞なれば、其敎の至意は是を知る事に非ず、

現代語訳

何もかも唐めかしたことを好み、すべてわび物好みを高雅風流のことと思う類は今の世の弊風です。また少し学問があると通用の書牘にも処々に華語を交え、平生の談話にも「公等」「足下」などと言うことを雅とするのもおかしいことです。その書牘を読むと正文でも俗文でもなく、たとえば廊下の上下に冠をかぶるようなものです。平生の言葉に「公等お出でなされたか」などと言うのは、わが国の人とも言えません。それより下って俳優・好女の輩が様々に唐士めいたことをすると、みなその文雅が行き渡ったとして珍重するようになったのは、軽薄の至りと知るべきです。さて今の詩はなお古の詩のようです。その体裁は異なっても、その情景をそのまま詠じるのは何が異なりましょう。喜怒哀楽・遇不遇・去就出処、よろずのことについて心に感じることがあればこれを詩に発するのが人情です。ですから聖人は詩教を立てて人に温柔敦厚の徳を成させられたのです。古の君子の徳を養うのは詩から始まるので、詩教の第一にこれを立てたのです。君子の徳を養うことは、みな国家の安治に関わらないものはありません。それなのに後の詩を学ぶ者がともすれば遊民素餐の徒となることがあろうとは、聖人も前もって知られなかったことでしょう。いやしくも聖人の書の端でもうかがい見ればどうしてそうなるでしょうか。ですから今の人が詩を学ぶには、いかにも盛唐の格調を師として、その人物の行事は必ずしも師とせずに作るべきです。そこで唐の魏徴などはその人物が格別で、その詩もまた実情が雅で順当です。このような類はいくらもあるはずです。ところが後の詩人が君子でないので、その害は甚だしいのです。わが朝の歌も全く詩と同じ教えであることは明らかです。ことにわが朝は古来歌の徳で盛んであったことは誰もが知るところです。ところがわが国の歌の伝えをことに秘しておられると聞くので、その教えの至意はこれを知ることではありません。

解説

何でも外国風にして雅と思う軽薄を戒め、詩の本来の役割は温柔敦厚の徳を養い、国家の安治につながることだと述べる章句です。詩を学ぶなら格調を師としつつ、人物や行いまで真似しないよう注意を促します。現代の管理職にも、流行の用語や海外の手法を表面だけ取り入れる傾向があります。本来の目的を押さえたうえで必要な部分だけ取り入れる態度が、見かけ倒しを避ける助けになります。

この章句が説くこと

『匡正論』本多忠籌詩教唐めかす魏徴和歌

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