君子訓 / 巻之中
一君たる人、我は諫を好めども、人我を諫めずといふは僻事なり。譬へば酒食は人の好むものなり。故に辭すれども人必しひて侑む。然れば忠言の出でざるは、聽く事を好まざればなり。一管仲曰、明君は我が智を用ひずして衆人の智に任す。我が力を用ひずして諸人の力を用ふ。衆人の智を用ひて思慮すれば、明かにして知らざる所なし。諸人の力を用ふれば、成就せざる事なし。人の目は天際の遠き所を見れども、我が背を見る事能はず。心も亦然り。いかに聰明の人も、我が過失を知る事は明かならず。故に人の諫と世の謗を聞きて、我が過を改むべし。昔堯の時、進善の旗あり、善事を君に奏せんと思ふ者は其下に立つ。又誹謗の木あり。大なる木を削り、都門の外に建て置き、何者にても政の誤を思ひ寄たるまゝに書かしめて、善言あれば取りて用ひ給ふ。
新字:一君たる人、我は諫を好めども、人我を諫めずといふは僻事なり。譬へば酒食は人の好むものなり。故に辞すれども人必しひて侑む。然れば忠言の出でざるは、聴く事を好まざればなり。一管仲曰、明君は我が智を用ひずして衆人の智に任す。我が力を用ひずして諸人の力を用ふ。衆人の智を用ひて思慮すれば、明かにして知らざる所なし。諸人の力を用ふれば、成就せざる事なし。人の目は天際の遠き所を見れども、我が背を見る事能はず。心も亦然り。いかに聰明の人も、我が過失を知る事は明かならず。故に人の諫と世の謗を聞きて、我が過を改むべし。昔堯の時、進善の旗あり、善事を君に奏せんと思ふ者は其下に立つ。又誹謗の木あり。大なる木を削り、都門の外に建て置き、何者にても政の誤を思ひ寄たるまゝに書かしめて、善言あれば取りて用ひ給ふ。
書き下し
一君たる人、我は諫を好めども、人我を諫めずといふは僻事なり。譬へば酒食は人の好むものなり。故に辞すれども人必しひて侑む。然れば忠言の出でざるは、聴く事を好まざればなり。一管仲曰、明君は我が智を用ひずして衆人の智に任す。我が力を用ひずして諸人の力を用ふ。衆人の智を用ひて思慮すれば、明かにして知らざる所なし。諸人の力を用ふれば、成就せざる事なし。人の目は天際の遠き所を見れども、我が背を見る事能はず。心も亦然り。いかに聰明の人も、我が過失を知る事は明かならず。故に人の諫と世の謗を聞きて、我が過を改むべし。昔堯の時、進善の旗あり、善事を君に奏せんと思ふ者は其下に立つ。又誹謗の木あり。大なる木を削り、都門の外に建て置き、何者にても政の誤を思ひ寄たるままに書かしめて、善言あれば取りて用ひ給ふ。
現代語訳
君たる人が「私は諫めを好むのに、人が私を諫めない」と言うのは間違いです。たとえば酒や食べ物は人の好むものです。だから辞退しても人は必ず強いて勧めます。そうであれば、忠言が出てこないのは、聴くことを好まないからです。管仲は言いました。「明君は自分の知恵を用いずに多くの人の知恵に任せる。自分の力を用いずに多くの人の力を用いる」と。多くの人の知恵を用いて思慮すれば、明らかで知らないところはありません。多くの人の力を用いれば、成就しないことはありません。人の目は天の果ての遠い所を見ることができても、自分の背中を見ることはできません。心もまた同じです。どんなに聡明な人でも、自分の過失を知ることは明らかではありません。ですから人の諫めと世のそしりを聞いて、自分の過ちを改めるべきです。昔、堯の時代には進善の旗があり、善いことを君に申し上げようと思う者はその下に立ちました。また誹謗の木がありました。大きな木を削って都の門の外に建てておき、誰であっても政治の誤りを思いついたままに書かせて、善い言葉があれば取り上げて用いられました。
解説
この章句が説くこと
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