甲陽軍鑑 / 品第十四
敵奥深く存知候は偏に信玄公未來迄も手抦をなさるゝ心也信長家には此長篠合戰を、信玄公に勝たるとて、塚をつきて信玄墳と名付る事是西國へおほへの爲なり又小身に去ても家康は誠多强みを心懸全き弓取なれば、三河にては信玄に勝たるとさのみいはず、惣別信長家にはあたら弓取の空言をほし、子細は義元に勝たる時も今川の人衆六萬にかちたるといふ、抑も末代にも分別し給へ、三河·遠州·駿河三ヶ國にて何として人衆六萬あるべき、しかも小國なれば大積にもきう〳〵二萬四千の人數なるを、ありやうに申せば猶以て手からなれ共、いらざるうそにて義元合戰などの、ためしまれなる本ンの手抦迄淺く存るなり、
新字:敵奥深く存知候は偏に信玄公未来迄も手抦をなさるゝ心也信長家には此長篠合戦を、信玄公に勝たるとて、塚をつきて信玄墳と名付る事是西国へおほへの為なり又小身に去ても家康は誠多強みを心懸全き弓取なれば、三河にては信玄に勝たるとさのみいはず、惣別信長家にはあたら弓取の空言をほし、子細は義元に勝たる時も今川の人衆六万にかちたるといふ、抑も末代にも分別し給へ、三河·遠州·駿河三ヶ国にて何として人衆六万あるべき、しかも小国なれば大積にもきう〳〵二万四千の人数なるを、ありやうに申せば猶以て手からなれ共、いらざるうそにて義元合戦などの、ためしまれなる本ンの手抦迄浅く存るなり、
書き下し
敵奥深く存知候は偏に信玄公未来迄も手抦をなさるゝ心也信長家には此長篠合戦を、信玄公に勝たるとて、塚をつきて信玄墳と名付る事是西国へおほへの為なり又小身に去ても家康は誠多强みを心懸全き弓取なれば、三河にては信玄に勝たるとさのみいはず、惣別信長家にはあたら弓取の空言をほし、子細は義元に勝たる時も今川の人衆六万にかちたるといふ、抑も末代にも分別し給へ、三河·遠州·駿河三ヶ国にて何として人衆六万あるべき、しかも小国なれば大積にもきう〳〵二万四千の人数なるを、ありやうに申せば猶以て手からなれ共、いらざるうそにて義元合戦などの、ためしまれなる本ンの手抦迄浅く存るなり、
現代語訳
敵が奥深く思ったのは、ひとえに信玄公が未来までも手柄をなさる心である。信長家ではこの長篠合戦を信玄公に勝ったとして、塚を築いて信玄墳と名付けたこと、これは西国への聞こえのためである。また小身であっても家康はまことに強みを心がける全き弓取であるから、三河では信玄に勝ったとあまり言わない。総じて信長家には、惜しい弓取であるのに空言がある。そのわけは、義元に勝った時も今川の人数六万に勝ったと言う。そもそも末代にも分別なされよ。三河・遠州・駿河の三か国で、どうして人数が六万あろうか。しかも小国なので大積もりでもせいぜい二万四千の人数であるのを、ありのままに言えばなおさら手柄であるのに、要らぬ嘘で義元合戦などの例の稀な本当の手柄まで浅く思われるのである。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四右信玄墳の事、信長·家康ほどの弓取り達が両大将よりあふて、三年さきに死去ある信玄にかちたるといふて、西国へひどかするは大国までもかくれなき信玄の御威光つよし、抑信玄公の他界ましますは天正元年癸酉四月十二日、則ち都妙心寺に石塔あり、長篠合戦は天正三年乙亥五月廿一日なり、是れほど大に違たるを信玄公にかてば、おぼへの信長公跡の武功より長篠合戦杏々うへと思はるゝは、偏へに信玄公の武勇誉れ計りにてもなく、万事に調たる名大将の故なるに、
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『甲陽軍鑑』品第十四さて長篠にて柵の木もうち合ての儀は、勝頼若く候とも、小勢成りとも信長公老功にて大軍なれ共今戦ちとしにくうして、首をふり給へは馬入ると有るはかざり詞かとみへ候、長篠へ信長首途の発句は一本たかく松風に多気たくひなきあしたかなといふ百韻の内に、山県を始め各武田の家の家老をこと〳〵くいれ、武田調伏の連歌を仕たりと聞ゆ、おぼへの信長わかき勝頼のしかも小人衆なるに、是れほど大事にいたすは、是れたゞ信玄公の名高き故なり、
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『甲陽軍鑑』品第十四さて此度長篠にて信長の人衆九万二千五百といへ共、堅く七万あまり有るべし、子細は遠き国の衆は役義をへらすをもつて如此、扨みかたは遠州家康と分持ちなれば、此人衆動かず、駿河は信玄公御他界より三年已来、北条氏政表裏の様にて此用心に駿河勢働かず、上野衆も武蔵氏政のもち成る故、跡は人衆を残し置く、三河·美濃·飛弾·越中、勿論境目なれば、加勢をこそ尤なれ共、さなくては此人衆よぶに不及、信州勢は越後の謙信公大强敵の老功にて、殊に此比は加賀·越中かげて六ケ国に及び手に入り給へば、此おさへに壱万三千の人数を置き給ふ事、信玄公の時より備へ定め如此、各甲州勢の多きは越後のおさへいらざる故なり、
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『甲陽軍鑑』品第十四又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと、强敵にあふて智略賢き誉なるを、武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虚言なり、長篠合戦馬塲を十騎と並べて乗所にてなし、殊に信玄公の御時四年以前に、元亀三年壬申極月二十二日に、遠州みかたが原にて敵の大将家康三十一歳の時、信長衆も佐久間右衛門·平手·林·水野を始各来て此合戦にあふ、味方が原足がゝりなけれども、是にさへ馬をいれず候、それは敵にても家康衆よく存ずべし、尾州にても平手討死なれば、此衆は定めてしり候はん、馬をならべて入事あるは、先無案内なる批判なり、家康かた九手に余そなへて、平手ともに十手なるが家康のうち、酒井左衛門丞の手に鎗あはずしてくづるゝ、其夜は九手ながらにて鑓のあふに、馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉、是れもつて武家に未聞の取りさたなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十七信玄公つね〳〵仰られしは、信長あらきなる行義いたすはみな虚言也、我等と輝虎なくは定めて真に物を執行申さるべく候と、いつも仰られしごとく、今度長篠にての様子我等不参候へ共、皆語るを承はれば、前に子息の域介信忠のうはさ申されしごとくに少しもかわらず、海道一番の家康当年三十四歳、日本に名高き信長当年四十二歳、いづれも武道·分別ともに盛なり、子息城介信忠と三大将、しかも人数十万ばかりの大勢なり、又こなたは勝頼公一大将にて、いはんや御年三十歳ことに敵に対せば五分一の人数なり、旁以て信長無理をはたらかるべき所に、節所をかまへ、剰へ柵の木を三重までつけ、大事にいたさるゝ事は手の外にて候、
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『甲陽軍鑑』品第十四其謂は今度長篠にて分別違ひ、去年戌の極月備定めの談合を破り、待て勝つ敵に此方より競ひかゝりて、合戦の儀さたの外也、子細は敵の大将强みも分別も四十二歳なれば、年孰れもさかりの信長父子三人、海道一番の家康卅四歳なれば是も分別巳の時也、しかも嫡子の三郎当十七歳なれ共、三十の男より打あがりたる健者にて、結句家康にもひだちをうたんとかゝるじやれ者と、
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