甲陽軍鑑 / 品第十四
次に馬塲美濃申すはさらば長篠の城を、がぜめにあそばし候はど、みかた手負い死人ともに千とつもりて候、子細は此長篠の城におほうして鐵炮五百挺あらん、然れは一時つめには始めの鐵炮にて五百討死、二番目にては、あはてうちなるべし是れは手負い五百、さてこそ手負い死人ともに千とは申せども、其內又手負い死人少々はすくなき事も御座有るべし、それをしほに御馬を入〓られ尤と申す、又長坂長閑申すは、みかた一騎うたるれば、かたき千ぎのつよりと承はるに、此大敵を引請け、みかた千の失墜はいかどと申せば、是れも勝賴公長坂長閑儀を尤もと思し食し、
新字:次に馬塲美濃申すはさらば長篠の城を、がぜめにあそばし候はど、みかた手負い死人ともに千とつもりて候、子細は此長篠の城におほうして鉄炮五百挺あらん、然れは一時つめには始めの鉄炮にて五百討死、二番目にては、あはてうちなるべし是れは手負い五百、さてこそ手負い死人ともに千とは申せども、其内又手負い死人少々はすくなき事も御座有るべし、それをしほに御馬を入〓られ尤と申す、又長坂長閑申すは、みかた一騎うたるれば、かたき千ぎのつよりと承はるに、此大敵を引請け、みかた千の失墜はいかどと申せば、是れも勝頼公長坂長閑儀を尤もと思し食し、
書き下し
次に馬塲美濃申すはさらば長篠の城を、がぜめにあそばし候はど、みかた手負い死人ともに千とつもりて候、子細は此長篠の城におほうして鉄炮五百挺あらん、然れは一時つめには始めの鉄炮にて五百討死、二番目にては、あはてうちなるべし是れは手負い五百、さてこそ手負い死人ともに千とは申せども、其内又手負い死人少々はすくなき事も御座有るべし、それをしほに御馬を入〓られ尤と申す、又長坂長閑申すは、みかた一騎うたるれば、かたき千ぎのつよりと承はるに、此大敵を引請け、みかた千の失墜はいかどと申せば、是れも勝頼公長坂長閑儀を尤もと思し食し、
現代語訳
次に馬場美濃が申すには、それならば長篠の城を力攻めになされば、味方の手負い・死人は合わせて千と見積もります。そのわけは、この長篠の城に多くて鉄炮が五百挺あるでしょう。そうであれば一時に詰め寄せれば、初めの鉄炮で五百が討死し、二番目は慌て撃ちになるでしょうから、これは手負い五百、それで手負い・死人合わせて千と申すのですが、そのうちまた手負い・死人が少々少ないこともございましょう。それを潮に御馬を入れられるのがもっともです、と申す。また長坂長閑が申すには、味方一騎討たれれば敵千騎の強りと承っているのに、この大敵を引き受けて味方千の失墜はいかがか、と申すと、これも勝頼公は長坂長閑の儀をもっともと思し召した。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四さて此度長篠にて信長の人衆九万二千五百といへ共、堅く七万あまり有るべし、子細は遠き国の衆は役義をへらすをもつて如此、扨みかたは遠州家康と分持ちなれば、此人衆動かず、駿河は信玄公御他界より三年已来、北条氏政表裏の様にて此用心に駿河勢働かず、上野衆も武蔵氏政のもち成る故、跡は人衆を残し置く、三河·美濃·飛弾·越中、勿論境目なれば、加勢をこそ尤なれ共、さなくては此人衆よぶに不及、信州勢は越後の謙信公大强敵の老功にて、殊に此比は加賀·越中かげて六ケ国に及び手に入り給へば、此おさへに壱万三千の人数を置き給ふ事、信玄公の時より備へ定め如此、各甲州勢の多きは越後のおさへいらざる故なり、
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『甲陽軍鑑』品第十四家康も父子二人合せて五大将が十四ケ国半の勢なり、但三ケ国は各境目のをさへに置べし、是は中国毛利家のをさへ斗り、越前は七年以前永禄十二巳年六月廿八日に信長·家康両人にしまけ候へは、是もつて我身の用心にて信長の国を望にあらず、おさへ四千斗りにて然るべし、伊賀の国其外に一万、中国に一万合て二万四千、但三ケ国の人衆大つもり如此、残りて家康国をそへて十一ケ国半なり、大国中州をゆり合、一国に八千づゝの大づもりにすれば、かたく九万二千五百也、
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『甲陽軍鑑』品第十四さありて此度長篠にて勝頼公の人数甲州衆うへの原に加藤丹後を残し置き、其余は一円に立て是八千なり、上野衆四千信濃より六千合せて一万八千の内、鳶が巣に千又長篠城奥平押へに千おきて、残る一万六千をもつて七万あまりの人数の節所を三ツまで搆へ、柵の木を三重にふりて待ちかまへてゐる所へ、面もふらずかゝるは、敵四人こなた一人のつもりなれ共、節所と柵の木とを考れば是又敵に十万の加勢なり、縦へば十七万の人数の籠りたる城を一万六千にて責めたるごとくなり、信玄公つねの智略にも千籠りたる城をば、二四の人数にてせめんと定め給ふ、五千にてはことあやうしと有り、
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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史記 刺客列伝其の後秦日に兵を山東に出だして以て斉・楚・三晋を伐ち、稍く諸侯を蚕食し、且に燕に至らんとす。燕の君臣皆禍の至らんことを恐る。太子丹之を患ひ、其の傅鞠武に問ふ。武対へて曰く、「秦の地は天下に遍く、韓・魏・趙氏を威脅す。北に甘泉・谷口の固め有り、南に涇・渭の沃有り、巴・漢の饒を擅にし、隴・蜀の山を右にし、関・殽の険を左にす。民衆くして士厲しく、兵革余り有り。意出だす所有らば、則ち長城の南、易水以北、未だ定まる所有らず。柰何ぞ陵がるるの怨みを以て、其の逆鱗を批かんと欲するや」と。丹曰く、「然らば則ち何に由らん」と。対へて曰く、「請ふ入りて之を図らん」と。居ること閒有りて、秦将樊於期罪を秦王に得て、亡げて燕に之く。太子受けて之を舎す。鞠武諫めて曰く、「不可なり。夫れ秦王の暴を以て怒りを燕に積む、寒心するに足る。又況んや樊将軍の在る所を聞くをや。是れ『肉を委ねて餓虎の蹊に当つ』と謂ふなり。禍必ず振はざらん。管・晏有りと雖も、之が為に謀る能はざるなり。願はくは太子疾く樊将軍を遣りて匈奴に入れ以て口を滅せよ。請ふ西のかた三晋と約し、南のかた斉・楚と連なり、北のかた単于に購はん。其の後乃ち図るべきなり」と。太子曰く、「太傅の計は、日を曠しくし弥々久し。心惛然として、恐らくは須臾する能はず。且つ独り此のみに非ざるなり。夫れ樊将軍は天下に窮困し、身を丹に帰す。丹終に彊秦に迫らるるを以て哀憐する所の交はりを棄て、之を匈奴に置かず。是れ固より丹の命卒るの時なり。願はくは太傅更に之を慮れ」と。鞠武曰く、「夫れ危ふきを行ひて安きを求め、禍を造りて福を求め、計浅くして怨み深く、一人の後交を連結して、国家の大害を顧みず、此れ所謂『怨みに資して禍を助く』なり。夫れ鴻毛を以て炉炭の上に燎く、必ず事無からん。且つ鵰鷙の秦を以て、怨暴の怒りを行ふ、豈に道ふに足らんや。
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『甲陽軍鑑』品第十四長坂長閑·跡部大炊介殿就中右申す、長篠合戦に、馬塲美濃守·山県三郎兵衛·内藤修理正三人三ヶ条の諫を申たると、阿部加賀守がかたり候大敵にあふては、隠れ遊をなさるゝ物と聞及び申候間、先づ甲州へ馬を入給ひ、信長·家康きほひかゝつて跡をしたひ申さば、信濃の内迄入ルたて、一合戦被成ば、そこにては敵大軍なり共、勝頼公の御勝ならんと申すに、長坂長閑申すは、新羅三郎公より武田始りて信玄公迄廿七代の間、敵を見て引き籠り給ふことなきに、廿八代目勝頼公の御代にけんをまはし給はんこといかどと申すに付き、勝頼公其儀に任せ引入給はず、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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