甲陽軍鑑 / 品第十三
某關東の侍たちに馬の目利をとふたれば東西にて母に離れぬも、よき馬になる離なれて草を食は、なを能キ馬に成ル、つきつ離れつする馬は後、夫馬に成てもおもき荷持事ならず、遠き路もならず、やす馬と是をいふ、如レ此畜生さへ機の展轉するはあしきに、いはんや日本六十余州において西國に大内殿、關東に上杉殿とて、都を持つ人よりは人數持の大身が、よき家老のよき諫を聞しらでしかも我に忠節したる本間江州·井又左近を、すがの·上原兩人に讒言せられて始め譽たる口を引かへ、又あしう仰らるゝはたゝ二ツ三ツの童のごとし、
新字:某関東の侍たちに馬の目利をとふたれば東西にて母に離れぬも、よき馬になる離なれて草を食は、なを能キ馬に成ル、つきつ離れつする馬は後、夫馬に成てもおもき荷持事ならず、遠き路もならず、やす馬と是をいふ、如レ此畜生さへ機の展転するはあしきに、いはんや日本六十余州において西国に大内殿、関東に上杉殿とて、都を持つ人よりは人数持の大身が、よき家老のよき諫を聞しらでしかも我に忠節したる本間江州·井又左近を、すがの·上原両人に讒言せられて始め誉たる口を引かへ、又あしう仰らるゝはたゝ二ツ三ツの童のごとし、
書き下し
某関東の侍たちに馬の目利をとふたれば東西にて母に離れぬも、よき馬になる離なれて草を食は、なを能キ馬に成ル、つきつ離れつする馬は後、夫馬に成てもおもき荷持事ならず、遠き路もならず、やす馬と是をいふ、如レ此畜生さへ機の展転するはあしきに、いはんや日本六十余州において西国に大内殿、関東に上杉殿とて、都を持つ人よりは人数持の大身が、よき家老のよき諫を聞しらでしかも我に忠節したる本間江州·井又左近を、すがの·上原両人に讒言せられて始め誉たる口を引かへ、又あしう仰らるゝはたゝ二ツ三ツの童のごとし、
現代語訳
それがしが関東の侍たちに馬の目利きを問うたところ、東西で、母馬に離れないのもよい馬になる、離れて草を食うのはなおよい馬になる、つきつ離れつする馬は後に駄馬になっても重い荷を持つことができず、遠い道も行けない、安馬とこれを言う、と。このように畜生でさえ気の変転するのは悪いのに、まして日本六十余州において西国に大内殿、関東に上杉殿といって、都を持つ人よりも人数を持つ大身が、よい家老のよい諫めを聞き知らず、しかも自分に忠節した本間江州・井又左近を、すがの・上原の両人に讒言されて、はじめ褒めた口を引き替え、また悪く仰せられるのは、ただ二つ三つの童のようである。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十三爰に長尾いげん入道とて上杉家の功者にて、北条家のこと則政公へ度々諫を申し、則政公合点ありて又崇敬有る、すがの·上原に相尋ね給へば、上原兵庫·すがの大膳両人申上るいげん入道さすがの者にて候へ共、老耄仕り功者も跡になる分別にて候、子細は北条小敵にて候へば誅罰せんこと何時にも罷成べし、夫は余り安きことな親しまれり、さるに付てはたゞ御手前の大身衆によくしみられ給ふやう成を我々は肝要に分別仕り候、
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史記 李斯列伝丞相の長男李由は三川の守為り。楚の盗陳勝等は皆丞相の傍県の子なり。故を以て楚の盗公行し、三川を過ぐるも、城守りて撃つを肯ぜず。高聞く、其の文書相往来すと。未だ其の審らかなるを得ず。故に未だ敢て以て聞せず。且つ丞相は外に居りて、権は陛下より重し」と。二世以て然りと為す。丞相を案ぜんと欲するも、其の審らかならざるを恐れ、乃ち人をして三川の守の盗と通ずる状を案験せしむ。李斯之を聞く。是の時二世甘泉に在り、方に觳抵優俳の観を作す。李斯見ゆるを得ず、因りて書を上りて趙高の短を言ひて曰く、「臣之を聞く、臣其の君を疑へば、国を危ふくせざる無し。妾其の夫を疑へば、家を危ふくせざる無しと。今大臣有りて陛下に於て利を擅にし害を擅にし、陛下と異なる無し。此れ甚だ便ならず。昔者司城子罕宋に相たり、身づから刑罰を行ひ、威を以て之を行ふ。朞年にして遂に其の君を劫かす。田常は簡公の臣と為り、爵列国に敵無く、私家の富は公家と均し。恵を布き徳を施し、下は百姓を得、上は群臣を得、陰かに斉国を取り、宰予を庭に殺し、即ち簡公を朝に弑し、遂に斉国を有つ。此れ天下の明らかに知る所なり。今高は邪佚の志、危反の行ひ有ること、子罕の宋に相たるが如きなり。私家の富は、田氏の斉に於けるが若きなり。田常・子罕の逆道を兼ね行ひて陛下の威信を劫かす。其の志は韓玘の韓安の相と為るが若きなり。陛下図らずんば、臣其の変を為さんことを恐る」と。二世曰く、「何ぞや。夫れ高は、故の宦人なり。然れども安きを為して志を肆にせず、危ふきを以て心を易へず、行ひを潔くし善を修め、自ら此に至らしむ。忠を以て進むを得、信を以て位を守る。朕実に之を賢とす。而るに君之を疑ふは、何ぞや。且つ朕少くして先人を失ひ、識知する所無く、民を治むるに習はず。而して君又老い、恐らくは天下と絶えん。朕趙君に属せずんば、当に誰にか任ずべき。
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『春秋左氏伝』昭公二十七年 知者は讒を除きて自ら安んず仁者は人を殺して以って謗りを掩ふすら、猶ほ為さざるなり。今吾子人を殺して以って謗りを興して、圖らず、亦た異ならずや。夫れ無極は楚の讒人なり。民知らざる莫し。朝吳を去り、蔡侯朱を出だし、太子建を喪ひ、連尹奢を殺し、王の耳目を屏(おほ)ひて、聰明ならざらしむ。然らずんば、平王の溫惠共儉、成・莊に過ぐる有りて、及ばざる無し。諸侯を獲ざりし所以は、邇(ちか)づくるに無極を以ってすればなり。今又三不辜を殺して、以って大謗を興し、幾ど子に及ばんとす。子にして圖らずんば、將た焉んぞ之を用ゐん。夫れ鄢將師、子の命を矯りて、以って三族を滅ぼす。國の良なり、而して位に愆(あやま)たず。吳新たに君有り、疆埸(きゃうえき)日に駭く。楚國若し大事有らば、子其れ危ふからん。知者は讒を除きて以って自ら安んず。今子は讒を愛して以って自ら危ふくす。甚だしいかな其の惑へるや」と。子常曰く、「是れ瓦の罪なり。敢へて良く圖らざらんや」と。
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史記 滑稽列伝左右の群臣の事に習ひ経術に通ずる者に問ふも、能く知る莫し。詔して東方朔をして之を視しむ。朔曰く、「臣之を知る。願はくは美酒粱飯を賜ひて大いに臣に飱せしめよ。臣乃ち言はん」と。詔して曰く、「可なり」と。已にして又曰く、「某所に公田・魚池・蒲葦数頃有り。陛下以て臣に賜はば、臣朔乃ち言はん」と。詔して曰く、「可なり」と。是に於いて朔乃ち肯へて言ひて曰く、「所謂騶牙なる者なり。遠方当に来たりて義に帰すべくして、騶牙先づ見る。其の歯は前後一の若く、斉等にして牙無し。故に之を騶牙と謂ふ」と。其の後一歳所にして、匈奴の混邪王果たして十万の衆を将ゐて来たりて漢に降る。乃ち復た東方生に銭財を賜ふこと甚だ多し。老に至り、朔且に死せんとする時、諫めて曰く、「詩に云ふ、『営営たる青蠅、蕃に止まる。愷悌の君子、讒言を信ずる無かれ。讒言極まり罔く、交々四国を乱す』と。願はくは陛下巧佞を遠ざけ、讒言を退けよ」と。帝曰く、「今顧みるに東方朔多く善言するか」と。之を怪しむ。居ること幾何も無く、朔果たして病みて死す。伝に曰く、「鳥の将に死なんとするや、其の鳴くや哀し。人の将に死なんとするや、其の言ふや善し」と。此の謂ひなり。武帝の時、大将軍衛青なる者は衛后の兄なり。封ぜられて長平侯と為る。軍に従ひて匈奴を撃ち、余吾水の上に至りて還る。斬首捕虜し、功有りて来たり帰る。詔して金千斤を賜ふ。将軍宮門を出づるに、斉人東郭先生、方士を以て公車に待詔し、道に当たりて衛将軍の車を遮り、拝謁して曰く、「願はくは事を白さん」と。将軍車を前に止む。東郭先生、車に旁(そ)ひて言ひて曰く、「王夫人新たに上に幸を得たるも、家貧し。今将軍金千斤を得たり。誠に其の半ばを以て王夫人の親に賜はば、人主之を聞きて必ず喜ばん。此れ所謂奇策便計なり」と。衛将軍之に謝して曰く、「先生幸ひに之に告ぐるに便計を以てす。請ふ、教へを奉ぜん」と。是に於いて衛将軍乃ち五百金を以て王夫人の親の寿と為す。王夫人以て武帝に聞す。帝曰く、「大将軍は此を為すを知らず」と。
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『甲陽軍鑑』品第十三何様の者をも御扶持尤もの事一本間·井又七年御意にそむき罷り有り候者を、当年よりはや御懇に候へは、上杉家に人なきやうにて候間、十年とは存ずれども、せめて七八年も遠々しく被成尤の事、付扇谷と御無事にて御損多く候事と書き付て、すがの·上原両人にて直に則政公へ上る則政公披見有り、北条家をいやしむ儀、其外なにもかも機に入りて長尾いげん入道をはじめ四五人のこと、少しも則政〓着なし、
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『甲陽軍鑑』品第十三其きほひをもつて氏縄手に沼いれたる富士川の北悉く信虎に取らるゝ、此時かうこく寺の城主青池飛弾、人より先に信虎被官になるに付きて日浄青池むすこ与十郎と申す者を、信虎家中足軽大将の小幡入道にちぢやうと申す侍のむこに、信虎下知をもつて仕六合るた唯今は、駿河今川義元信虎婿になる故、息女の仮粧田として信虎より今川殿へわたす、これとても父宗雲が今川のかげをもつて小田原迄も発向する其恩を子息氏縄が代に成つて、忘て替り目を見合て今川の持を取つれ共氏縄義理違ひ申に付ておもしろふまはり、此所今川へ帰るは天道より北条家をにくむにて候、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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