甲陽軍鑑 / 品第十三
就中上杉家の重疊して今より後ちは、家の能き作法を一代に五ヶ條·十ヶ條づゝ取り失ひ、上杉家此指し次ぎに全く皆取り失ふべし、我相摸へ發向の時は今の山内廿二歲なれば、わかげにて兩上杉と地取り合を始むる其時刻を見合せて、某小田原へ立入り、のつ取り其後數年彼の家を勘即みるに次第〳〵にさほう衰ろへ行く、作法衰ろゆるとてもあの樣なる大家の則時には破れぬものなり、小き家はけがあれば其まゝ破るゝぞ、縱へを取りて申すに癰疔と云ふ腫物は廿年も催さねば出ぬ者なり、さるに付き人間の四十をこさねばやまぬ腫物と是れを云ふ、左樣に催ほす故、破れてよりは癒かぬるぞ、たゝ其ごとく上杉家よき作法衰へ、催しきはまりて後、家破るゝこと大方某三代目と考へ候、殊に以て兩上杉なかさへあしくば、
新字:就中上杉家の重畳して今より後ちは、家の能き作法を一代に五ヶ条·十ヶ条づゝ取り失ひ、上杉家此指し次ぎに全く皆取り失ふべし、我相摸へ発向の時は今の山内廿二歳なれば、わかげにて両上杉と地取り合を始むる其時刻を見合せて、某小田原へ立入り、のつ取り其後数年彼の家を勘即みるに次第〳〵にさほう衰ろへ行く、作法衰ろゆるとてもあの様なる大家の則時には破れぬものなり、小き家はけがあれば其まゝ破るゝぞ、縦へを取りて申すに癰疔と云ふ腫物は廿年も催さねば出ぬ者なり、さるに付き人間の四十をこさねばやまぬ腫物と是れを云ふ、左様に催ほす故、破れてよりは癒かぬるぞ、たゝ其ごとく上杉家よき作法衰へ、催しきはまりて後、家破るゝこと大方某三代目と考へ候、殊に以て両上杉なかさへあしくば、
書き下し
就中上杉家の重畳して今より後ちは、家の能き作法を一代に五ヶ条·十ヶ条づゝ取り失ひ、上杉家此指し次ぎに全く皆取り失ふべし、我相摸へ発向の時は今の山内廿二歳なれば、わかげにて両上杉と地取り合を始むる其時刻を見合せて、某小田原へ立入り、のつ取り其後数年彼の家を勘即みるに次第〳〵にさほう衰ろへ行く、作法衰ろゆるとてもあの様なる大家の則時には破れぬものなり、小き家はけがあれば其まゝ破るゝぞ、縦へを取りて申すに癰疔と云ふ腫物は廿年も催さねば出ぬ者なり、さるに付き人間の四十をこさねばやまぬ腫物と是れを云ふ、左様に催ほす故、破れてよりは癒かぬるぞ、たゝ其ごとく上杉家よき作法衰へ、催しきはまりて後、家破るゝこと大方某三代目と考へ候、殊に以て両上杉なかさへあしくば、
現代語訳
とりわけ上杉家は重なり重なって、今から後は家のよい作法を一代に五か条・十か条ずつ取り失い、上杉家はこの次の代に全く皆取り失うだろう。我が相模へ発向した時は、今の山内が二十二歳であったので、若気で両上杉が取り合いを始めるその時刻を見合わせて、それがしは小田原へ立ち入り、乗っ取った。その後数年かの家を考え見ると、次第次第に作法が衰えてゆく。作法が衰えるといっても、あのような大家はすぐには破れないものである。小さな家は怪我があればそのまま破れるぞ。たとえを取って申せば、癰疔という腫れ物は二十年も催さねば出ないものである。それゆえ人間の四十を越さねばやまない腫れ物とこれを言う。そのように催すので、破れてからは癒えかねるぞ。ただそのように上杉家はよい作法が衰え、催しきって後、家が破れることはおおかた某の三代目と考える。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十三又宗雲が子孫は居ながら繁昌すると宗雲申しをかるゝを、本間江州·井又左近太夫両人能く聞き届くる、さる程に本間·井又北条家のこと見てみ届けきいて届け、一ッ書にしてもつて右の本間·井又は、北条家にて少しの作り悪をいたし出入四年にして小田原をのき、上野平井へ参り長尾いけん入道方へ書き付けを渡す、其ケ条は両上杉家の大身·中身衆九人の外悉く九十人にあまり、北条へたよること一ツ、宗雲いひをかるゝ上杉家破るゝの時刻見はからうこと二ツ、氏康始め家老各侍ども行儀作法能きこと三ツ、
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『甲陽軍鑑』品第十三殊更此程我々両人小田原へよき者を指越し承候へば、北条家には何のさたもなく上杉則政公御旗を出されば、めつぽうに究まりたり、其意趣は氏縄が子氏康当年二十二歳に罷成るが、武辺のこと一円心がけず、たど歌斗りよみて罷在り、扨は男色二置するなにとのめばな立ちごと述定。男女のおいやけを大盛代々年では武辺仕さうなる侍なく候処に、当家の家老衆北条家をこともなのめにおぞみ給ふこと、一段聞へぬ儀なり、又本間江州·井又左近両人武略をよく仕たるとのこと、彼両人上杉家へ帰参申度とて皆偽りの作りごとゝ聞へ候縦へ能く仕ても武略は大敵にこそ用る者にて候へ、上杉家の被官よりはらいさき者に何の機遣にて武略なさるべき、当家の各おかしきことを申され候、
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『甲陽軍鑑』品第十三就中右に申す両上杉取り合ひの義、山ノ内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり両上杉ながら父は他界まし〳〵、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる、山内則政は永正元年甲子の誕生なれば、享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歳不承候、扨て又北条家は宗雲公·氏縄公二代にて伊豆·相摸両国おさめ、しかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣に、武蔵の府中へ出でらるゝ、敵は両上杉なり、北条家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり、北条家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
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『甲陽軍鑑』品第十三殊更両上杉根本兄弟の筋なれば中能く候て、山内をあしう仕る者は扇か谷をかね、扇谷に敵たはんと存する人も猶以て山内を怖ぢ、両旗なれば右公方御代より一入物云もなく、各々平井へ出仕して囲繞渴仰する程に、其勢二十万騎とは申せども国を持て積れば十六万は是有べし、是程なる大身日本国中に三人と在さねば国の静まることこそ尤にて候へ、
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『甲陽軍鑑』品第十三されども管領則政公には、両出頭のすがの大膳·上原兵庫是を聞て申しけるは、北条宗雲元来伊豆のいかにもちいさき所より出でたる族の、氏康がなにの深きことあるべき、伊豆·相摸両国持ても北条二人·三人合たる程の大身衆、越後·関東·奥両国へかけては則政公御旗下に五六人も在之、上杉家に伝る衆にも北条程の者は有まじげに、はびこるに付ては則政公旗を出され、たゞ一陣に北条家を誅罰し給はんと、すがの·上原両人の口にて、
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『甲陽軍鑑』品第十三又きくことあり北条家三代さき宗雲公兼々いひ置くに、金銀·米銭も我より三代目までのこと、三代目には上杉めつきやくして、必ず予が子孫関東仕置きうたがふべからず、さありて後四代目には国かずの余慶をもつて支配する者なれば、至りて金銀をさのみたくはゆるに及はず、然ば宗雲彼の地小チキ二代の間侍扶助のこと二十以前、七十以後は大小ともに我蓄へ置く金銀·米銭をもつて切符にあつべし、
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