甲陽軍鑑 / 品第十二
其以前四郎勝賴公信州諏訪賴茂そく女の腹なれば別腹と有りてさたもなされず候へ共、酉戌の年に至りては河中島合戰の義に付てあしくもなきことに、義信公ン利根だてをあそばし、信玄公を誹り給ふ故父子の御中あしう成、御中あしゝといへ共嫡子なれば義信公へ信玄公は種々の時宜をし給ひたるに、それになんぞ謀反の企有ること顯れて、永祿八年乙丑の年、此逆心故飯富兵部少輔·長坂源五郞誅せらる、義信公も三十五の御歳永祿十丁卯年御自害候、病死とも申す也、又駿河氏眞公へ其年の暮に義信の御前方送り給ふ、此御前は今川義元公の御息女氏眞公の御妹なり、翌年永祿十一年辰の暮に信玄公駿河へ發向まします、
新字:其以前四郎勝頼公信州諏訪頼茂そく女の腹なれば別腹と有りてさたもなされず候へ共、酉戌の年に至りては河中島合戦の義に付てあしくもなきことに、義信公ン利根だてをあそばし、信玄公を誹り給ふ故父子の御中あしう成、御中あしゝといへ共嫡子なれば義信公へ信玄公は種々の時宜をし給ひたるに、それになんぞ謀反の企有ること顕れて、永禄八年乙丑の年、此逆心故飯富兵部少輔·長坂源五郎誅せらる、義信公も三十五の御歳永禄十丁卯年御自害候、病死とも申す也、又駿河氏真公へ其年の暮に義信の御前方送り給ふ、此御前は今川義元公の御息女氏真公の御妹なり、翌年永禄十一年辰の暮に信玄公駿河へ発向まします、
書き下し
其以前四郎勝頼公信州諏訪頼茂そく女の腹なれば別腹と有りてさたもなされず候へ共、酉戌の年に至りては河中島合戦の義に付てあしくもなきことに、義信公ン利根だてをあそばし、信玄公を誹り給ふ故父子の御中あしう成、御中あしゝといへ共嫡子なれば義信公へ信玄公は種々の時宜をし給ひたるに、それになんぞ謀反の企有ること顕れて、永禄八年乙丑の年、此逆心故飯富兵部少輔·長坂源五郎誅せらる、義信公も三十五の御歳永禄十丁卯年御自害候、病死とも申す也、又駿河氏真公へ其年の暮に義信の御前方送り給ふ、此御前は今川義元公の御息女氏真公の御妹なり、翌年永禄十一年辰の暮に信玄公駿河へ発向まします、
現代語訳
それ以前、四郎勝頼公は信州諏訪頼茂の息女の腹であるので別腹として取り沙汰もなされなかったが、酉・戌の年になって、川中島合戦のことについて、悪くもないことに義信公が利根立てをなさり、信玄公を誹られたので、父子の御仲が悪くなった。御仲が悪いといっても嫡子であるので、信玄公は義信公へさまざまな時宜を尽くされたのに、それになんと謀反の企てがあることが露見して、永禄八年乙丑の年、この逆心ゆえに飯富兵部少輔・長坂源五郎が誅せられた。義信公も三十五の御歳、永禄十年丁卯の年に御自害された。病死とも言う。また駿河の氏真公へ、その年の暮れに義信の奥方を送り返された。この奥方は今川義元公の御息女で、氏真公の御妹である。翌年の永禄十一年辰の暮れに、信玄公は駿河へ発向された。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十二扨又右の荒手の来ルを見て、信玄公筑摩川を越三町程引籠御族本を備へ給ふに、嫡子義信公詮なきつよみを思食、引入まじき備を引たるとて、信玄公を誹り給ひ候、義信利根過ぎ給ひたる若殿なり、それ故永禄五年戌の歳の八月二十日に御使を被立ヲ両方の御存分被仰御中あしく成給ふ、亥の歳二月曹洞宗の知識信州岩村田ほつこう和尚甲甲天州大善寺高天両和尚、御父子の御中直し給はんと有し時、両方種々被仰分御座候に猶以て不和なり、そこにて義信公は長坂源五郎と談合し給ひ、せんなき悪事をたくみ出して、飯富兵部少輔を頼み謀反の企をし給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第十二御父をうち奉らんと思食立、義信公天道に違ふ事顕れ候故、父信玄公の御意に深く違ひ、子の歳より座敷籠に入れまいらせられ候、亥の歳四郎勝頼公をよび出し、信州伊奈をつかわされ、則ちたかとうの城主と有る時も、義信公へ家老衆を以て信玄公より訴訟の様に仰せ入れられ、殊更武道の異見はあま五郎左衛門、自余のことは小原下総·同丹後守·秋山紀伊守是の四人を書き立て、是れも義信公へ窺い給ひ四郎殿へ付けそへ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第十二必ず利根の過ぎたる大将は無分別にて無穿鑿成る故、手抦をも知り給はねば無手抦をも御存知なし、不ッ入ヲ所に强みありて家につたふる家老などを、科もなきに悪み親不孝にして父とも中あしうなり、非業に身を破ぶり給ふ、其ごとくに太郎義信公亡び給ふ、元来は永禄四辛酉年に河中島にて合戦巳刻の末に終る、同午の刻に輝虎後ろ備へ甘数近江守と申す者千計りの人数を謙信竜の丸備へに作り、少しも噪がず如何にも静かにのく、いくづされたる越後勢又直江がこにだ奉行の人数、信玄方の先発にうら余まされたる者々人喀此甘敷に付き越後の力の信玄公旗本組は越後への道を取り切り備へ給へば、迯る程の越後勢旗本の前きへ行きかこらざるはなし、
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『甲陽軍鑑』品第四十一永禄十丁卯年に太郎義信自害まし〳〵て後は、信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし、然れ共又其年誕生ある四郎勝頼公嫡子を信玄公養子に被成吉田左近助を以て御使として御曹司を太郎信勝と名付け参らせられ、武田の重代行平の御太刀·左文字の御腰物をゆづり、武田廿八代目と相定めらるゝ、子細は四郎勝頼公母は諏訪の頼茂のむすめ、勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづかたへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹子を有之さありて此太郎信勝七歳にて信玄公にはなれまいらせられ候間、信勝廿一歳迄十五年の間父勝頼公に陣代と有る事也、
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『甲陽軍鑑』品第十二信玄公も父信虎を追出し給ふ、我も信玄公を討ち奉らんと有る事なれ共、信虎公は次男典厩を取立まいらせ、晴信公を他国へ追失給はんとの儀にて如此、是は信玄公御道理千万なれども、それさへ信玄公恥敷思召し論語を終に手に取給はず、論語には一入親孝行のこと多し、殊更義信公御元服の時、菊亭殿を以て勅意をうけられ、光源院殿へ披露し給ひ、某し万松院義晴公より晴と云字を下され、晴信に罷成ッせがれの太郎にはあはれ義よしを下され候へかし、末代迄の名聞、又は武田の家へ後代の例に、苟くも信玄が利口に仕らんとて御訴訟ありて、義信に多なさるれば、我より太郎は果報も何もうへなりとて、殊外大切に思召し候、
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『甲陽軍鑑』品第四十第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守是は又忠節人なり、古主今川氏真公御無分別にて武藤と申すおぼへのなき牢人者の子に、新三郎と云ふ分別なきせがれに恋慕まし〳〵三浦右衛門介になされ、崇敬ある此右衛門残党なる佞人故おとな衆をそねみさこへて、いはんや朝比奈兵衛太夫をゆく〳〵なきものにせんとたくみ、惣別仕置あしければ、とても人にとらせむより駿河·遠州をば氏真公伯父にてまします信玄公へとらせ申さん、其いはれは今川殿もち来り三ケ国の内三河国一国は八年の間に岡崎家康にとられたりと申して、信玄公へ朝比奈兵衛太夫忠節いたす兵衛太夫をかへて後ち駿河守になれば信玄公御意をもつて朝比奈駿河守と名乗る、
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