甲陽軍鑑 / 品第十二
信玄公も父信虎を追出し給ふ、我も信玄公を討ち奉らんと有る事なれ共、信虎公は次男典厩を取立まいらせ、晴信公を他國へ追失給はんとの儀にて如此、是は信玄公御道理千萬なれども、それさへ信玄公恥敷思召し論語を終に手に取給はず、論語には一入親孝行のこと多し、殊更義信公御元服の時、菊亭殿を以て勅意をうけられ、光源院殿へ披露し給ひ、某し萬松院義晴公より晴と云字を下され、晴信に罷成ッせがれの太郎にはあはれ義よしを下され候へかし、末代迄の名聞、又は武田の家へ後代の例に、苟くも信玄が利口に仕らんとて御訴訟ありて、義信に多なさるれば、我より太郞は果報も何もうへなりとて、殊外大切に思召し候、
新字:信玄公も父信虎を追出し給ふ、我も信玄公を討ち奉らんと有る事なれ共、信虎公は次男典厩を取立まいらせ、晴信公を他国へ追失給はんとの儀にて如此、是は信玄公御道理千万なれども、それさへ信玄公恥敷思召し論語を終に手に取給はず、論語には一入親孝行のこと多し、殊更義信公御元服の時、菊亭殿を以て勅意をうけられ、光源院殿へ披露し給ひ、某し万松院義晴公より晴と云字を下され、晴信に罷成ッせがれの太郎にはあはれ義よしを下され候へかし、末代迄の名聞、又は武田の家へ後代の例に、苟くも信玄が利口に仕らんとて御訴訟ありて、義信に多なさるれば、我より太郎は果報も何もうへなりとて、殊外大切に思召し候、
書き下し
信玄公も父信虎を追出し給ふ、我も信玄公を討ち奉らんと有る事なれ共、信虎公は次男典厩を取立まいらせ、晴信公を他国へ追失給はんとの儀にて如此、是は信玄公御道理千万なれども、それさへ信玄公恥敷思召し論語を終に手に取給はず、論語には一入親孝行のこと多し、殊更義信公御元服の時、菊亭殿を以て勅意をうけられ、光源院殿へ披露し給ひ、某し万松院義晴公より晴と云字を下され、晴信に罷成ッせがれの太郎にはあはれ義よしを下され候へかし、末代迄の名聞、又は武田の家へ後代の例に、苟くも信玄が利口に仕らんとて御訴訟ありて、義信に多なさるれば、我より太郎は果報も何もうへなりとて、殊外大切に思召し候、
現代語訳
信玄公も父信虎を追い出された。自分も信玄公を討ち申そうということであったが、信虎公は次男の典厩を取り立て申し、晴信公を他国へ追い失おうとされたので、そうなったのである。これは信玄公に道理が十分にあったけれども、それでさえ信玄公は恥ずかしくお思いになり、論語をついに手に取られなかった。論語にはひとしお親孝行のことが多い。とりわけ義信公の御元服の時、菊亭殿を通じて勅意を受けられ、光源院殿へ披露されて、「それがしは万松院義晴公から晴という字を下されて晴信になりました。せがれの太郎には、どうか義の字を下されますように。末代までの名誉として、また武田の家の後代の例として」と、いやしくも信玄の自慢にしようというようにご訴訟があって、義信になさったので、「自分より太郎は果報も何も上である」と、殊のほか大切にお思いになった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十二扨又右の荒手の来ルを見て、信玄公筑摩川を越三町程引籠御族本を備へ給ふに、嫡子義信公詮なきつよみを思食、引入まじき備を引たるとて、信玄公を誹り給ひ候、義信利根過ぎ給ひたる若殿なり、それ故永禄五年戌の歳の八月二十日に御使を被立ヲ両方の御存分被仰御中あしく成給ふ、亥の歳二月曹洞宗の知識信州岩村田ほつこう和尚甲甲天州大善寺高天両和尚、御父子の御中直し給はんと有し時、両方種々被仰分御座候に猶以て不和なり、そこにて義信公は長坂源五郎と談合し給ひ、せんなき悪事をたくみ出して、飯富兵部少輔を頼み謀反の企をし給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第十二御父をうち奉らんと思食立、義信公天道に違ふ事顕れ候故、父信玄公の御意に深く違ひ、子の歳より座敷籠に入れまいらせられ候、亥の歳四郎勝頼公をよび出し、信州伊奈をつかわされ、則ちたかとうの城主と有る時も、義信公へ家老衆を以て信玄公より訴訟の様に仰せ入れられ、殊更武道の異見はあま五郎左衛門、自余のことは小原下総·同丹後守·秋山紀伊守是の四人を書き立て、是れも義信公へ窺い給ひ四郎殿へ付けそへ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第十二其以前四郎勝頼公信州諏訪頼茂そく女の腹なれば別腹と有りてさたもなされず候へ共、酉戌の年に至りては河中島合戦の義に付てあしくもなきことに、義信公ン利根だてをあそばし、信玄公を誹り給ふ故父子の御中あしう成、御中あしゝといへ共嫡子なれば義信公へ信玄公は種々の時宜をし給ひたるに、それになんぞ謀反の企有ること顕れて、永禄八年乙丑の年、此逆心故飯富兵部少輔·長坂源五郎誅せらる、義信公も三十五の御歳永禄十丁卯年御自害候、病死とも申す也、又駿河氏真公へ其年の暮に義信の御前方送り給ふ、此御前は今川義元公の御息女氏真公の御妹なり、翌年永禄十一年辰の暮に信玄公駿河へ発向まします、
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『甲陽軍鑑』品第十二必ず利根の過ぎたる大将は無分別にて無穿鑿成る故、手抦をも知り給はねば無手抦をも御存知なし、不ッ入ヲ所に强みありて家につたふる家老などを、科もなきに悪み親不孝にして父とも中あしうなり、非業に身を破ぶり給ふ、其ごとくに太郎義信公亡び給ふ、元来は永禄四辛酉年に河中島にて合戦巳刻の末に終る、同午の刻に輝虎後ろ備へ甘数近江守と申す者千計りの人数を謙信竜の丸備へに作り、少しも噪がず如何にも静かにのく、いくづされたる越後勢又直江がこにだ奉行の人数、信玄方の先発にうら余まされたる者々人喀此甘敷に付き越後の力の信玄公旗本組は越後への道を取り切り備へ給へば、迯る程の越後勢旗本の前きへ行きかこらざるはなし、
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『甲陽軍鑑』品第十二信玄公宣ふば、勝ちたる軍にけがし給ふまじきと有る義にて、筑摩川をこし引きこみて備へを立てよと信玄公下知し給ふ、そこにて義信公へ先へ川をこせとあり、義信公は信玄公へ先越し給へと父子辞退まします、敵近付くとて信玄公川をはやく越し給ふ、それは信玄公武勇のかけ引き達者の故なり、子細は御父子ながら初合戦に二ケ所宛手負ひ給へば、旗本の各過半手負死人也、信玄公先衆は敵より後にてあり、荒手三百来らば大将の討死疑有るまじ、まして況んや千に余りたる荒手に機遣ひなきは国持ち給ふ大将衆、小身にても弓矢を存する人は信玄公ス悪しきとは申すまじ、
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『甲陽軍鑑』品第十四其方長閑子息長坂源五郎信玄公の御意に違ひ候事まづ大かたは四ヶ条なりせがれの利根過ぎたるを信玄公嫌ひ給ふとて、硯箱の上に料紙の有るを紙硯御用の時、上の紙に取そへ筆台のふた斗持て参り作りばかを致事、落合彥助と土屋平三郎をすゝめ合せ、喧嘩させ侫人いぢむさき事、河中島合戦の時廿人頭小人頭各能付奉る中に、原大隅一入手抦の義を長坂源五郎猜とて、信玄公仰らるゝは、家に久しき侍のことに我心やすくつかふ者共は、諸人我に忠節仕る者をば、日比傍輩中わろく共懇にいたし、我前よく取なしてこそ我を思ふなれ、縦は親の長閑が煩を直したる薬師をば定て馳走仕らん、其ごとく大切に存る主の用に立チ手抦をしたる者の、しかも小者頭にて有に随分だてをする侍が、我に奉公したる原大隅を憎むは、能々信玄に長坂源郎は表裏有と仰られつる事、其後古籠屋小路勝治殿の半衆と無行儀の事、是申間敷義なれ共、何事に付ても以来のたくらべの為にかくの分也、
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