甲陽軍鑑 / 品第十二
さて旗本組の諸勢手を碎いて敵を追ひちらし、人を打つもあり、くびを取りて我旦那を尋ね、小幡を目付け我備々へよるもあり、又敵は旗本組の備へ左へにくるはすくなし、右の方さい川の渡りを心懸けたる故、輝虎方の諸勢三ケ二に餘り此筋をのく、うちはくれたる味方は皆此敵を追ふて行く、旗本に人少し、ある者は手負ひ或ひは勝負を仕くたびれたる所へ、敵の荒手、しかも千に余りたるそなへ來る、輝虎の後備へ甘數近江守と申事は後にこそ聞きつれ、其節は定めて輝虎にヒ ゴロとて有るべし、輝虎兼て信玄公と是非とも手と手を取合ひ、組度きと有る義を日來望み給ふ由連々取沙汰有れば、若し左樣の義にて輝虎賢き武畧を以て合戰の終る迄、跡に謙信は殘る、只今亂たる時旗本へかゝるかと思召し、
新字:さて旗本組の諸勢手を砕いて敵を追ひちらし、人を打つもあり、くびを取りて我旦那を尋ね、小幡を目付け我備々へよるもあり、又敵は旗本組の備へ左へにくるはすくなし、右の方さい川の渡りを心懸けたる故、輝虎方の諸勢三ケ二に余り此筋をのく、うちはくれたる味方は皆此敵を追ふて行く、旗本に人少し、ある者は手負ひ或ひは勝負を仕くたびれたる所へ、敵の荒手、しかも千に余りたるそなへ来る、輝虎の後備へ甘数近江守と申事は後にこそ聞きつれ、其節は定めて輝虎にヒ ゴロとて有るべし、輝虎兼て信玄公と是非とも手と手を取合ひ、組度きと有る義を日来望み給ふ由連々取沙汰有れば、若し左様の義にて輝虎賢き武略を以て合戦の終る迄、跡に謙信は残る、只今乱たる時旗本へかゝるかと思召し、
書き下し
さて旗本組の諸勢手を砕いて敵を追ひちらし、人を打つもあり、くびを取りて我旦那を尋ね、小幡を目付け我備々へよるもあり、又敵は旗本組の備へ左へにくるはすくなし、右の方さい川の渡りを心懸けたる故、輝虎方の諸勢三ケ二に余り此筋をのく、うちはくれたる味方は皆此敵を追ふて行く、旗本に人少し、ある者は手負ひ或ひは勝負を仕くたびれたる所へ、敵の荒手、しかも千に余りたるそなへ来る、輝虎の後備へ甘数近江守と申事は後にこそ聞きつれ、其節は定めて輝虎にヒ ゴロとて有るべし、輝虎兼て信玄公と是非とも手と手を取合ひ、組度きと有る義を日来望み給ふ由連々取沙汰有れば、若し左様の義にて輝虎賢き武略を以て合戦の終る迄、跡に謙信は残る、只今乱たる時旗本へかゝるかと思召し、
現代語訳
さて旗本組の諸勢は手を砕いて敵を追い散らし、人を討つ者もあり、首を取って自分の旦那を尋ね、小幡を目印にして自分の備えへ寄る者もあった。また敵は旗本組の備えの左へ逃げる者は少なく、右の方の犀川の渡りを心がけたので、輝虎方の諸勢の三分の二余りがこの筋を退く。散らばった味方は皆この敵を追って行く。旗本には人が少なく、ある者は手負い、あるいは勝負をしてくたびれた所へ、敵の荒手、しかも千に余る備えが来る。輝虎の後備えの甘数近江守ということは後になって聞いたが、その時はきっと輝虎(「にヒ ゴロとて」の句は底本ここ判読しがたい)であろうと思われた。輝虎はかねて信玄公とぜひとも手と手を取り合い組み討ちしたいということを日頃望んでおられるとしきりに取り沙汰があったので、もしそのようなことで、輝虎が賢い武略をもって合戦の終わるまで後に残っていたのではないか、ただいま乱れている時に旗本へ掛かってくるのかとお思いになった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十二信玄公宣ふば、勝ちたる軍にけがし給ふまじきと有る義にて、筑摩川をこし引きこみて備へを立てよと信玄公下知し給ふ、そこにて義信公へ先へ川をこせとあり、義信公は信玄公へ先越し給へと父子辞退まします、敵近付くとて信玄公川をはやく越し給ふ、それは信玄公武勇のかけ引き達者の故なり、子細は御父子ながら初合戦に二ケ所宛手負ひ給へば、旗本の各過半手負死人也、信玄公先衆は敵より後にてあり、荒手三百来らば大将の討死疑有るまじ、まして況んや千に余りたる荒手に機遣ひなきは国持ち給ふ大将衆、小身にても弓矢を存する人は信玄公ス悪しきとは申すまじ、
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『甲陽軍鑑』品第十四され共文武二道の嗜おはしまし、物ごとを花奢に强くとあるにより合戦に勝給ひても敵の大将を誹らず、勝利を得ては猶以て大事に思ひ、分国境目三河にては設楽郡、美濃にては土岐遠山、遠州にてふたまた、相摸にてしんぢやう、上野にて鷹巣、越中にて神保椎名五飛弾·信州には越後の境目各へ用心きびしく仕れと有る、書状を指し越し事を全く仕置し給ふ、
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孫子・形篇故に曰く、勝は知るべきも、為すべからざるなり。
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『墨子』魯問齊、将に魯を伐たんとす。子墨子、項子牛に謂いて曰く、「魯を伐つは、齊の大過なり。昔者、吳王、東のかた越を伐ち、諸を㑹稽に棲ましめ、西のかた楚を伐ち、昭王を隨に葆れしめ、北のかた齊を伐ち、國の太子を取りて以て吳に歸る。諸侯、其の讐に報い、百姓、其の勞に苦しみて為に用いられず。是を以て國は虚戾と為り、身は刑戮と為るなり。昔者、智伯、范氏と中行氏とを伐ち、三晉の地を兼ぬ。諸侯、其の讐に報い、百姓、其の勞に苦しみて為に用いられず。是を以て國は虚戾と為り、身は刑戮と為る。是を用うればなり。故に大國の小國を攻むるや、是れ交ごも相い賊するなり。過ちは必ず國に反る」と。
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言志四録・言志晩録 第百二条 前徒戈を倒にす「前徒戈を倒にし、後を攻めて以て北ぐ」。武王の心、此の時果して何如。以て快と為さんか。蓋し亦惻然として痛み、或は愧づること有らん。
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『春秋左氏伝』哀公十一年 艾陵の戦い吳は髮短し」と。東郭書曰く、「三たび戰へば必ず死す。此に於て三たびなり」と。弦多に問はしむるに琴を以てして曰く、「吾復た子を見ざらん」と。陳書曰く、「此の行や、吾鼓を聞くのみ、金を聞かず」と。甲戌、艾陵に戰ふ。展如高子を敗り、國子胥門巢を敗る。王卒之を助け、大いに齊の師を敗り、國書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書、革車八百乘、甲首三千を獲て、以て公に獻ず。將に戰はんとするとき、吳子叔孫を呼びて曰く、「而(なんぢ)の事は何ぞや」と。對へて曰く、「司馬に從ふ」と。王之に甲・劍・鈹を賜ひて曰く、「爾の君の事を奉じ、敬みて命を廢すること無かれ」と。叔孫未だ對ふる能はず。衛賜進みて曰く、「州仇甲を奉じて君に從ひて拜す」と。公大史固をして國子の元を歸さしむ。之を新篋に寘き、之に褽(し)くに玄纁を以てし、組帶を加へ、書を其の上に寘きて曰く、「天若し衷ならざるを識らずんば、何を以て下國を使はんや」と。吳將に齊を伐たんとす。
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