甲陽軍鑑 / 品第十一
又人數は大軍をあつかいつけたる大將少人數は扱よからん、そなへの義は少人數を能く立し覺へたらば、大軍は立よからん、子細は三萬の人數を持たる大將の家老五人に、五千づゝ預け、本大將共に六人にて三萬の人數を支配する大將も有るべし、其段をさほうしらざる者は、能きことゝ存る事もあらん、是は何に付てもあやうき事多し、三萬の大將の下には、人數二百·三百·五百·千或は三千持たるも有るべし、扨大軍斗リの備へ立樣をもつてかけ、少人數を指遣ふ時の樣子も有べし、其節に其大將に成て行人は、必ず手くばりまはりかぬるものなり、縱ばきる物ひとつを寒き夜に、三人してきてねる樣にて、何共迷惑成る義多からん、さるに付少勢を能く備へ立覺へ、其上大人數はしよき物ならん、それによつて信玄公の備は卅五人より立始め給ふ、
新字:又人数は大軍をあつかいつけたる大将少人数は扱よからん、そなへの義は少人数を能く立し覚へたらば、大軍は立よからん、子細は三万の人数を持たる大将の家老五人に、五千づゝ預け、本大将共に六人にて三万の人数を支配する大将も有るべし、其段をさほうしらざる者は、能きことゝ存る事もあらん、是は何に付てもあやうき事多し、三万の大将の下には、人数二百·三百·五百·千或は三千持たるも有るべし、扨大軍斗リの備へ立様をもつてかけ、少人数を指遣ふ時の様子も有べし、其節に其大将に成て行人は、必ず手くばりまはりかぬるものなり、縦ばきる物ひとつを寒き夜に、三人してきてねる様にて、何共迷惑成る義多からん、さるに付少勢を能く備へ立覚へ、其上大人数はしよき物ならん、それによつて信玄公の備は卅五人より立始め給ふ、
書き下し
又人数は大軍をあつかいつけたる大将少人数は扱よからん、そなへの義は少人数を能く立し覚へたらば、大軍は立よからん、子細は三万の人数を持たる大将の家老五人に、五千づゝ預け、本大将共に六人にて三万の人数を支配する大将も有るべし、其段をさほうしらざる者は、能きことゝ存る事もあらん、是は何に付てもあやうき事多し、三万の大将の下には、人数二百·三百·五百·千或は三千持たるも有るべし、扨大軍斗リの備へ立様をもつてかけ、少人数を指遣ふ時の様子も有べし、其節に其大将に成て行人は、必ず手くばりまはりかぬるものなり、縦ばきる物ひとつを寒き夜に、三人してきてねる様にて、何共迷惑成る義多からん、さるに付少勢を能く備へ立覚へ、其上大人数はしよき物ならん、それによつて信玄公の備は卅五人より立始め給ふ、
現代語訳
また人数は、大軍を扱いつけた大将には少人数は扱いやすいであろう。備えのことは、少人数をよく立て覚えたならば、大軍は立てやすいであろう。子細は、三万の人数を持つ大将が、家老五人に五千ずつ預け、本大将とともに六人で三万の人数を支配することもあろう。その段を作法を知らない者は、よいことと思う事もあろう。これは何につけても危うい事が多い。三万の大将の下には、人数二百・三百・五百・千、あるいは三千持つ者もあるであろう。さて大軍ばかりの備えの立て様をもって掛かり、少人数を差し遣わす時の様子もあろう。その節にその大将になって行く人は、必ず手配りが回りかねるものである。たとえば着る物一つを寒い夜に三人で着て寝るようなもので、何とも迷惑なことが多いであろう。それゆえ少勢をよく備え立て覚えて、そのうえで大人数は扱いやすいものになる。それによって信玄公の備えは三十五人から立て始めなさった。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十一縦へば番匠か大和国ならの大仏殿を立るに、二尺·三尺のかねをもつて立て、二間四方のらいさき堂をも右のかねにて仕る、すこしき備を立て、大人数には組合せよからん、大備へに組み其陣にて用有るとて、人数をわくれば、其備減りたるとて上下力をおとす者なり、其所に当る敵も大にきほふ者なり、惣じて大備への崩れ立ちたるは、何たる名大将とても、其下の剛の者共も支配成るまじきぞ、
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言志四録・言志耋録 第百四十六条 舟に楫艣無ければ舟に楫艣無ければ、則ち川海済るべからず。門に鎖鑰有れば、則ち盗賊闚ふこと能はず。
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司馬法・定爵将は身なり、卒は支(し)なり、伍は指拇(しぼ)なり。
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史記 匈奴列伝東胡初め冒頓を軽んじ、備へを為さず。冒頓兵を以て至り、撃つに及びて、大いに東胡王を破滅し、而して其の民人及び畜産を虜にす。既に帰りて、西のかた月氏を撃ち走らせ、南のかた楼煩・白羊の河南王を并す。燕代を侵し、悉く復た秦の蒙恬をして匈奴より奪はしめし所の地を収め、漢と故の河南の塞を関とし、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。是の時漢の兵項羽と相距ぎ、中国兵革に罷る。故を以て冒頓自ら彊くするを得、控弦の士三十余万。淳維より以て頭曼に至るまで千有余歳、時に大きく時に小さく、別散分離すること、尚し。其の世伝得て次すべからずと云ふ。然れども冒頓に至りて匈奴最も彊大にして、尽く北夷を服従せしめ、而して南のかた中国と敵国と為る。其の世伝国官の号乃ち得て記すべしと云ふ。左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯を置く。匈奴は賢を謂ひて「屠耆」と曰ふ。故に常に太子を以て左屠耆王と為す。左右の賢王より以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰ふ。諸大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り。此の三姓は其の貴種なり。諸々の左方の王将は東方に居り、上谷に直りて以往なる者は、東のかた穢貉・朝鮮に接す。右方の王将は西方に居り、上郡に直りて以西は、月氏・氐・羌に接す。而して単于の庭は代・雲中に直る。各々分地有り、水草を逐ひて移徙す。而して左右の賢王・左右の谷蠡王最も大為り。左右の骨都侯政を輔く。諸々の二十四長も亦各々自ら千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。歳の正月、諸長小しく単于の庭に会し、祠る。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・これを散ずれば明なりこれを集むれば暗なり私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして、一愚人の事を行なうものと言うべし。あに怪しまざるを得んや。畢竟その然る所以は、かの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験なきも、その病の原因はけだしここにあるなり。しかるにいま一時の術を用いて下民を御し、その知徳の進むを待つとは、威をもって人を文明に強ゆるものか、しからざれば欺きて善に帰せしむるの策なるべし。政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺を用うれば人民は容を作りてこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。たといその策は巧みなるも、文明の事実に施して益なかるべし。ゆえにいわく、世の文明を進むるには、ただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。
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孫子・虚実篇故に前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なし。左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なし。備えざる所無ければ、則ち寡なからざる所無し。寡なき者は人に備うる者なり、衆き者は人をして己に備えしむる者なり。
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