講孟余話 / 附尾
附尾、滕文公上篇末章ト相照スヘシ院雖兄、去位久矣、帝雖弟、當今天子、馭寓踰年、未有失德、院之構兵、其何名耶、當是時、宜以躳擁三器爲正ト、此論甚正シ甚明ナリ、而シテ三宅ノ序ニ、其所謂以神器之在否而卜人臣之向背者、議竟不合ト云ハ、深ク此論ニ達セサルニ似タリ、栗山ノ意ハ崇德上皇ト後白河天皇ト何レカ正、何レカ僞トノ論ナリ、此時ニ至テハ三宅ト雖トモ、恐クハ上皇ニ從フヘシトハ云マシキナリ、何トナレバ、上皇已ニ位ヲ去リ璽ヲ傳ヘテ近衞天皇之ヲ継ク、近衞崩御ナサレテ、後白河天皇登祚マシマス上ハ、上皇ノ御憤ハ已ムコトナキニハアレト、畢竟私心也、故ニ天皇上皇ノ正僞ハ、神器ノ有無マテモ待タスシテ明ナルコトナリ、况ヤ天皇ハ神器ノ在ル所ナルヲヤ、
新字:附尾、滕文公上篇末章ト相照スヘシ院雖兄、去位久矣、帝雖弟、当今天子、馭寓踰年、未有失徳、院之構兵、其何名耶、当是時、宜以躳擁三器為正ト、此論甚正シ甚明ナリ、而シテ三宅ノ序ニ、其所謂以神器之在否而卜人臣之向背者、議竟不合ト云ハ、深ク此論ニ達セサルニ似タリ、栗山ノ意ハ崇徳上皇ト後白河天皇ト何レカ正、何レカ偽トノ論ナリ、此時ニ至テハ三宅ト雖トモ、恐クハ上皇ニ従フヘシトハ云マシキナリ、何トナレバ、上皇已ニ位ヲ去リ璽ヲ伝ヘテ近衛天皇之ヲ継ク、近衛崩御ナサレテ、後白河天皇登祚マシマス上ハ、上皇ノ御憤ハ已ムコトナキニハアレト、畢竟私心也、故ニ天皇上皇ノ正偽ハ、神器ノ有無マテモ待タスシテ明ナルコトナリ、況ヤ天皇ハ神器ノ在ル所ナルヲヤ、
書き下し
附尾、滕文公上篇末章と相照らすべし。「院は兄なりと雖も、位を去ること久し。帝は弟なりと雖も、当今の天子にして、寓を馭すること年を踰え、未だ失徳有らず。院の兵を構ふる、其れ何の名ぞや。是の時に当りて、宜しく躬ら三器を擁するを以て正と為すべし」と。此の論甚だ正しく甚だ明らかなり。而して三宅の序に、「其の所謂神器の在否を以て人臣の向背を卜する者は、議竟に合はず」と云ふは、深く此の論に達せざるに似たり。栗山の意は崇徳上皇と後白河天皇と何れか正、何れか偽との論なり。此の時に至りては三宅と雖も、恐らくは上皇に従ふべしとは云ふまじきなり。何となれば、上皇已に位を去り璽を伝へて近衛天皇之れを継ぐ。近衛崩御なされて、後白河天皇登祚まします上は、上皇の御憤りは已むことなきにはあれど、畢竟私心なり。故に天皇上皇の正偽は、神器の有無までも待たずして明らかなることなり。況んや天皇は神器の在る所なるをや。
現代語訳
附尾。滕文公上篇の末章と照らし合わせて読むべきである。(栗山潜鋒の『保建大記』の一節に)「上皇は兄とはいえ、位を去って久しい。天皇は弟とはいえ、今の天子であり、天下を治めて年を越え、まだ徳を失ったことがない。上皇が兵を挙げたのは、いったい何の名分によるのか。この時にあたっては、自ら三種の神器を抱く者を正統とすべきである」とある。この論ははなはだ正しく、はなはだ明らかである。ところが三宅(観瀾)の序に「神器があるかないかによって臣下の向背を占うという考えは、結局議論が合わなかった」と言っているのは、この論を深く理解していないように見える。栗山の意図は、崇徳上皇と後白河天皇のどちらが正統で、どちらが偽かという論である。このときに至っては、三宅でもおそらく上皇に従うべきだとは言わないだろう。なぜなら、上皇はすでに位を去り、神璽を伝えて近衛天皇がこれを継いだ。近衛天皇が崩御されて後白河天皇が即位されたうえは、上皇のお憤りはやむを得ないものではあっても、結局は私心である。だから天皇と上皇の正偽は、神器の有無を待つまでもなく明らかなことである。まして天皇は神器のあるところなのだからなおさらである。
解説
この章句が説くこと
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