講孟余話 / 盡心下 第三十八章
此二章、是レ孟子道行レズシテ天下後世ニ傳フルノ志也、孟子七篇梁惠王ヲ以テ首篇トス、是王政ノ要、孟子ノ天下ニ行ハント欲スル所也、盡心ヲ以テ末篇トス、是聖道ノ精、孟子ノ後世ニ傳ヘント欲スル所也、中間告子一篇、性善ノ論学者手ヲ下スノ初頭也、他ノ諸篇ハ三義ヲ雜記スル也、故ニ孟子ヲ觀ント欲セハ、性善ヨリ工夫ヲ下シ、王政ヲ政ヲ行ヒ大道ヲ万世ニ傳ヘハ、用捨行藏遺憾ナキニ足レリ、抑割記ノ開卷第一義ハ国体人倫ニアリ、故ニ首トシテ君臣ノ大義ヲ論ス、結末ニ至テ、明ニ此道ヲ以テ自ラ任トスルノ意ヲ著ス、同志ノ諸君子始末ヲ合考シテ、余カ志ノ孔孟ニ謬ルヤ否、国体人倫ニ戾ルヤ否ヲ論究シ、教ヲ賜フヲ惜ムコトナクンハ幸甚々々、此篇上下ヲ分ツコトナシ、盡心知性知天ニ起リ、無有乎爾、則亦無有乎爾ニ終ル、言盡キテ意尽キズ、其間章々或ハ続キ、或ハ断ユ、要之皆聖道ノ精微身心ニ緊切ナル者ニシテ孟子ノ以テ天下後世ニ傳フ所以ナリ、丙辰六月十八日具稿
新字:此二章、是レ孟子道行レズシテ天下後世ニ伝フルノ志也、孟子七篇梁恵王ヲ以テ首篇トス、是王政ノ要、孟子ノ天下ニ行ハント欲スル所也、尽心ヲ以テ末篇トス、是聖道ノ精、孟子ノ後世ニ伝ヘント欲スル所也、中間告子一篇、性善ノ論学者手ヲ下スノ初頭也、他ノ諸篇ハ三義ヲ雑記スル也、故ニ孟子ヲ観ント欲セハ、性善ヨリ工夫ヲ下シ、王政ヲ政ヲ行ヒ大道ヲ万世ニ伝ヘハ、用捨行蔵遺憾ナキニ足レリ、抑割記ノ開巻第一義ハ国体人倫ニアリ、故ニ首トシテ君臣ノ大義ヲ論ス、結末ニ至テ、明ニ此道ヲ以テ自ラ任トスルノ意ヲ著ス、同志ノ諸君子始末ヲ合考シテ、余カ志ノ孔孟ニ謬ルヤ否、国体人倫ニ戻ルヤ否ヲ論究シ、教ヲ賜フヲ惜ムコトナクンハ幸甚々々、此篇上下ヲ分ツコトナシ、尽心知性知天ニ起リ、無有乎爾、則亦無有乎爾ニ終ル、言尽キテ意尽キズ、其間章々或ハ続キ、或ハ断ユ、要之皆聖道ノ精微身心ニ緊切ナル者ニシテ孟子ノ以テ天下後世ニ伝フ所以ナリ、丙辰六月十八日具稿
書き下し
此の二章、是れ孟子道行はれずして天下後世に伝ふるの志なり。孟子七篇、梁恵王を以て首篇とす、是れ王政の要、孟子の天下に行はんと欲する所なり。尽心を以て末篇とす、是れ聖道の精、孟子の後世に伝へんと欲する所なり。中間の告子一篇は、性善の論、学者手を下すの初頭なり。他の諸篇は三義を雑記するなり。故に孟子を観んと欲せば、性善より工夫を下し、王政を行ひ、大道を万世に伝へば、用捨行蔵遺憾なきに足れり。抑々割記の開巻第一義は国体人倫にあり、故に首として君臣の大義を論ず。結末に至りて、明らかに此の道を以て自ら任とするの意を著す。同志の諸君子、始末を合はせ考へて、余が志の孔孟に謬るや否や、国体人倫に戻るや否やを論究し、教へを賜ふを惜しむことなくんば幸甚幸甚。此の篇上下を分かつことなし。「心を尽くし性を知り天を知る」に起り、「有ること無くんば、則ち亦有ること無からん」に終る。言尽きて意尽きず。其の間章々或は続き、或は断ゆ。之れを要するに皆聖道の精微、身心に緊切なる者にして、孟子の以て天下後世に伝ふる所以なり。丙辰六月十八日具稿。
現代語訳
この二章は、孟子が道を行えずに、天下と後世に伝えようとした志である。孟子七篇は梁恵王篇を最初の篇としている。これは王政の要であり、孟子が天下に行おうとしたものである。盡心篇を最後の篇としている。これは聖人の道の精髄であり、孟子が後世に伝えようとしたものである。その間の告子篇は性善の論で、学ぶ者が最初に手をつけるところである。他の諸篇はこの三つの意味を雑多に記したものである。だから孟子を読もうとするなら、性善から工夫を始め、王政を行い、大道を万世に伝えるならば、用いられても捨てられても、世に出ても退いても、悔いはない。そもそもこの劄記の巻頭第一の主眼は国体と人倫にある。だから最初に君臣の大義を論じた。結末に至って、この道を自らの任とする意志をはっきり書き表した。同志の諸君、初めと終わりを合わせて考え、私の志が孔孟に誤っていないか、国体と人倫に背いていないかを論じ究めて、教えを惜しまず授けてくださるなら、これほどの幸いはない。この篇(盡心)は上下に分けない。「心を尽くし、性を知り、天を知る」に始まり、「(道を見て知る者が)いないなら、(聞いて知る者も)いないであろう」に終わる。言葉は尽きても意味は尽きない。その間の各章は、続いているところもあれば途切れるところもある。要するにみな聖人の道の精微なところで、身と心に切実なものであり、孟子が天下と後世に伝えようとしたゆえんである。丙辰(安政三年)六月十八日、稿をまとめる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之二・為学下一博学にして経書に通じ、義理を説く人も、其心術行迹あしくして、俗人におとれるもあり。是道に志なくして、道を我が心に得ざればなり。口に読みならひ、目に見おぼえても、其理を心に得ざれば益なし。たとへば美食芳樽前に多くつらなれども、これを飲みくらはざれば、食にもあく事なく、酒にゑふ事もなきが如し。書を読んで行あしき人あるをうたがふ人あり。これを以て疑をはらすべし。書をよみても道に志なくば、文字を知れるのみにて、心において益なし。是無用の学なり。ここを以て、学をするにはまづ志を本とすべし。
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『童子問』卷下問ふ、今時の学者、何ぞ聖学に志す者の少なくして、雑学を好む者の多きや、と。曰く、豪傑なる者は少なくして、庸材なる者は多し。古今皆然り。予養鷹者の説を聞く。鷹の捷き者は、必ず先づ鶴の最も大なる者を撃つ。其の捷からざる者は、必ず鶴の小なる者を見て之を撃つ。鷹の最も神俊なる者を、海東青と号す。建酋に産し、海内には得べからず、と。韓欧の古文を好む者既に少なく、伊洛の学に志す者益々少なし。況んや孔孟の正学に志す者は、千万人中の一人のみ。其の韓欧の古文を好む者は、鶴の稍小なる者を撃つの類なり。伊洛の学に志す者は、鷹の捷き者なり。孔孟の正学に志す者は、建酋の海東青なり。其の雑学・詞章・記誦の類を好む者は、亦小隼の麻雀鶉鷃を撃つの類のみ。貴ぶに足らず。子其れ自ら励む所を知らざるべけんや。
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
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『大和俗訓』巻之一・為学上一学問はまづ志を立つるを以て本とす。志とは心のゆく所なり。道を知り行ひて、君子に至らんと思ふ心常におこたりなく、念々やまざるを、志を立つると云ふ。志たたざれば学ぶこと成就せず。故に古人も、志ある者は其事つひになるといひ、又志たつは学の半なりといへり。たとへば弓いる者の、的に志し、道ゆく者の、宿に志すが如し。よろづの事、まづ本をつとむべし。志を立つるは学問の本なり。志を立つるには勇猛なるべし。柔弱にして怠るべからず。おこたれば験なくしてはかゆかず。道を求むるにせちなる志は、たとへば飢ゑて食を求め、渇きて湯水を求むるが如くなるべしわづかに悠々としておこたれば、志すたる。唯此道に心を一すぢにすべし。
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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『講孟余話』梁惠王下 首章今や文教興隆し、正学世に明らかなり。士は孔孟の言に非ざれば口に称せず、五尺の童子も管晏を言ふことを恥づ。吾諸君と此の世に生まれ、正学に従事することを得、実に大幸と云ふべし。然れども志を立つること真ならざれば、名は正学なれども実は曲学にも劣るべし。事旧りたれども、子としては孝に死し、臣としては忠に死し、仰いでは皇国の大恩に報じ、俯しては一身の職分を尽くさんと、日夜に志を励まして学を勤めば、其の正学たるに負かずと云ふべし。孟子嘗て云く、五穀も熟せざれば荑稗に如かずと、思はざるべけんや。抑々志さへ真なれば曲学にても一概に非とすべからずとは雖も、世に志ありて曲学に陥る者あらば、吾固より手を把りて正学の途に進めんと欲するは固よりなり。是れを以て又孟子の楽を論ずる言外の旨を領すべし。
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