講孟余話 / 盡心下 第三十八章
又後章圈外ニ、程正叔序スル所ノ明道先生ノ事ヲ載ス、宋儒ヲ信セサル者ハ、是ヲ一家ノ私論ト云、余反覆是ヲ考フルニ、是豈一家ノ論ナランヤ、宋以來諸儒輩出シ、各一族ヲ樹ル、互ニ出入異同アリト云ヘトモ、周程張朱ノ區域ヲ出ルコトヲ得ズ、而シテ明道先生其中ニ在テ道德傑出ノ人ナレハ、是ヲ孔孟ノ統ヲ継クト云トモ、何ソ不可ナラン、而シテ是ヲ一家ノ私論ト云者ハ門戶嫉妬ノ見也、且其人ノ如キモ亦遂ニ其區域ヲ免レ得サル也、然而無有乎爾、則亦無有乎爾、此語孟子自任シ、又千萬世ニ向テ吾輩ヲ呼醒スノ語也、吾輩宜シク驚起シテ、耳ヲ傾ケ肝ニ銘スヘシ、孟子言、孔子至今、時未遠、鄒魯相去又近、然而已無有見而知之者矣、則五百餘歲之後、又豈復有聞而知之者乎、集註林氏ノ說孟子ヨリ今ニ至ル迄二千餘年、其間見知聞知ノ有無ハ姑ラク論スルコトナクシテ可也、今吾輩断然自ラ任セスンハ、何ソ後世ニ待ツコトヲ得ンヤ、又何ソ往世ニ泝ルコトヲ得ンヤ、唯是人々七十年中ノ重任也、忽ニスルコトナカレ、
新字:又後章圏外ニ、程正叔序スル所ノ明道先生ノ事ヲ載ス、宋儒ヲ信セサル者ハ、是ヲ一家ノ私論ト云、余反覆是ヲ考フルニ、是豈一家ノ論ナランヤ、宋以来諸儒輩出シ、各一族ヲ樹ル、互ニ出入異同アリト云ヘトモ、周程張朱ノ区域ヲ出ルコトヲ得ズ、而シテ明道先生其中ニ在テ道徳傑出ノ人ナレハ、是ヲ孔孟ノ統ヲ継クト云トモ、何ソ不可ナラン、而シテ是ヲ一家ノ私論ト云者ハ門戸嫉妬ノ見也、且其人ノ如キモ亦遂ニ其区域ヲ免レ得サル也、然而無有乎爾、則亦無有乎爾、此語孟子自任シ、又千万世ニ向テ吾輩ヲ呼醒スノ語也、吾輩宜シク驚起シテ、耳ヲ傾ケ肝ニ銘スヘシ、孟子言、孔子至今、時未遠、鄒魯相去又近、然而已無有見而知之者矣、則五百余歳之後、又豈復有聞而知之者乎、集註林氏ノ説孟子ヨリ今ニ至ル迄二千余年、其間見知聞知ノ有無ハ姑ラク論スルコトナクシテ可也、今吾輩断然自ラ任セスンハ、何ソ後世ニ待ツコトヲ得ンヤ、又何ソ往世ニ泝ルコトヲ得ンヤ、唯是人々七十年中ノ重任也、忽ニスルコトナカレ、
書き下し
又後章の圏外に、程正叔の序する所の明道先生の事を載す。宋儒を信ぜざる者は、是れを一家の私論と云ふ。余反覆是れを考ふるに、是れ豈に一家の論ならんや。宋以来諸儒輩出し、各々一族を樹つ。互ひに出入異同ありと云へども、周・程・張・朱の区域を出づることを得ず。而して明道先生其の中に在りて道徳傑出の人なれば、是れを孔孟の統を継ぐと云ふとも、何ぞ不可ならん。而して是れを一家の私論と云ふ者は門戸嫉妬の見なり。且つ其の人の如きも亦遂に其の区域を免れ得ざるなり。「然り而して有ること無くんば、則ち亦有ること無からん」、此の語孟子自ら任じ、又千万世に向かひて吾が輩を呼び醒ますの語なり。吾が輩宜しく驚起して、耳を傾け肝に銘ずべし。孟子言ふ、「孔子より今に至るまで、時未だ遠からず、鄒魯相去ること又近し。然り而して已に見て之れを知る者有ること無し。則ち五百余歳の後、又豈に復た聞きて之れを知る者有らんや」(集註林氏の説)。孟子より今に至る迄二千余年、其の間見知聞知の有無は姑く論ずることなくして可なり。今吾が輩断然自ら任ぜずんば、何ぞ後世に待つことを得んや、又何ぞ往世に遡ることを得んや。唯だ是れ人々七十年中の重任なり、忽せにすることなかれ。
現代語訳
また後の章の注の外枠に、程頤(正叔)が序した兄・程顥(明道先生)のことが載っている。宋儒を信じない者は、これを一家の私的な論だと言う。私はくり返し考えてみたが、どうしてこれが一家の論であろうか。宋以来、儒者が次々に出て、それぞれ一派を立てた。互いに出入りや異同はあるが、周敦頤・程子・張載・朱子の範囲を出ることはできない。そして明道先生はその中にあって道徳の傑出した人なのだから、これを孔子・孟子の系統を継ぐと言っても、何の不都合があろう。それを一家の私論と言う者は、門戸を張り合う嫉妬の見方である。しかもそう言う人自身も、結局その範囲を免れてはいないのである。「そうでありながら(道を見て知る者が)いないならば、(後に聞いて知る者も)いないであろう」。この言葉は、孟子が自ら道を担い、また千万世に向かってわれわれを呼び覚ます言葉である。われわれは驚いて立ち上がり、耳を傾け、肝に銘じなければならない。孟子の言う意味は「孔子から今まで、時はまだ遠くなく、鄒と魯は互いに近い。それなのにすでに直接見て知る者がいない。とすれば五百余年の後に、どうしてまた伝え聞いて知る者がいようか」ということである(集注の林氏の説)。孟子から今に至るまで二千余年、その間に見て知る者・聞いて知る者がいたかどうかは、しばらく論じなくてよい。今、われわれが断然として自ら道を担わなければ、どうして後世に期待することができようか、またどうして過去に遡ることができようか。これこそ人々が七十年の生涯の中で負う重い任務である。おろそかにしてはならない。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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『驢鞍橋』卷下因に云ふ、大形昔より師一人にして、二代になれば、早や衰ふと見えたり。然ればこそ、仏弟子より此の位有る也。仏経には勇猛精進と多く説き給ふに、その後誰れでも沙汰したる人を聞かす、若し沙汰せば、先つ迦葉のめされんすか早や替りたると見えたり。総而昔も今の如く、善き者出でにくかるべし。替り有るべからず。皆知らずして仏の御出世なる間、誰れをも彼れをも善からんずと計思はるゝ也。時に僧問ふ、普化は仏境界の人と承る、何ぞ度人なきや。師曰く、中中さつさつとしたる活境界にて、度人も何も有る様の機に非ず、是れはよく我知ると也。
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