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講孟余話 / 盡心下 第三十四章

此章卽チ曾子ノ晋楚之富不可及也、彼以其富、我以我仁、彼以其爵、我以吾義、吾何慊乎哉公孫丑下篇第二章子思ノ以位則子君也、我臣也、何敢與君友也、以德則子事我者也、奚可以與我友万章下篇第七章ノ意ニテ、說者孟子ヲ以テ有些英氣トシ、有圭角トスル、序說程子ノ語マサニ是等ノ處ニ於テ云ナルヘシ、集註揚氏曰、孟子此章以己之長、方人之短、猶有此等氣象、在孔子則無此矣、其說固ヨリ確、但藐之ノ義深考スヘシ、仁斎云、君子以礼存心、無所不用其敬、豈於大人而藐之哉、是レ藐之ヲ以テ大人ヲ藐視ストスルニ似タリ、是倨慢也、余謂フニ勿視其巍々然ノ五字、是藐之ノ注解也、下ノ堂高数似、榱題数尺、食前方丈、侍妾数百人、般樂飮酒、驅騁田獵、後車千乘、是巍々然ノ注解ナリ、然ラスンハ、位モ位モ亦三達德ノ一ナレハ、豈恭敬ヲ加ヘサルヘケンヤ、但其巍々然タルニ懾伏シテ、志氣自ラ挫ケ、議論自ラ屈スルハ、藐視セサルノ過也、君子ハ道ヲ重シ德ヲ崇フ、故ニ冨貴ノ人ニシテ德アレハ、固ヨリ是ヲ崇重ス、貧賤ノ人ニシテ道アレハ、固ヨリ是ヲ崇重ス、貧賤ヲ以テ是ヲ輕蔑スル者ハ、必ス冨貴ヲ以テ是ニ謟屈ス、是皆冨貴貧賤ヲ視ルコト道德ニ如カサル也、苟モ道德ヲ以テ重シトスル時ハ、貧賤ヲ以テ自ラ輕ンスルコトナク、又富貴ヲ以テ人ヲ重スルコトナシ、是レ孟子此処ニ於テ痛ク針砭ヲ下タス所也

新字:此章即チ曽子ノ晋楚之富不可及也、彼以其富、我以我仁、彼以其爵、我以吾義、吾何慊乎哉公孫丑下篇第二章子思ノ以位則子君也、我臣也、何敢与君友也、以徳則子事我者也、奚可以与我友万章下篇第七章ノ意ニテ、説者孟子ヲ以テ有些英気トシ、有圭角トスル、序説程子ノ語マサニ是等ノ処ニ於テ云ナルヘシ、集註揚氏曰、孟子此章以己之長、方人之短、猶有此等気象、在孔子則無此矣、其説固ヨリ確、但藐之ノ義深考スヘシ、仁斎云、君子以礼存心、無所不用其敬、豈於大人而藐之哉、是レ藐之ヲ以テ大人ヲ藐視ストスルニ似タリ、是倨慢也、余謂フニ勿視其巍々然ノ五字、是藐之ノ注解也、下ノ堂高数似、榱題数尺、食前方丈、侍妾数百人、般楽飲酒、駆騁田猟、後車千乗、是巍々然ノ注解ナリ、然ラスンハ、位モ位モ亦三達徳ノ一ナレハ、豈恭敬ヲ加ヘサルヘケンヤ、但其巍々然タルニ懾伏シテ、志気自ラ挫ケ、議論自ラ屈スルハ、藐視セサルノ過也、君子ハ道ヲ重シ徳ヲ崇フ、故ニ冨貴ノ人ニシテ徳アレハ、固ヨリ是ヲ崇重ス、貧賤ノ人ニシテ道アレハ、固ヨリ是ヲ崇重ス、貧賤ヲ以テ是ヲ軽蔑スル者ハ、必ス冨貴ヲ以テ是ニ謟屈ス、是皆冨貴貧賤ヲ視ルコト道徳ニ如カサル也、苟モ道徳ヲ以テ重シトスル時ハ、貧賤ヲ以テ自ラ軽ンスルコトナク、又富貴ヲ以テ人ヲ重スルコトナシ、是レ孟子此処ニ於テ痛ク針砭ヲ下タス所也

書き下し

此の章は即ち曾子の「晋楚の富は及ぶべからざるなり。彼は其の富を以てし、我は我が仁を以てす。彼は其の爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾何ぞ慊らんや」(公孫丑下篇第二章)、子思の「位を以てすれば則ち子は君なり、我は臣なり、何ぞ敢へて君と友たらん。徳を以てすれば則ち子は我に事ふる者なり、奚ぞ以て我と友たるべけんや」(万章下篇第七章)の意にて、説く者孟子を以て些かの英気ありとし、圭角ありとする、序説の程子の語、まさに是等の処に於て云ふなるべし。集註に楊氏曰く、「孟子此の章、己の長を以て人の短を方ぶ、猶此等の気象有り、孔子に在りては則ち此れ無し」と。其の説固より確なり。但だ「之れを藐んず」の義深く考ふべし。仁斎云く、「君子は礼を以て心に存し、其の敬を用ひざる所無し、豈に大人に於て之れを藐んぜんや」と。是れ「之れを藐んず」を以て大人を藐視すとするに似たり、是れ倨慢なり。余謂ふに「其の巍々然たるを視ること勿れ」の五字、是れ「之れを藐んず」の注解なり。下の「堂の高さ数仞、榱題数尺、食前方丈、侍妾数百人、般楽飲酒、駆騁田猟、後車千乗」、是れ「巍々然」の注解なり。然らずんば、位も亦三達徳の一なれば、豈に恭敬を加へざるべけんや。但だ其の巍々然たるに懾伏して、志気自ら挫け、議論自ら屈するは、藐視せざるの過ちなり。君子は道を重んじ徳を崇ぶ。故に富貴の人にして徳あれば、固より是れを崇重す。貧賤の人にして道あれば、固より是れを崇重す。貧賤を以て是れを軽蔑する者は、必ず富貴を以て是れに諂屈す。是れ皆富貴貧賤を視ること道徳に如かざるなり。苟も道徳を以て重しとする時は、貧賤を以て自ら軽んずることなく、又富貴を以て人を重んずることなし。是れ孟子此の処に於て痛く針砭を下だす所なり。

現代語訳

この章は、曾子の「晋や楚の富には及ばない。だが彼らが富で来るなら、私は仁で応じる。彼らが爵位で来るなら、私は義で応じる。私に何の不足があろう」(公孫丑下篇第二章)や、子思の「位で言えば、あなたは君主で私は臣下だ。どうして君主と友になれよう。徳で言えば、あなたは私に仕える者だ。どうして私と友になれよう」(万章下篇第七章)と同じ趣旨である。解説する者が孟子には英気があり角があると言い、序説の程子の言葉もまさにこういう所について言ったのだろう。集注で楊時は「孟子はこの章で自分の長所をもって人の短所と比べている。なおこういう気性がある。孔子にはこれがない」と言う。その説はもとより確かである。ただ「之れを藐んず(軽く見る)」の意味は深く考えるべきだ。仁斎は「君子は礼を心に保ち、どこでも敬意を用いる。どうして大人を軽んじたりしようか」と言う。これは「藐んず」を大人そのものを見下すことと解しているようで、それでは傲慢である。私が思うに「その堂々たるさまを見るな」の五字が「藐んず」の注解である。その下の「堂の高さ数仞、垂木の端が数尺、目の前に並ぶご馳走、侍女数百人、遊び楽しんで酒を飲み、馬を走らせて狩りをし、従う車が千台」が「堂々たるさま」の注解である。そうでなければ、位もまた尊ぶべき三つのものの一つなのだから、どうして敬わずにいられようか。ただ、その堂々たるさまにおびえて屈し、志気がくじけ、議論が自然と卑屈になるのは、軽く見ないことの過ちである。君子は道を重んじ徳を尊ぶ。だから富貴の人でも徳があればもとより尊び、貧賤の人でも道があればもとより尊ぶ。貧賤だからといって人を軽蔑する者は、必ず富貴の人にはへつらう。これはみな、富貴貧賤を見る目が道徳を見る目に及ばないのである。いやしくも道徳を重んじるなら、貧賤だからといって自分を軽んじることもなく、富貴だからといって人を重んじることもない。これこそ孟子がここで痛烈に戒めているところである。

解説

孟子は、大人に意見するときは之れを藐んぜよ、その巍々然たるさまを見るなと言い、権力者の威勢に気圧されるなと説きました。楊時は孟子の角の多さを指摘し、仁斎は大人を軽んじるのは礼に反すると言いますが、松陰は、軽く見よと言われているのは人そのものではなく、豪邸やご馳走や行列といった外側の威勢だと読み解きます。人を身分で軽んじる者は必ず身分の高い者にへつらう、という指摘は鋭いところです。立場が上の人と話すとき、敬意と卑屈を取り違えないための一章です。

この章句が説くこと

気概敬意卑屈富貴道徳

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