講孟余話 / 盡心下 第三十五章
養心莫善於寡欲、余少時深ク此章ヲ愛玩ス、盖シ年十六七ノ時、寡欲錄ト云隨筆ヲ著セント欲ス、僅々数件ヲ筆シテ業ヲ廃、頃ロ之ヲ故紙中ニ得、其叙言ニ云ク、孟子曰養心莫善於寡欲、周子曰寡焉以至於無、孟周之言、於学者爲尤切矣、余因雜錄物欲之易陷而難悔者自誡、凡欲之易陷難悔者、多在所忽、詩文書画凡百玩好皆是也、其他物欲雖甚焉者、或難陷而易悔、何則外有所憚、内有所愧也、夫所忽者、臨焉不戒、故易陷、居之不疑、故難悔、而隱々害伏乎其中、可不愼哉、是余之所以有斯錄也ト、
新字:養心莫善於寡欲、余少時深ク此章ヲ愛玩ス、盖シ年十六七ノ時、寡欲録ト云随筆ヲ著セント欲ス、僅々数件ヲ筆シテ業ヲ廃、頃ロ之ヲ故紙中ニ得、其叙言ニ云ク、孟子曰養心莫善於寡欲、周子曰寡焉以至於無、孟周之言、於学者為尤切矣、余因雑録物欲之易陥而難悔者自誡、凡欲之易陥難悔者、多在所忽、詩文書画凡百玩好皆是也、其他物欲雖甚焉者、或難陥而易悔、何則外有所憚、内有所愧也、夫所忽者、臨焉不戒、故易陥、居之不疑、故難悔、而隠々害伏乎其中、可不慎哉、是余之所以有斯録也ト、
書き下し
「心を養ふは欲を寡くするより善きは莫し」。余少き時深く此の章を愛玩す。蓋し年十六七の時、寡欲録と云ふ随筆を著さんと欲す。僅々数件を筆して業を廃す。頃ろ之れを故紙中に得たり。其の叙言に云く、「孟子曰く、心を養ふは欲を寡くするより善きは莫しと。周子曰く、之れを寡くして以て無きに至ると。孟周の言、学者に於て尤も切なりと為す。余因りて物欲の陥り易くして悔い難き者を雑録して自ら誡む。凡そ欲の陥り易く悔い難き者は、多く忽にする所に在り、詩文書画凡百の玩好皆是れなり。其の他の物欲甚しき者と雖も、或は陥り難くして悔い易し。何となれば則ち外に憚る所有り、内に愧づる所有ればなり。夫れ忽にする所の者は、之れに臨みて戒めず、故に陥り易し。之れに居りて疑はず、故に悔い難し。而して隠々として害其の中に伏す、慎まざるべけんや。是れ余の斯の録有る所以なり」と。
現代語訳
「心を養うには、欲を少なくするのがいちばんよい」。私は若いころ、この章を深く愛読した。たしか十六、七歳のとき、「寡欲録」という随筆を書こうとして、わずか数条を書いただけでやめてしまった。最近それを古い紙の中から見つけた。その序文にこうある。「孟子は、心を養うには欲を少なくするのがいちばんよいと言い、周敦頤は、少なくしてついには無くするに至ると言った。孟子と周子の言葉は、学ぶ者にとってもっとも切実である。そこで私は、物欲のうち陥りやすく悔いにくいものを書き集めて自らの戒めとする。そもそも陥りやすく悔いにくい欲は、多くは軽く見ているところにある。詩文・書画など、あらゆる趣味の楽しみがそれである。その他の物欲は、ひどいものであっても、かえって陥りにくく悔いやすい。なぜなら、外には人目をはばかり、内には恥じる心があるからだ。軽く見ているものには、向き合っても戒めないので陥りやすく、それに浸っていても疑わないので悔いにくい。そうして害がひそかにその中に潜んでいる。慎まずにいられようか。これが私がこの記録を作るわけである」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「心を養うは、寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も、寡し。」
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『講孟余話』盡心下 第三十五章余因りて十年前を回思するに、当時の師友多く詩文書画を以て人を誘ふ。吾が二三の同学の如き、菅茶山集・頼山陽集なとを枕籍して、本芸とする者あるに至る。其の卑孱浅薄、亦嘔吐すべし。独り叔父玉団子岩先生は経義を以てし、父執治心気斎先生は兵学を以てし、以て後進を誘ふ。而して治心気斎尤も海賊を以て深憂とす。余是に於て憤を発し食を忘れ、辺防を講究す。謂へらく詩文書画は皆物を玩び志を喪ひ、閑思日を消するの魁なり、其の害固より淫声美色に過ぐ。淫声美色は又吾が性の嗜まざる所なれば、先づ詩文書画の欲より除去すべしと思へり。已にして東西周遊し、今日に至り幽囚に苦しむ。頗る少時と所見を異にす。詩文の如きは興来たれば亦作る、意生ずれば亦述ぶ、興去り意尽くれば則ち止む。謂へらく人性情あれば思慮あり、思慮あれば言語あり、言語あれば詩文あり、是れ自然の勢ひなり。性情思慮詩文、果して道義に出でて聖賢に繆らずんば、何ぞ是れを欲として憎まんや。但だ書画に至りては敢へてなさず。是れ敢へてなさざるに非ず、実に能くせざるなり。故に余前日の寡欲の説、今日は変じて薄欲となるのみ。薄と云ふ者は寡きに非ず、深く意を留めざるなり。山水風月より、詩文書画より、心目に接して真に楽しめば、敢へて禁ぜず。心目を去れば、亦敢へて追はず。然れども其の楽しむに当りてや、必ず道義の心油然として雲起し、聖賢を慕ふの念沛然として雨降し、未だ嘗て楽を以て本心を蔽はず、却つて楽を以て本心を起すに足るのみ。是れ余が薄欲の験なり。且つ聊か二先生の厚教に酬いんと欲する所なり。
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言志四録・言志耋録 第百五十一条 心を養ふは寡欲に善きは莫し心を養ふは寡欲より善きは莫し。君子の自ら養ふ者、宜しく是くの如くなるべし。人を待つに至りては、則ち然らず。人をして各々其の欲を達せしむるのみ。但だ欲にも亦公私有り。弁ずべし。
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『養生訓』巻第一・総論上一人の身をたもつには、養生の道をたのむべし、針灸と薬力とをたのむべからず。人の身には口腹耳目の欲ありて、身をせむるもの多し。古人のをしへに、養生のいたれる法あり。孟子にいはゆる寡慾これなり。宋の王昭素も、身を養ふ事は慾を寡くするにしくはなしと云へり。省心録にも、多慾則傷生といへり。およそ人のやまひは皆わが身の慾をほしいままにして、つつしまざるよりおこる、養生の士は、つねにこれを戒とすべし。
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『講孟余話』盡心上 第十七章「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し。此くの如きのみ」。為さざる所は即ち良能なり、欲せざる所は良知なり。合せて是れを云へば性なり。無為無欲は率ふの謂なり。此の章率性の二字を以て解すべし。中庸首章に云く、「性に率ふ之を道と謂ふ」と、是れなり。古今大聖大賢亦豈に此の外一毫の事あらんや。故に云ふ、「此くの如きのみ」と。是等の章多言を待たず、只切実自反するにあるのみ。又下篇、「仁者は其の愛する所を以て、其の愛せざる所に及ぼし、不仁者は其の愛せざる所を以て、其の愛する所に及ぼす」、及び「人皆忍びざる所あり、之を其の忍ぶ所に達するは仁なり。人皆為さざる所あり、之を其の為す所に達するは義なり」と、参へ考へて益々其の手を下す所を知るべし。是の章純ら本心を以て云ひて、下篇は乃ち私意を兼ねて云ふのみ。
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『慎思録』巻之一道理は本自ら広大なり。其の粗浅なる処は、愚夫愚婦と雖も、以て与に知るべし。其の精深なる処は、知者に非ざれば、則ち通徹すること能はず。苟も知慮精明ならんと欲せば、天資聡敏の人と雖も、亦寡欲養心の助け有るに非ざれば、則ち能はざるなり。
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