講孟余話 / 盡心下 第三十二章
言々語々、我党ノ事ニ切也、筆ヲ下シテ割記スル所ヲ知ラス、若シ强テ割記セハ、亦是人ノ田ヲ芸ル也、唯本文ヲ以テ痛熟細思シ、是ヲ肝膽ニ銘スヘキノミ、抑人ノ田ヲ芸ル、猶是可ナリ、我党ニ至テハ、直ニ人ノ芸ルヲ傍觀シテ、是カ高下是非ノ、人ニ求メ自ラ任スルノ輕重、言ハズシテ知ルヘシ
新字:言々語々、我党ノ事ニ切也、筆ヲ下シテ割記スル所ヲ知ラス、若シ強テ割記セハ、亦是人ノ田ヲ芸ル也、唯本文ヲ以テ痛熟細思シ、是ヲ肝胆ニ銘スヘキノミ、抑人ノ田ヲ芸ル、猶是可ナリ、我党ニ至テハ、直ニ人ノ芸ルヲ傍観シテ、是カ高下是非ノ、人ニ求メ自ラ任スルノ軽重、言ハズシテ知ルヘシ
書き下し
言々語々、我が党の事に切なり。筆を下して割記する所を知らず。若し強ひて割記せば、亦是れ人の田を芸るなり。唯だ本文を以て痛熟細思し、是れを肝胆に銘ずべきのみ。抑々人の田を芸る、猶是れ可なり。我が党に至りては、直ちに人の芸るを傍観して、是れが高下是非の、人に求め自ら任ずるの軽重、言はずして知るべし。
現代語訳
(孟子は、人の病は自分の田を放っておいて人の田の草取りをし、人に求めることは重く、自分で引き受けることは軽いことだ、と言う。)この章は一語一語が、われわれのことに切実である。筆を下ろして書き記すべきことがわからない。もし無理に書けば、それこそ人の田の草取りをすることになる。ただ本文をよくよく読みこんで細かく考え、肝に銘じるほかない。そもそも人の田の草取りをするのは、まだましである。われわれに至っては、人が草取りをするのをそばで眺めて、その出来の上下や是非をあれこれ言うばかりだ。人に求めることと自分が引き受けることの重さの違いは、言わなくてもわかるだろう。
解説
この章句が説くこと
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