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正法眼蔵随聞記 / 巻四

示して云く、古へに、三たび復さふして後に云へと、云ふ心は、凡そものを云はんとする時も、事を行せんとする時も、必ず三たび復さふして後に言行すべしとなり、先儒のおもはくは三度び思ひかへりみるに、三度びながら善ならば云ひ行なへと云ふなり、宋土の賢人等の心ろは、三度び復さふすと云ふは、幾度も復せと謂ふ心なり、言ばよりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふたびごとにかならず善なれば言行すべきとなり、衲子も亦必ず然かあるべし、我が思ふことも、言ふことも、あしきことあるべき故に、まづ佛道に合ふや否やとかへりみ、自他の爲に益ありやいなやと能々思ひかへりみて、後に善なるべくんば行ひもし、言ひもすべきなり、行者若しかくのごとく心を守らば、一期佛意に背かざるへし、

新字:示して云く、古へに、三たび復さふして後に云へと、云ふ心は、凡そものを云はんとする時も、事を行せんとする時も、必ず三たび復さふして後に言行すべしとなり、先儒のおもはくは三度び思ひかへりみるに、三度びながら善ならば云ひ行なへと云ふなり、宋土の賢人等の心ろは、三度び復さふすと云ふは、幾度も復せと謂ふ心なり、言ばよりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふたびごとにかならず善なれば言行すべきとなり、衲子も亦必ず然かあるべし、我が思ふことも、言ふことも、あしきことあるべき故に、まづ仏道に合ふや否やとかへりみ、自他の為に益ありやいなやと能々思ひかへりみて、後に善なるべくんば行ひもし、言ひもすべきなり、行者若しかくのごとく心を守らば、一期仏意に背かざるへし、

書き下し

示して云く、古へに、三たび復さふして後に云へと、云ふ心は、凡そものを云はんとする時も、事を行せんとする時も、必ず三たび復さふして後に言行すべしとなり、先儒のおもはくは三度び思ひかへりみるに、三度びながら善ならば云ひ行なへと云ふなり、宋土の賢人等の心ろは、三度び復さふすと云ふは、幾度も復せと謂ふ心なり、言ばよりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふたびごとにかならず善なれば言行すべきとなり、衲子も亦必ず然かあるべし、我が思ふことも、言ふことも、あしきことあるべき故に、まづ仏道に合ふや否やとかへりみ、自他の為に益ありやいなやと能々思ひかへりみて、後に善なるべくんば行ひもし、言ひもすべきなり、行者若しかくのごとく心を守らば、一期仏意に背かざるへし、

現代語訳

示して言われた。古に、三たび思い返して後に言え、と。言う心は、およそ物を言おうとする時も、事を行おうとする時も、必ず三たび思い返して後に言い行うべきだ、ということである。先の儒者の考えでは、三度思い返して、三度ながら善であるなら言い行えと言うのである。宋の賢人たちの心は、三度思い返すというのは幾度も思い返せという心である。言葉より先に思い、行いより先に思い、思うたびごとに必ず善であるなら言い行うべきだ、ということである。修行僧もまた必ずそうあるべきである。自分の思うことも言うことも、悪い事があるはずであるから、まず仏道に合うか否かと振り返り、自他のために益があるかないかとよくよく思い返して、後に善であるなら行いもし、言いもすべきである。行者がもしこのように心を守るならば、一生仏の御意に背かないであろう。

解説

三たび思うという古い教えを、回数の指定ではなく幾度もの意だと読み直す。そのうえで具体的な二つの基準が示される。仏道に合うか、自他の益になるか。この二つを通してから言い、行う。前の巻の、押し静めてから道理を考えよという条と同じ手順が、ここではより明確な形になっている。

この章句が説くこと

思量言行自省基準仏意儒者

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