呻吟語 / 内篇・修身・義を見て為さず、之を眾に違ふに托す
見義不為,又托之違眾,此力行者之大戒也。若肯務實,又自逃名,不患於無術,吾竊以自恨焉。
新字:見義不為,又托之違衆,此力行者之大戒也。若肯務実,又自逃名,不患於無術,吾窃以自恨焉。
書き下し
義を見て為さず、又た之を眾に違ふに托す。此れ力行する者の大戒なり。若し肯へて務實し、又た自ら名を逃れば、術無きを患へず。吾竊かに以て自ら恨む。
現代語訳
なすべきことを見ながらせず、それを大勢に逆らえないからだと言い訳する。これは実行しようとする者への大きな戒めです。もし本気で実を務め、なおかつ自分から名を避けるなら、やり方が無いことを心配する必要はありません。私はひそかにそれができないことを恨んでいます。
解説
周りが動かないから自分も動けない、という言い訳を封じます。そのうえで、本気で実行し、しかも名を避けるなら、方法は必ず見つかると言います。名を求めないなら手段は自由になる、という理屈が効いています。そして最後に、自分にはそれができていないと書き添える。他人への戒めを自分に折り返して終える書き方が、この書の基調です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
実行言い訳同調務実自省
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