墨子 / 貴義
子墨子曰:言足以遷行者,常之;不足以遷行者,勿常。以遷行而常之,是蕩口也。
書き下し
子墨子曰く、言、以て行いを遷すに足る者は、之を常とす。以て行いを遷すに足らざる者は、常とする勿かれ。以て行いを遷して之を常とするは、是れ口を蕩かすなり。
現代語訳
墨子が言った。言葉のうち、行いを動かすに足るものは常のこととせよ。行いを動かすに足らないものは、常のこととするな。行いを動かさないのにそれを常のこととするのは、口を動かしているだけである。
解説
耕柱篇にほぼ同じ一節があります。同じ主張が二度出てくるのは、それだけ墨家が繰り返し言っていたということでしょう。ここでの言い方は「遷行」——行いを移す、動かすという語で、言葉の値打ちを、聞いた人の行動が変わるかどうかで測っています。会議で決まった言葉を、この基準で選り分けられます。誰の何が変わったかを言えない決定は、決まっていません。
この章句が説くこと
言行実行基準変化口
関連する章句
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『墨子』耕柱子墨子曰く、「言、以て行いを復するに足る者は、之を常とす。以て行いを舉ぐるに足らざる者は、常とする勿かれ。以て行いを舉ぐるに足らずして之を常とするは、是れ口を蕩かすなり」と。
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『大和俗訓』巻之六・躬行上一中庸曰く、言は行を顧み、行は言を顧みる。言ふ意は、言と行とは相違なかるべし。言を出すに、わが身の行をかへりみて言ふべし。事を行ふには、己が言をかへりみて行ふべし。言ふ事はやすく、行ふ事はかたし。故に言はひかへていひ、行は言より過すべし。如此すれば、言と行と相違なし。口にいふ事あまり有りて、身に行ふ事足らざるは、是言行のそむけるなり。恥づべし。
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『墨子』公孟告子、子墨子に謂いて曰く、「我れ國を治め政を為さん」と。子墨子曰く、「政なる者は、口に之を言い、身に必ず之を行う。今、子は口に之を言いて、身は行わず。是れ子の身、亂るるなり。子、子の身を治むる能わず。惡んぞ能く國政を治めんや。子、姑く子の身の亂るるを防げ」と。
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『墨子』耕柱子夏の徒、子墨子に問いて曰く、「君子に鬬有りや」と。子墨子曰く、「君子に鬭無し」と。子夏の徒曰く、「狗狶すら猶お鬬有り。惡んぞ士有りて鬬無からんや」と。子墨子曰く、「傷ましいかな。言えば則ち湯・文に稱し、行えば則ち狗狶に譬う。傷ましいかな」と。
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云く、古へに、三たび復さふして後に云へと、云ふ心は、凡そものを云はんとする時も、事を行せんとする時も、必ず三たび復さふして後に言行すべしとなり、先儒のおもはくは三度び思ひかへりみるに、三度びながら善ならば云ひ行なへと云ふなり、宋土の賢人等の心ろは、三度び復さふすと云ふは、幾度も復せと謂ふ心なり、言ばよりさきに思ひ、行よりさきに思ひ、思ふたびごとにかならず善なれば言行すべきとなり、衲子も亦必ず然かあるべし、我が思ふことも、言ふことも、あしきことあるべき故に、まづ仏道に合ふや否やとかへりみ、自他の為に益ありやいなやと能々思ひかへりみて、後に善なるべくんば行ひもし、言ひもすべきなり、行者若しかくのごとく心を守らば、一期仏意に背かざるへし、
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