講孟余話 / 盡心下 第三十章
若シ朱說ノ如ク、或人自悟其非云々ノ訳ナラハ、何ソ盛ニ孟子教化ノ妙、惡人邪人ト云トモ、変シテ善人正人トナルノ美ヲ称揚セサル、其美ヲ称セスシテ、斯受之而已矣ヲ云フ、其意明白ト云ヘシ、前輩是等ノ処ニ於テ都テ說明セス、盖シ孟子ニ阿諛スルノ弊然ル也、輔氏廣曰、近世好議論者、往々以学者之失、而議先生長者、是其識量又不逮於當時織屨者矣、此說當レリ、館人ノ語、三復味益々尽キス、今諸君ト松下村ノ風化ヲ起サント欲ス、宜シク此語ヲ以テ令甲トナスヘシ、遺忘スルコトナカレ、往者不追、然トモ其前日ノ善美ヲ忘ルヽコトナカレ、來者不拒、又其前日ノ過惡ヲ記スルコトナカレ、苟以是心至、斯受之而已矣、徒ニ心ノミニ非ス、斯面ヲ以テ來ル者ト云トモ、亦是ヲ受ケンノミ
新字:若シ朱説ノ如ク、或人自悟其非云々ノ訳ナラハ、何ソ盛ニ孟子教化ノ妙、悪人邪人ト云トモ、変シテ善人正人トナルノ美ヲ称揚セサル、其美ヲ称セスシテ、斯受之而已矣ヲ云フ、其意明白ト云ヘシ、前輩是等ノ処ニ於テ都テ説明セス、盖シ孟子ニ阿諛スルノ弊然ル也、輔氏広曰、近世好議論者、往々以学者之失、而議先生長者、是其識量又不逮於当時織屨者矣、此説当レリ、館人ノ語、三復味益々尽キス、今諸君ト松下村ノ風化ヲ起サント欲ス、宜シク此語ヲ以テ令甲トナスヘシ、遺忘スルコトナカレ、往者不追、然トモ其前日ノ善美ヲ忘ルヽコトナカレ、来者不拒、又其前日ノ過悪ヲ記スルコトナカレ、苟以是心至、斯受之而已矣、徒ニ心ノミニ非ス、斯面ヲ以テ来ル者ト云トモ、亦是ヲ受ケンノミ
書き下し
若し朱説の如く、「或人自ら其の非を悟る」云々の訳ならば、何ぞ盛んに孟子教化の妙、悪人邪人と云へども、変じて善人正人となるの美を称揚せざる。其の美を称せずして、「斯に之れを受くるのみ」を云ふ、其の意明白と云ふべし。前輩是等の処に於て都べて説明せず、蓋し孟子に阿諛するの弊然るなり。輔氏広曰く、「近世議論を好む者、往々学者の失を以て先生長者を議す、是れ其の識量又当時の屨を織る者に逮ばず」と。此の説当れり。館人の語、三復して味はひ益々尽きず。今諸君と松下村の風化を起さんと欲す、宜しく此の語を以て令甲となすべし、遺忘することなかれ。往く者は追はず、然れども其の前日の善美を忘るることなかれ。来る者は拒まず、又其の前日の過悪を記することなかれ。苟も是の心を以て至らば、斯に之れを受くるのみ。徒に心のみに非ず、斯の面を以て来たる者と云へども、亦是れを受けんのみ。
現代語訳
もし朱子の説のように「ある人は自分の誤りを悟った」という意味なら、どうして孟子の教化の巧みさ、悪人や邪な人でも変わって善人・正しい人になるという美点を、大いにほめたたえないのか。その美点をほめずに「そのまま受け入れるだけだ」と言っているのだから、その意味は明白というべきだ。先輩たちはこういう所をまったく説明しない。思うに孟子にへつらう弊のせいである。輔広は「近ごろ議論を好む者は、しばしば弟子の過ちを口実に先生や長者をあげつらう。その見識と度量は、当時のわらじを編む者にも及ばない」と言っている。この説は当たっている。宿の者の言葉は、くり返し味わうほどに味わいが尽きない。今、諸君と松下村の気風を起こそうとしている。この言葉を掟としなさい。忘れてはならない。去る者は追わない、しかしその人の以前の善いところを忘れてはならない。来る者は拒まない、またその人の以前の過ちを覚えておいてはならない。いやしくも学ぼうという心で来るなら、そのまま受け入れるだけだ。いや、心だけではない。この顔ひとつでやって来る者でも、受け入れるだけである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『講孟余話』盡心下 第三十章然りと雖も此の館人は隠君子なり、固より侮るべからず。「夫子の科を設くるや」の数語、聖賢の指に合ふことあるは論を待たず。其の言温かに其の気平らかなりと云へども、実に深く孟子を反詰するなり。謂へらく、夫子の従者とて、悉く顔・曾・冉・閔に非ず、又孺悲・闕童もあらん、又安んぞ屨を廋す者なきを知らん。然れども是れ亦夫子の罪にはあらず。「往く者は追はず、来る者は拒まず、是の心を以て至らば、斯に之れを受くるのみ」の教へなれば、其の勢ひ屨を廋すに至るとも、亦何ぞ傷まん、却つて夫子の広大を見るに足るのみと。是に於て蓋し孟子の気折れ顔和らぎ、又一言なかりしと想はる。七篇中、告子・淳于髠の輩の如き、言語を以て孟子を圧倒せんと欲して、却つて孟子の罵詈を受くる者、一にして足らず。何ぞ此の館人の温言平気以て孟子を心服せしむるに如かんや。然らば則ち此の館人隠君子にして侮るべからずと云ふとも、豈に不可ならんや。
-
『講孟余話』盡心下 第三十章此の章の事理、朱註説明せず。館人業屨を牖上に置きて之れを失ふ。而して或人、此の人即ち屨を織るの館人ならん、然らずんば区々たる一業屨の為に、館人豈に故らに他人を倩ひて孟子に問はんや、下文に館人と云ふ者は皆此の人を云ふなり、遽かに孟子の従者の廋せるを疑ふ、疎忽の甚しきなり。然れども屨を織るが如きは是れ賤人奴隷の事、孟子乃ち此の輩に対して、此の過激の語をなす、最も君子長者の風なしと云ふべし。且つ孟子の言に云く、「是れを以て屨を竊まんが為に来たると為すか」とは何等の過激ぞや。全く是れ閭里の悪少年の喧嘩腰の語にて、又対ふべき様もなき云ひ分なり。館人の言疎忽と云へども、敢へて孟子の従者を以て屨を竊む為めに来たるとは云はぬなり。但だ廋せるにてはなきかと疑ふなり。廋すと云へば、戯れに廋すも廋すなり、誤つて廋すも廋すなり、竊んで廋すも廋すなり。廋の字は隠なり、匿なり、隠伏詭譎の意あり。多くは悪意を以てする事に似たれども、竊に比すれば大いに径庭あり。故に孟子をして真に君子長者の風あらしめば、唯だ温言恭色して従者を詮議し、然る後其の真に廋さざる由を喩して可なり。
-
孟子・盡心章句下孟子滕に之き、上宮に館す。牖上に業屨有り。館人之を求むるも得ず。或ひと之に問いて曰く、「是の若きか、從者の廋(かくす)すや。」曰く、「子は是れ屨を竊むが為に來たれりと以えるか。」曰、「殆ど非なり。」「夫れ予の科を設くるや、往く者は追わず、來たる者は距まず。苟くも是の心を以て至らば、斯に之を受くるのみ。」
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「墨を逃るれば必ず楊に歸し、楊を逃るれば必ず儒に歸す。歸すれば斯に之を受けんのみ。今の楊・墨と辯ずる者は、放豚を追うが如し。既に其の苙に入れば、又從って之を招ぐ。」
-
『講孟余話』盡心下 第三十一章大氐此の人、小用すれば小誉あり、小害あり、大用すれば大誉あり、大害あり。其の器量又大小数等あり。然れども其の言はざるを以て之れを餂ることは則ち一なり。言を以て之れを餂る者も亦三数等あり。便佞は論ずるに足らず。又利口喋々、才能を示さんと欲する者あり、是れ曹参・張釈之の取らざる所、其の薄情悪むべし。又侃々諤々、鯁直を耀かさんと欲する者あり、是れ或は可にして未だ全く可ならず、畢竟国の為にするの志、身の為にするの私に勝ち得ず。抑々余が如き、正直国を憂ふるを以て自ら任ず。一二の同志、亦或は其の真心能く然るを許すものあり。然れども自ら反省するに、遂に言を以て之れを餂るの私心未だ全く銷尽せず、豈に甚だ慙づべきの甚しきに非ずや。凡そ穿窬は其の悪顕明、人得て之れを咎め、官得て之れを罪す。之れを餂るは其の情隠微、人皆之れを喜び、官皆之れを愛す。然らば則ち之れを餂るの愧恥たる、士自ら是れを知るに非ずんば、義気将に天地の間に滅絶せんとす。是れ吾が党の任なり。
-
『講孟余話』盡心下 第三章余前後の章を以て考ふるに、此の章の主意は「仁人は天下に敵無し」の一句にあり。孟子謂へらく、仁人は敵無しと云ふと雖も、人或いは武成に「血流れて杵を漂はす」の語あるを以て証とし、仁人と云へども未だ必ずしも敵無きにあらずと云はんことを恐れ、因りて「吾武成に於て」云々と云ひ、又因りて「尽く書を信ず」云々と云ふ。故に「尽く書を信ず」云々の語は、汎く読書の法を論ずる如しと云へども、実は武成に因りて発す。「武成に二三策を取る」の説は、汎く武成を論ずる如しと云へども、実は「血流れて杵を漂はす」の語より発するなり。朱註に云く、「書の本意は乃ち商人自ら相殺すを謂ふ、武王之れを殺すを謂ふに非ざるなり。孟子の是の言を設くるは、後世の惑ひて且つ不仁の心を長ぜんことを懼るるのみ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る