童子問 / 卷下
大學曰。知所先後。則近道矣。論語曰。信近於義。言可復也。恭近於禮。遠恥辱也。若使後儒言之。必曰。知所先後。則合道。必曰。信合於義。恭合於禮。而不可用近字。然聖賢皆言近者。何哉。中庸云。忠恕違道不遠。亦言近也。葢道之廣大。何所執守。故唯要主忠信。而不要强爲。主忠信。則雖不中不遠。强爲。則外似而內實非。聖人之道。優優洋洋。不得促迫。不得牽强。顏子之亞聖。猶曰。三月不違於仁。曾子之篤行。亦至疾革。而初易簀。天地之化亦然。二十四節。七十二候。或進或退。寒熱温凉。不能截然悉如其數。亦活物故也。語曰。禮與其奢也。寧儉。又曰。奢則不遜。儉則固。與其不遜也。寧固。寧者。庶幾之辭。亦近之謂也。聖人豈不欲其一一得中。而不可必得。故謂之寧。葢敎人以退一步而就質實也。註家不知聖人微意之所在。乃於前章解之曰。禮貴得中。奢則過。儉則不及。二者皆不合禮。又解後章曰。奢儉倶失中。不得已而救時之弊也。果若其說。則是聖人之言。皆半上落下。不足爲敎也。明道先生曰。道之浩浩。何處下手。惟立誠。纔有可居之處。又曰。惟進誠心。其文章雖不中。不遠矣。伊川先生曰。人道唯在忠信。皆確言。人不知其意味之深長。
新字:大学曰。知所先後。則近道矣。論語曰。信近於義。言可復也。恭近於礼。遠恥辱也。若使後儒言之。必曰。知所先後。則合道。必曰。信合於義。恭合於礼。而不可用近字。然聖賢皆言近者。何哉。中庸云。忠恕違道不遠。亦言近也。葢道之広大。何所執守。故唯要主忠信。而不要強為。主忠信。則雖不中不遠。強為。則外似而内実非。聖人之道。優優洋洋。不得促迫。不得牽強。顔子之亜聖。猶曰。三月不違於仁。曽子之篤行。亦至疾革。而初易簀。天地之化亦然。二十四節。七十二候。或進或退。寒熱温凉。不能截然悉如其数。亦活物故也。語曰。礼与其奢也。寧倹。又曰。奢則不遜。倹則固。与其不遜也。寧固。寧者。庶幾之辞。亦近之謂也。聖人豈不欲其一一得中。而不可必得。故謂之寧。葢教人以退一歩而就質実也。註家不知聖人微意之所在。乃於前章解之曰。礼貴得中。奢則過。倹則不及。二者皆不合礼。又解後章曰。奢倹倶失中。不得已而救時之弊也。果若其説。則是聖人之言。皆半上落下。不足為教也。明道先生曰。道之浩浩。何処下手。惟立誠。纔有可居之処。又曰。惟進誠心。其文章雖不中。不遠矣。伊川先生曰。人道唯在忠信。皆確言。人不知其意味之深長。
書き下し
大学に曰く、先後する所を知れば、則ち道に近しと。論語に曰く、信義に近ければ、言復むべし。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかると。若し後儒をして之を言はしめば、必ず曰はん、先後する所を知れば、則ち道に合ふと。必ず曰はん、信義に合ひ、恭礼に合ふと。而して近の字を用ふべからず。然るに聖賢皆近と言ふ者は、何ぞや。中庸に云ふ、忠恕は道を違ること遠からずと。亦近きを言ふなり。蓋し道の広大なる、何の執守する所ぞ。故に唯忠信を主とすることを要して、強ひて為すことを要せず。忠信を主とすれば、則ち中らずと雖も遠からず。強ひて為せば、則ち外は似て内は実に非なり。聖人の道は、優優洋洋として、促迫することを得ず、牽強することを得ず。顔子の亜聖も、猶曰く、三月仁に違はずと。曾子の篤行も、亦疾革まるに至つて、初めて簀を易ふ。天地の化も亦然り。二十四節、七十二候、或は進み或は退き、寒熱温涼、截然として悉く其の数のごとくなること能はず。亦活物なるが故なり。語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固なり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれと。寧とは庶幾の辞にして、亦近きの謂なり。聖人豈に其の一一中を得んことを欲せざらんや。而れども必ずしも得べからず。故に之を寧と謂ふ。蓋し人に教ふるに一歩を退きて質実に就くを以てするなり。註家は聖人の微意の在る所を知らず、乃ち前章に於て之を解して曰く、礼は中を得るを貴ぶ。奢れば則ち過ぎ、倹なれば則ち及ばず。二者皆礼に合はずと。又後章を解して曰く、奢倹倶に中を失ふ。已むことを得ずして時の弊を救ふなりと。果して其の説のごとくならば、則ち是れ聖人の言、皆半上落下にして、教と為すに足らざるなり。明道先生曰く、道の浩浩たる、何れの処にか手を下さん。惟誠を立てて、纔かに居るべきの処有りと。又曰く、惟誠心を進むれば、其の文章中らずと雖も遠からずと。伊川先生曰く、人の道は唯忠信に在りと。皆確言なり。人其の意味の深長なることを知らず。
現代語訳
大学に「物事の先後を知れば、道に近い」とあり、論語に「約束が義に近ければ、その言葉は実行できる。恭しさが礼に近ければ、恥辱から遠ざかる」とある。もし後世の儒者に言わせれば、必ず「先後を知れば道に合う」と言い、「信は義に合い、恭は礼に合う」と言って、「近」の字は使えないだろう。それなのに聖賢がみな「近い」と言うのはなぜか。中庸に「忠恕は道から隔たること遠くない」とあるのも、やはり近いことを言っている。思うに道は広大であり、何を固守するというのか。だからただ忠信を主とすることが肝要であって、無理に行うことは要らない。忠信を主とすれば、ぴたりと当たらなくても遠くはない。無理に行えば、外見は似ていても内実は違う。聖人の道はゆったりとして広々としており、せき立てることもこじつけることもできない。亜聖の顔子でさえ「三か月の間、仁に違わなかった」と言われ、篤実な行いの曾子も病が重くなってはじめて寝床の簀を取り替えた。天地の運行もそうである。二十四節気や七十二候も、進んだり遅れたりして、寒暑温涼がすっぱりと暦の数どおりにはいかない。これもまた生きたものだからである。論語に「礼は奢るよりはむしろ倹約せよ」とあり、また「奢れば不遜になり、倹約すれば頑なになる。不遜であるよりはむしろ頑なであれ」とある。「寧(むしろ)」とは「それに近い」という言葉で、これもまた近いという意味である。聖人が一つ一つ中を得ることを望まなかったはずがない。しかし必ず得られるとは限らない。だから「寧」と言ったのである。人に、一歩退いて質実な方につくことを教えたのである。注釈家は聖人のかすかな意図のあるところを知らず、前の章を解釈して「礼は中を得ることを貴ぶ。奢れば行き過ぎ、倹約すれば及ばない。二つともに礼に合わない」と言い、後の章を解釈して「奢も倹もともに中を失っている。やむをえず時の弊害を救ったのだ」と言う。もし本当にその説のとおりなら、聖人の言葉はみな中途半端で、教えとするに足りないことになる。程明道先生は「道は広大であって、どこに手を下せばよいか。ただ誠を立てて、ようやく身を置くところができる」と言い、また「ただ誠の心を進めれば、その文章がぴたりと当たらなくても遠くはない」と言った。程伊川先生は「人の道はただ忠信にある」と言った。みな確かな言葉である。人はその意味の深さを知らない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六吾が夫子は文行忠信を以て教へと為し、且つ屢忠信を主とすることを言ふ。蓋し学問の道は、文を学びて以て道を明らかにし、力行して以て善を為し、忠信を主として以て誠を立つ。此の三者、一を闕くべからず。蓋し文行に非ずば、則ち理を窮め善を為すこと能はず。忠信に非ずば、則ち文行も亦進益を得ず、皆虚妄なるのみ。蓋し人道は只忠信に在り。忠信ならずば徳を立つるの基無し。故に易に曰く、忠信は徳に進む所以なりと。郷里の常人と雖も、苟も忠信無くば、則ち世に立つべからず。況んや君子の道をや。此の故に君子は之を誠にするを貴しと為す。
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『五常訓』巻之五・信賢人以下は、天道聖人の如くならざれども、つとめて此誠を行ふは、是人の力を用ひて行ふ理なれば、人の道なりといへり。誠にあらざれば、天道人道共にたたず。故に孔子も、主忠信とのたまふ。忠信は人の誠、誠之者人の道といへる、是なり。程子も、人道は唯忠信にあり。誠ならざれば物なしといへり。又古語に、五常百行、誠に非ざれば非なり。其実なければ、此名なし。忠信は、即人の誠なり。程子も、己を尽くす之を忠と謂ひ、実を以てする之を信と謂ふといへり。心をつくして残さざるを忠とし、言と行とに実を用ひて、いつはらざるを信と云ふ。心にある誠を忠とし、言行にあらはれたる誠を信と云ふ。
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『五常訓』巻之五・信初にうけ合はざるは、しばらく人の心に喜ばずといへども、信に害なし。心よわく又気かろがろしくして、たやすくうけあひ、後に其約違ひぬれば、甚信に害あり。されど人の為に謀つて忠あるは、人にまじはる道なれば、なるべき理だにあらば、うけ合ひて心を尽すべし。是忠厚の道なり。誠は実理なり。ここを以て、真実无妄之を誠と謂ふと、程子もいへり。中庸に誠は天の道なりといへるは、天道の実理、自然に行はるるを云ふ。聖人の誠も、亦同じ。つとめずして、自ら実なるなり。又曰く、之を誠にする者は人の道なりといへるは、人の力を用ひて、つとめなすを誠之と云ふ。是即忠信なり。つとめずして自然なるは誠なり。つとめて実なるは忠信なり。誠は理なり。忠信は心なり。
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『大和俗訓』巻之三・心術上忠信は即人の誠なり。誠といはずして、忠信とのたまへるは、心にいつはりなくするは忠なり。言と事とにいつはりなくするは信なり。誠は天理の自然を云ふ。忠信は人のつとめ行へる誠を云ふ。理は一にして、おのづからなると、つとむるとの別あり。程子も、人道は唯忠信にあり、誠ならざれば物なしといへり。君父につかふるにも、誠なければ忠孝にあらず、万の事、誠なければ、さばかりの善事をなすといへど、偽となれば実事にあらず。つとめ行ふもあだごとなり。是無物なり。善事をつとめ行はば、名利のためにせずして、誠を以て行ふべし。是誠の善なり。
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『五常訓』巻之四・礼一礼器云、先王の礼を立つる、本あり、文あり。忠信は礼の本なり。義理は礼の文なり。本無ければ立たず。文なければ行はれず。いふ心は、礼に本あり。忠信を本とす。忠信はまことなり。礼に文あり。義理を文とす。義理とは、外に行ふ処のあらはれたるしわざの、すぢめよきを云ふ。本なければ礼の道立たず。万の事、皆誠より出づ。誠なければ物なし。されど又外のわざ、理にかなはざれば、文無くして、礼の道行はれず。必本末二ながらそなはりて、礼の道全し。されど先本をつとむるを要とすべし。忠信を本として、礼文行はるるは、たとへば味甘き物は、五味の和をうけ、色白きものは、五色の采をうくるが如し。忠信ある人は礼を学ぶべし。質よき故に、外の礼文そなはりやすし。
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『慎思録』巻之二聖人の教へは、忠信を主とするを以て本と為す。所謂之を誠にせんと思ふ者は、人の道なり。居敬を以て忠信を主とするの工夫と為す。苟も忠信を以て主と為さずして、徒に敬を以て一心の主宰と為さば、是れ工夫を以て心の主と為すなり。恐らくは敬に偏りて、流れて束縛強持の病と為らん。甚だしきは色仁を執りて、行ひ違ふ者之有り。夫れ敬は古来聖賢伝授の心法なり。然るに近世の持敬者は、一副当の病と為る。学者須らく居敬の方を知りて、而る後に持敬すべし。
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