講孟余話 / 盡心下 第十七章
易ニ云フ如ク、君子ハ幾ヲ見テ作、日ヲ終ルコトヲ待タスノ理ニテ、道ノ否泰、時ノ可否ハ聖人一目瞭然ニシテ、速久處仕已ニ初ニ決ス、亦明決ナラスヤ、然トモ其事ニ當リ、其國ニ居ル時ハ否泰モ可否モ顧ミス、唯心力ノ至極ヲ尽ス、亦忠厚ナラスヤ、聖人ノ忠厚他國ト云トモ、薄キニ非ス、其明決父母ノ國ト云ヘトモ鈍キニ非ス、然トモ人情ノ至リ、二ツノ者ノ別ナキコト能ハサルハ、聖人ト云ヘトモ、凢人ト同シキコトニテ、所謂情ノ至ル所、理モ亦至ル者是也、且凢人ノ情ヲ以テ考フルニ、余数年他邦ニ周游ス、至ル常ニ歡ヲ尽ス、其去ルニ臨ンテ又常ニ恋々忍ヒサルノ情アリ、乃チ江山風月ニ至ル迄、離合ノ感アル者ノ如シ、然トモ遂ニ去國ノ情ニ比シ難シ、萩城東南郭外大屋村ノ道傍ニ涙松ト云アリ、此松ヲ過レハ復タ萩城ヲ見ルコト能ハス、故ニ俗ニ云、旅立ノ人此松ヲ見レハ皆涙ヲ墮サヽルハナシ、因テ此名ヲ獲タリト、宜シク此松ニ因テ此情ヲ知ルヘシ、孔子ノ遲々トシテ行、豈復タ別情ナランヤ、然トモ此情人々アリト云トモ、此情ニ因テ発明スルコト能ハサルハ凢人ノ常也、夫人情自國ヲ恋フコト斯ニ至ル者他ナシ、君アリ、親アリ、墳墓アリ、室家アルヲ以テ也、苟モ思ヲ爰ニ致サハ、忠臣二君ニ仕ヘサルノ理自ラ明ニシテ、防長ノ臣民ハ防長ニ死生スヘク、皇國ノ臣民ハ皇國ニ死生スヘキノ義ニ至テ何ソ疑ヲ容レン、是レ余講孟劄記ヲ作ル第一義ナリ、故ニ開卷ニ於テ已ニ是ヲ論ス、合セ考フヘシ、第十八章
新字:易ニ云フ如ク、君子ハ幾ヲ見テ作、日ヲ終ルコトヲ待タスノ理ニテ、道ノ否泰、時ノ可否ハ聖人一目瞭然ニシテ、速久処仕已ニ初ニ決ス、亦明決ナラスヤ、然トモ其事ニ当リ、其国ニ居ル時ハ否泰モ可否モ顧ミス、唯心力ノ至極ヲ尽ス、亦忠厚ナラスヤ、聖人ノ忠厚他国ト云トモ、薄キニ非ス、其明決父母ノ国ト云ヘトモ鈍キニ非ス、然トモ人情ノ至リ、二ツノ者ノ別ナキコト能ハサルハ、聖人ト云ヘトモ、凢人ト同シキコトニテ、所謂情ノ至ル所、理モ亦至ル者是也、且凢人ノ情ヲ以テ考フルニ、余数年他邦ニ周游ス、至ル常ニ歓ヲ尽ス、其去ルニ臨ンテ又常ニ恋々忍ヒサルノ情アリ、乃チ江山風月ニ至ル迄、離合ノ感アル者ノ如シ、然トモ遂ニ去国ノ情ニ比シ難シ、萩城東南郭外大屋村ノ道傍ニ涙松ト云アリ、此松ヲ過レハ復タ萩城ヲ見ルコト能ハス、故ニ俗ニ云、旅立ノ人此松ヲ見レハ皆涙ヲ堕サヽルハナシ、因テ此名ヲ獲タリト、宜シク此松ニ因テ此情ヲ知ルヘシ、孔子ノ遅々トシテ行、豈復タ別情ナランヤ、然トモ此情人々アリト云トモ、此情ニ因テ発明スルコト能ハサルハ凢人ノ常也、夫人情自国ヲ恋フコト斯ニ至ル者他ナシ、君アリ、親アリ、墳墓アリ、室家アルヲ以テ也、苟モ思ヲ爰ニ致サハ、忠臣二君ニ仕ヘサルノ理自ラ明ニシテ、防長ノ臣民ハ防長ニ死生スヘク、皇国ノ臣民ハ皇国ニ死生スヘキノ義ニ至テ何ソ疑ヲ容レン、是レ余講孟劄記ヲ作ル第一義ナリ、故ニ開巻ニ於テ已ニ是ヲ論ス、合セ考フヘシ、第十八章
書き下し
易に云ふ如く、「君子は幾を見て作ち、日を終ふるを俟たず」の理にて、道の否泰、時の可否は聖人一目瞭然にして、速・久・処・仕已に初めに決す、亦明決ならずや。然れども其の事に当たり、其の国に居る時は否泰も可否も顧みず、唯だ心力の至極を尽くす、亦忠厚ならずや。聖人の忠厚、他国と云へども薄きに非ず、其の明決、父母の国と云へども鈍きに非ず。然れども人情の至り、二つの者の別なきこと能はざるは、聖人と云へども凡人と同じきことにて、所謂情の至る所、理も亦至る者是れなり。且つ凡人の情を以て考ふるに、余数年他邦に周遊す、至る所常に歓を尽くす、其の去るに臨んで又常に恋々として忍びざるの情あり、乃ち江山風月に至るまで、離合の感ある者の如し。然れども遂に去国の情に比し難し。萩城東南郭外大屋村の道傍に涙松と云ふあり、此の松を過ぐれば復た萩城を見ること能はず。故に俗に云ふ、旅立ちの人此の松を見れば皆涙を堕とさざるはなし、因りて此の名を獲たりと。宜しく此の松に因りて此の情を知るべし。孔子の遅々として行く、豈に復た別情ならんや。然れども此の情人々ありと云へども、此の情に因りて発明すること能はざるは凡人の常なり。夫れ人情自国を恋ふること斯に至る者他なし、君あり、親あり、墳墓あり、室家あるを以てなり。苟も思ひを爰に致さば、忠臣二君に仕へざるの理自ら明らかにして、防長の臣民は防長に死生すべく、皇国の臣民は皇国に死生すべきの義に至りて何ぞ疑ひを容れん。是れ余講孟劄記を作る第一義なり。故に開巻に於て已に是れを論ず、合せ考ふべし。第十八章。
現代語訳
『易』に言うように、「君子は兆しを見てすぐ立ち上がり、一日の終わるのを待たない」という道理で、道が塞がっているか通じているか、時が可か否かは、聖人には一目瞭然であり、速やかに去るか、ゆっくり留まるか、仕えずにいるか、仕えるかは、最初からすでに決まっている。これこそ明らかな決断ではないか。けれども、その事に当たり、その国にいる間は、塞がっているか通じているかも、可か否かも顧みず、ただ心と力の限りを尽くす。これこそ誠実で手厚い心配りではないか。聖人の誠実な心配りは、他国だからといって薄いわけではなく、その明らかな決断は、父母の国だからといって鈍るわけではない。けれども人情のきわみとして、二つの国の別がないわけにはいかないのは、聖人も凡人と同じことで、いわゆる「情の至るところ、理もまた至る」とはこのことである。また凡人の情で考えてみると、私は数年のあいだ他国を巡り歩き、行く先々でいつも楽しく過ごした。そこを去る時には、またいつも名残惜しく堪えがたい気持ちがあり、川や山、風や月にまで別れの感慨があるようだった。けれどもそれは、結局は故郷を去る時の気持ちには比べられない。萩城の東南の郭外、大屋村の道ばたに涙松というのがある。この松を過ぎると、もう萩城を見ることができない。だから世間では、旅立つ人はこの松を見るとみな涙を落とさない者はない、それでこの名がついたのだと言う。この松によってこの情を知るべきである。孔子がゆっくりと去ったのも、どうして別の情であろうか。けれども、この情は誰にでもあるとはいえ、この情によって物事の道理を悟ることができないのが凡人の常である。そもそも人が自分の国をこれほど恋い慕うのは、ほかでもない、君があり、親があり、先祖の墓があり、家族があるからである。もしここに思いを至らせれば、忠臣は二君に仕えないという道理はおのずから明らかであり、周防・長門の臣民は周防・長門に生き死にすべく、皇国の臣民は皇国に生き死にすべきだという義に至って、どうして疑いを差しはさむことがあろうか。これこそ私が『講孟劄記』を作った第一の意義である。だから巻の初めですでにこれを論じている。併せて考えるとよい。第十八章。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『講孟余話』盡心下 第十七章此の章、即ち萬章下篇首章中の一段にて、孔子の速・久・処・仕、各其の可に当たるを云ふなり。然れども疑ふべき者あり。告子下篇第六章に云く、「孔子魯の司寇と為る、用ゐられず。従ひて祭る、燔肉至らず、冕を税かずして行く」と。然れば遅々として行くに非ず。又孟子の斉を去る、「三宿して而る後に昼を出づ」公孫丑下篇第十二章とあり。孟子何ぞ孔子の「淅を接りて行く」に傚はざるや。余按ずるに、淅を接ると云ひ、冕を税かずと云ふ者は皆辞なり。三宿と云ふ者は実事なり。朱子前の告子篇に註して云く、「幾を見ること明決にして、用意忠厚なり」と云ふ、簡明の説と云ふべし。又楊氏の説を引きて云く、「孔子去らんと欲するの意久し。苟も去るを欲せず、故に遅々として其れ行くなり。膰肉至らざれば則ち微罪を以て行くべし、故に冕を税かずして行く、速やかなるに非ざるなり」と。亦善く明決忠厚の意を発すと云ふべし。
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『講孟余話』孟子序說然れども此の論は是れ国体上より出で来る所なり。漢土に在りては君道自ら別なり。大抵聡明睿智、億兆の上に傑出する者其の君長となるを道とす。故に堯舜は其の位を他人に譲り、湯武は其の主を放伐すれども、聖人に害なしとす。我が邦は上天朝より下列藩に至る迄、千万世々襲して絶えざること、中々漢土などの比すべきに非ず。故に漢土の臣は縦へば半季渡りの奴婢の如し。其の主の善悪を択んで転移すること固より其の所なり。我が邦の臣は譜第の臣なれば、主人と死生休戚を同じうし、死に至ると雖も主を棄てて去るべきの道絶えてなし。嗚呼、我が父母は何国の人ぞ、我が衣食は何国の物ぞ、書を読み道を知る、亦誰が恩ぞ。今少しく主に遇はざるを以て、忽然として是れを去る、人心に於て如何ぞや。我孔孟を起して、与に此の義を論ぜんと欲す。聞く、近世海外の諸蛮、各々其の賢智を推挙し、其の政治を革新し、駸々然として上国を凌侮するの勢あり。我何を以てか是れを制せん。他なし、前に論ずる所の我が国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、闔国の人は闔国の為めに死し、闔藩の人は闔藩の為めに死し、臣は君の為めに死し、子は父の為めに死するの志確乎たらば、何ぞ諸蛮を畏れんや。願はくは諸君と茲に従事せん。
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『講孟余話』附尾 讀保建大記一條跋。講孟劄記成る。因りて復た瀏覧すること一周、遂に名を講孟余話と改む。蓋し劄は鍼刺なり。凡そ其の記す所、精義を発し、文藻を摛ぶること、鍼の膚を刺して鮮血迸り出づるが如く、鍼の衣を刺して彩線絺繍するが如くにして、而る後以て称名と為すに足るのみ。而して余の此の著、豈に其れ然らんや。余の獄に在るや、囚徒胥ひ居り、其の已に家に帰るや、親戚盍簪す。時に乃ち孟子を把りて之れを講ず。其の訓詁を精しくするに非ず、其の文字を喜ぶに非ず、唯だ其の一憂一楽、一喜一怒、尽く諸を孟子に寓するのみ。故に其の喜楽に当りてや、孟子を講じて、復た益々喜楽し、其の憂怒に当りてや、孟子を講じて、復た益々憂怒す。憂怒の抑ふべからず、喜楽の歇むべからず、話に随ひ話に随ひ、稍積みて巻を成す者、即ち此の著なり。然らば則ち是れ特に講孟の余話のみ、何ぞ劄記と為すことを得んや。余已に囚徒親戚と、其の憂楽を同じくし、其の喜怒を共にす、亦已に足れり。而るに又之れを録して巻を成し以て世に問ふ、太だ贅ならずや。且つ此れを持して経学先生に問はんか、経学先生将に其の雑駁麁豪を罵らんとす。此れを持して文章博士に問はんか、文章博士将に其の鄙俚蕪陋を笑はんとす。然らば則ち当今の世、孰れか問ひ孰れか答へんや。噫、是れ吾が余話の録に已む能はざる所以なり。夫れ天下経学文章を以て教へと為す、蓋し亦久しいかな。経学益々明らかに、文章益々美にして、国威日に細く、外夷日に熾んなり。斯の道の道たる所以の者は、果して何くにか在る。則ち天下吾と憂楽を同じくし喜怒を共にする者、亦何ぞ独り一二の囚徒親戚のみならんや。而るに余屏居して世を謝す、世其の人有りと雖も、相従ひて晤言するに由なし。則ち余話の録、吾益々已む能はざるなり。噫、天下の士、其れ何を以て之れを教へん。安政三年、歳丙辰に次る、季夏の日、二十一回猛士藤寅、諸を松陰の囚室に書す。此の編、業を去年六月十三日に起し、今年六月十三日に卒る。中間或は作り或は輟め、居処已に変じ、会する者又異なり、而して正に期月に当りて、方に乃ち編を成す、亦奇ならずや。寅重ねて書す。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「孔子の魯を去るや、曰く、『遲遲として吾行くなり。』父母の國を去るの道なり。齊を去るや、淅を接して行く。他國を去るの道なり。」
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『講孟余話』孟子序說孟軻は騶の人なり、斉の宣王・梁の恵王に游事す。経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明らかならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生国を離れて、他国に事へ給ふこと済まぬことなり。君と父とは其の義一なり。我が君を愚なり昏なりとして、生国を去りて他に往き、君を求むるは、我が父を頑愚として家を出でて隣家の翁を父とするに斉し。孔孟此の義を失ひ給ふこと、如何にも弁ずべき様なし。
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『講孟余話』公孫丑下 第十二章此の章に於て仁人の心を知るべし。燕の楽毅が所謂「古の君子は交はり絶ゆるも悪声を出さず、忠臣国を去るも其の名を潔くせず」と云ふも此の義なり。孟子平生斉王を諫争教戒する者甚だ備はれり、而るに王曾て是れを聴納せず、故に孟子斉を去るなり。常人をして是れに処せしめば、必ず怒罵して斉王の非を数へ、自己の名を衒はん。而して孟子斉を去る事を記すること、前後凡そ五章、一言の怨怒の気なく、斉王を謗刺するの言なし。其の和気藹然、掬するに余りあり。且つ徒に言語の末然るに非ず、三宿して昼を出で、濡滞の議を顧みず、真に国を去りて其の名を潔くせずと云ふべし。
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